自分も「セレブ」になれるかもしれない

セレブという言葉は欧米と日本で用いられ方が異なる概念だが、日本では単純化すれば概ね「成功した裕福な有名人」といった意味で語られる。付け加えるならば、セレブは有名であるだけでなく、エリートのように難しい言葉を使うこともない、常に私たちの身近な存在である。

上述の通り不安が常態化する一方、それを拭うかのように人々は突如セレブの仲間入りをするような「一発逆転」を夢みており、実際にそのような成功者を生み出すチャンスが存在する。さらに現代社会はSNSによって、セレブにでも直接意見を送り、時には本人から返答が返ってくることもある。

写真=iStock.com/Jacob Wackerhausen

加えてテレビではセレブの生活が余すところなく放映されている。100年前の階級社会と異なり、セレブも一般人と同じような生活をしている姿が映し出され、セレブを身近に感じる一方、豪邸など成功者としての一面をのぞかせることから、人々は成功者に憧れと親近感を覚える。なぜなら、セレブは生まれながらのセレブだけでなく、自分ももしかしたらセレブ=celeblrity(名声)、つまり賞賛に値する有名人になれるかもしれない、と思わせてくれるからだ。

このことは、自分が現在生きている厳しい暮らしを忘れさせてくれるものであるが、それ故に一発逆転幻想を強化する側面もある。ヤングは米法学者ローレンス・フリードマン(1930-)の「金持ちや有名人のライフスタイルは大衆のアヘンである」という一節を引用する。インスタ映えするセレブの姿に憧れを抱く社会に、重くのしかかる一言だ。

「視点の自由化」と「自分のモノ化」

不安と期待が入り乱れる日々の中でセレブと同じ目線を可能にする社会では、自らが社会に排除されていると思うより、むしろ社会の多数派でいると感じるほうが心理的な満足を得られる。つまり、心理的な防衛反応として、自らをセレブの目線に位置づけて論じようとすることが多くなるというわけだ。

これはセレブへの同化だけを意味しない。SNSやテレビをみれば、日々あらゆる意見があらゆる立場から発信されている。そこで、こうした意見の中から現在の自分が心理的に満足できる視点を自分の意見と重ね合わせれば、個人の心理的な視点に立てば「コスパがいい」。したがって、我々は常に自分にとって都合のいい立場から発信する「視点の自由化」を心理的に内包していると言えるだろう。

簡単にいえば、自分の立ち位置は一貫しないまま、ポジションによって意見が変わるユーザーが多いということだ。昨今はツイッターやヤフーニュースのコメント欄でこうした事例が散見される。不倫は悪いと激昂したかと思えば、同じユーザーがセクハラ発言を平気で投稿する。例えばあるアイドルファンは、運営の立場からファンを否定したかと思えば、アイドルの立場から運営を否定し、しかしアイドルがスキャンダルを起こせばファンの立場からアイドルを否定する。どの立場から発言するかによって、投稿内容が変化する好例であろう(SNSは発言の履歴が残るので、投稿内容を参照しやすい)。