公務員になり、大阪に戻るのを期待した母

母が息子たちの将来に望んだのは、「目立たなくてもええから、人様の役に立つ人間にならなあかん」ということ。幼い頃から言われ続け、心に刻まれている言葉です。

私が農学部で専攻したのは、いわば農産物や微生物の力を借りて人の役に立つような技術を学ぶこと、今でいうバイオテクノロジーです。当時、瀬戸内海沿岸では松枯れの被害が広がり、化学肥料の空中散布で環境も壊されていく。そこで植物の中から松枯れの原因になる害虫を退治する物質を探す研究をしました。当時、就職先に志望した「三共(現・第一三共)」では医薬品と農薬を扱っており、大学の専攻が生かせるのではと応募したのです。

母は私の就職に際して、学校の先生など公務員をしきりに勧めました。自分の両親が教員であったこと、夫も公務員として人の役に立つ仕事に就き、堅実な生活を送ることができたからでしょう。けれど私は民間企業へ入り、しかも配属されたのは医療用医薬品の営業職。母は「営業職ができるんやろか」と案じ、「長男やから大阪に帰ってきてほしい」と残念な気持ちもあったと思います。私も会社へは自己申告で大阪勤務を希望したけれど、故郷には戻れぬまま。それでも長男の責務と、盆と正月には必ず帰省し、先祖の墓参りを欠かしませんでした。

母・昭子さんは女学校の同級生の兄と結婚。近くの泉大津市へ嫁ぎ、夫の実家で所帯を持つ。家事、育児、同じ敷地の別棟に住む義父母のご機嫌伺い、親戚や近所付き合いと多忙な日々。遠足、運動会、授業参観など学校行事も欠かさず、子どもたちも寂しい思いはしなかった。

実は私たち家族にとって、どうにも受けとめがたい悲嘆の日々がありました。1985年夏、日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落、520人が犠牲となった事故で弟の命が突然奪われたのです。出張で東京から大阪へ向かう便に乗った弟はまだ27歳と若く、私たちは嘆きや悲しみ、悔しさもすべて味わいました。息子を亡くした母のつらさは壮絶で、泣き崩れる母を支えながら、「子が親より先に逝くものではない」ことをまさに痛感したのです。

夫婦2人きりの生活がようやく落ち着いたのは、父が定年退職し、互いに60代になってからでしょうか。母も習い事を始め、趣味の仲間との交流も楽しんでいたようです。私が帰省すると、帰り際にはいつも手を振りながら、「元気にやりや」と温かな笑顔で見送ってくれました。

母が79歳のとき、両親を自宅のある神奈川県厚木市に呼び寄せました。父が病気を患い、母一人で看病しながらの暮らしが厳しくなったからです。住み慣れた大阪を離れるのは、かなりの覚悟があったと思いますが、わが家から目と鼻の先に一戸建てを新築し、2人を迎えました。3年後に父は亡くなりましたが、すぐ近くで暮らしながら、親孝行できたようでうれしかったですね。