各界の著名人が、今も忘れえない「母の記憶」とその「教え」について熱く語る――。
(左)母・昭子さんは1927年生まれで6人姉妹の三女。実家はJR阪和線の久米田駅近く。岸和田高等女学校時代は、戦時の学徒動員で双眼鏡のレンズ研磨工場で働き、卒業後は郵便局で窓口業務に就いていた。(右)第一三共ヘルスケア 代表取締役社長 西井良樹さん

母と暮らしたのは、高校生までの18年間。あの頃は母の生い立ちなどあまり知らず、今になって親戚から聞かされることが多いですね。母は大阪府岸和田市で生まれ、両親ともに小学校教師という家庭で育ちましたが、父親が早世したため、女学校卒業後は家計の足しにと郵便局に勤務。地元では“マドンナ”と呼ばれ、憧れの存在だったそうです。

私の父は大阪市役所土木局の工営所に勤め、一緒に大阪市内へ出かけると、「この道路はお父ちゃんがつくったんやで」「この橋をかけたんや」と自慢したものです。台風や洪水警報が出ると、道路の冠水や堤防決壊への対応で帰れない日もあり、気丈に家を守る母の姿が頼もしく見えました。

私には2歳下の弟がいて、やんちゃ盛りの頃は喧嘩ばかり。体力では勝てない弟は兄の私にいろんな物を投げつけてくるので、家のあちこちが傷だらけに。母もあきれ果て、「(ブリキの)バケツの中にサワガニを入れたように騒がしい」とよく漏らしていました。

喧嘩になれば「あんたは兄ちゃんやろ!」と叱られるのが長男の宿命です。悪さをすると父に叩かれ、真っ暗な押し入れに放り込まれるのも怖かった。ワーワー泣き叫んでも出してもらえず、泣き疲れた頃、そっと母の声が聞こえる。「何べん叩かれたら、わかるんや?」とやさしく諭し、施錠を解いてくれました。

育ち盛りの息子2人を抱え、食事もあれこれ工夫していたようです。ことに忘れられないのは柔らかいクジラ肉のすき焼き。昔は牛肉や豚肉より安価で手に入り、赤身はタンパク質が豊富。生卵とともにたらふく食べられ、それはおいしかった。

母はもの静かで控えめ。何事も口うるさく指示された記憶はありません。むしろ子どもの意思に任せ、自分がすべきことは自分できちんと考えるという習慣を自然に身につけさせてくれたのではと思います。

私が岸和田の府立高校へ合格したときは、「お母ちゃん、うれしいわ」とずいぶん喜んでくれました。高校を卒業すると親元を離れ、岡山大学へ。母も、見知らぬ土地へ行く息子が心配だったのでしょう。下宿の下見や入学式にも同行し、4畳半ひと間の下宿生活が始まると、果物や菓子、餅などが入った郵便小包が折々に届いて、手紙も添えられている。親のありがたさが身に染みました。