松本浩利が、いすゞ自動車の栃木工場に派遣されたのは、2005年6月。43歳のときである。栃木県小山市出身の松本は、地元の商業高校を卒業した後、正社員として、JRの貨物ターミナルの下請け会社で操車業務の仕事に就いた。

「でも、その後は何度か転職を繰り返してしまって、30代半ばからは派遣会社に登録して、派遣先で働くというパターンになりました。最初に行った工場で驚いたのは、正社員との間に明らかな差別待遇があることでした。駐車場は建物から一番遠く、雨の日はびしょ濡れ。更衣室もなく、社員食堂も利用できません」

しかも、正社員と同じ仕事をして、月の手取りは16万~17万円。家賃3万2000円のアパートに住み、通勤用の車のローンを抱えた生活では、とても貯金はできなかったと話す。

時給は1100~1200円と、さほど変わらないものの、残業が多く、夜勤手当も付いて、月収25万円ほどになるいすゞでの仕事は、それまでの仕事と比べると派遣としてはそれなりに納得がいくものだったという。翌06年からは、直接雇用の期間従業員となり、3カ月ごとに満了金ももらえた。

「できれば、いすゞの正社員になりたかったですね。正社員登用制度もありましたが、若い人が優先される。社長に会いたいと思い、会社の株も買いましたよ。だって株主なら、対等に話せるじゃないですか……」

3年間働き続けてきた松本に対して、08年11月に会社側は解雇を通告する。しかも、紙一枚での通告で、冬の寒空に放り出すという情け容赦のないものだった。それを機に、昨年12月に非正規労働者の組合を結成し、地位保全を求めた裁判を戦っている。

松本は話す。「私たち、よく道具にたとえられます。必要なときだけの使い捨てだと。私はそれでかまいません。でも道具だって年季とともに使い勝手がよくなるんです。だから会社には、もっと利口な使い方をしてほしいといいたいんですよ」。

この言葉には、期間従業員として製造の現場を支えてきた意地とプライドが滲み出ている。

「職を失って、婚約者の女性と別れた人もいますし、自殺を考えた組合員もいるほどです。私も蓄えはなく、財産はいすゞの株券だけ。別に大きなテレビが欲しいわけじゃない。普通に暮らして、おいしい酒を飲んで、結婚もしたい。ただそれだけなんです」

栃木県内のキヤノン宇都宮光学機器事業所でも期間従業員の雇用調整がなされた。レンズの研磨工程で、07年10月から働いていた宮田裕司(29歳)も、ごくささいなことをミスだと指摘されて、翌年の8月末、契約期間満了をもって解雇となった。