着実に忍び寄る「老後崩壊」。もはや日本人の9割にとって他人事ではない。「下流老人」と「ハッピー老人」をわける境界線はどこにあるのか。今回は、30代での無理がたたって、うつ病を発症し、現在は生活保護を受けているという60歳のケースを紹介しよう――。

20代は気合で乗り切ってた

「健康が大事なんて耳にタコができるほど聞いているけど、今20年前に戻れるなら、すぐに健康診断に行ってると思うよ」

タバコを咥えながら、記者にそう答えた稲葉洋二さん(仮名・60歳)。着込んだジャンパーの袖から覗く右手の手のひらには無数の傷が付いている。稲葉さんのキャリアは、この国の高度経済成長期のあとに訪れたモータリゼーションと共にあった。稲葉さんは1956年、沖縄本島で生まれた。那覇市内の偏差値57の普通科高校を卒業後、進学はせず飲食店のアルバイトなどで職を転々としたあと、25歳で上京した。きっかけは急激に拡大する物流市場と、それに伴う長距離トラック運転手の求人数の増加だった。

「北は青森から南は神戸まで、どこでも行きましたよ。とにかく稼げるって聞いたので。当時は今ほど高速道路もなかったから、今以上に体力勝負でした。20代は気合で乗り切ってたんでしょうね」

写真はイメージです

バブル景気前夜の80年代中ごろ、稲葉さんの月収はうなぎのぼりだった。

「当時の平均月収が20万くらいだったので、今でいえば37万円くらい。移動時間が長いから金は貯まるいっぽうで、使うときは赤坂や新橋で豪快に使ってましたよ」

東京に戻るたびに稼ぎは飲み代や恋人との交際費に消えた。稲葉さんが散財をやめなかったのは、時がバブル景気に沸く80年代後半だったからにほかならない。

「運転ができれば、なんとかなるだろうと思っていました」

トラック運転手を5年ほど勤めたあと、今度は知人の紹介でタクシー運転手に転職した。

「バブル景気の真っ只中だったので、タクシー運転手はボロ儲けだった。特に夜の銀座で拾うお客さんがドル箱でね。小田原や木更津まで帰るお客さんもいましたよ」

当時の月収は、今でいうと50万円ほど。大田区のアパートから世田谷のマンションに引っ越したのもこのころだった。

そんな順風満帆な生活に急激に亀裂が走ったのが95年のこと。深夜の運転が続いた稲葉さんは、39歳にして白内障と高血圧と診断される。健康診断をろくに受けていなかったツケがまわってきたのだ。家族の支えはなかったのか。

「33歳で一度結婚しましたが、仕事が忙しくて家庭に身を置く時間はほとんどなかった。2年ほどで別居して離婚しました。夜は家にいないもんだから、家族関係が冷えきるのはあっという間でしたよ」

結果、仕事を休職。オフの日は飲み歩いていたこともあり、貯金はみるみるうちに消えていった。

そんな独身生活が半年ほど続くと、職場復帰はいよいよ困難になる。タクシー会社は退職し、自宅での引きこもり生活が始まった。

「働いてたころは沖縄の実家に稼ぎの3分の1を送ってたんですよ。でも、親も45歳のころにどちらも亡くなった。身寄りもなくて、東京で過ごすしかなくなったんだけど、ストレスと持病で今度はうつ病にかかっちゃって。家から一歩も出れなくなってからホームレスになるのはあっという間でした」