「私、中身はオヤジなので」と一部の女性が言う理由

ところが、年代問わず男性社会型キャリアライフでの戦闘歴が長いタイプの女性と話をすると、時折おやっと思う共通点がある。素で男子生徒と間違われる少女時代を歩んだゴツい私から見れば折れそうなほど華奢で小さくて可憐な女性なのに、「私、中身は男なので」「オヤジですから」と言う。誰も聞いていないのにわざわざ教えてくれるあたり、“言う”より“言い張る”、結界を張る行為に近いものが感じられ、それは女性的な極に近い座標から始まった男性社会への適応の結果なのだろうと思わされるのだ。たくましい元・演劇部男役の私が(不本意ながら)男性側に寄った座標から社会適応して、自分を「中身は乙女だ」「繊細なんだ」と言い張るのと同根なのではないかと推察し、彼女たちの道のりの苦労に思いをはせるのである。

「中身はオヤジですから」とはつまり「女だと思ってなめんなよ、一人前の職業人としてちゃんと尊重しろよ」という意味であり、逆に「中身は乙女だ」にはつまり「頑丈そうに見えますが、あまり粗雑に扱うと意外ともろいこともあるので、ほんの少しだけ丁寧に扱っていただけると大変助かります」という言外の意味が隠されている。つまり、自分が本来位置しているポジションから導かれがちな一般判断への否定を言外に示唆しているのだ。

本来は可憐なキャリア女性たちが自分を「オヤジですから」と言う背景には、それぞれに個人的な戦史、蓄積がある。男性社会適応の結果であると言った通り、彼女たちは自分を女性側から男性側に寄せて頑張ってきた。女性側の価値観や視点から、男性社会を観察し理解してきたことで、彼女たちは女性が男性と同じ空間で共存するための話法、文法を自覚的に身につけているのだ。

べつにゴツいわけでもないキャリア女性たちが自分を「オヤジですから」と言う背景には、それぞれの歴史があるのだ。

例えば自分の感じているふわっとした「共感」「感情」などの感覚を言語化し、場合によっては説得力を与えるために数値化する。相手の思考のクセに合わせて、男性が好むスポーツや戦国武将や幕末に例えて話を進め、女性的な「共感」でなく男性的な「理解」を引き出す。男性同僚や上司、部下へ意思を明瞭に伝達し、指示を間違いなく伝える訓練を日々繰り返していると、論理的に思考して話すことが苦でなくなり、当然となる。その男女のブリッジ的な役割をこなせる自覚と自負が、「(外見は女ですけど中身は)オヤジですから」と表現されているのだ。