災害廃棄物の受け入れにバッシングも
【塩田】現在2期目で知事在任7年半ですが、1期目の11年3月に東日本大震災に遭遇した際の対応が注目を集めました。地震発生時はどこで何を。
【吉村】県議会があった日で、予算特別委員会が終わった後、議会棟から戻る途中、秘書課の前を通ったとき、ものすごい音の警告音が鳴りました。知事室に入った途端に、ぐらっぐらっとなり、しばらく揺れました。3階の危機管理室の6つくらいのテレビ画面にいろいろな放送が全部入っていて、そこに行って大変な状況になっていることがわかりました。
県内の市町村からは情報が上がる仕組みになっていましたが、県外からは入るようになっていませんでした。停電など県民のライフラインがダメになっていたので、まずは復旧を指示しました。
翌日の土曜日、ほかの東北5県の知事に電話をしました。秋田は、ライフラインが復旧したら応援にいくと言っていました。青森は、太平洋側がやられて、ガソリンなどが足りないということでした。
岩手の達増拓也知事は「陸前高田市が丸ごと飲み込まれてしまった」と悲痛な声でしたが、「山形県、ありがとう」と言われました。山形県の消防隊が結集して陸前高田市に入り、救援活動をやっているとのことでした。消防で取り決めがあり、新庄に集結して岩手県に向かうと決まっていたようです。福島の知事には全然つながりませんでした。
宮城県庁には当初から職員2人を派遣し、随時、情報を取っていました。3月23日に私から、「3万人を引き受けられます」と申し出ましたが、なかなか進まなかったです。一方、福島県からは突然の原発事故発生により、多くの方が避難して来られました。私から県内の各機関に親切に対応するように指示しました。
【塩田】被災地の隣県の知事として真っ先にやらなければいけないと思ったことは。
【吉村】放射線の問題などで、いろいろな声がありましたが、どんな状況であろうと、人間は受け入れなければ、と思いました。病院や保健所など、みんな大変な状況でしたが、「とにかく受け入れてくれ」と言いました。山形県には原発がなく、放射線の専門家がいなかったので、私が直接、内閣府に電話して「専門家を派遣してほしい」と頼みました。厚生労働省から専門家を2人派遣してもらい、1週間ほど県内の病院とか保健所など全域を回ってもらいました。
【塩田】山形県は災害廃棄物の受け入れを真っ先に決め、注目されました。
【吉村】映像で見て、その後、5月の連休に現地を回って、実際にものすごい瓦礫の山を目にしたとき、このままだと、立ち直るのは気持ち的になかなか大変だろうなと思いました。1県で19年分に相当するなど、報道で知ったとき、これは手伝わなければならない、同じ日本社会なのでそうしなければ、と思いました。なんでもかんでも受け入れるのではなく、現地で、そして持ってきてからも放射線を測り、埋め立てたら、その後もずっと測定し続けて、それを全部、公表する。県民の気持ちへの配慮も必要で、そうやって受け入れなければならないと。
全国知事会でも「みんなで分担しましょう」と言ったんです。東京都だけ、反応がありました。後からわかりましたが、当時の石原慎太郎都知事がうちの県民に「隣の知事がやると言うんだから、俺たちも頑張らなければ」と言ったそうです。山形県の次に、東京都がすぐに受け入れてくれましたが、それ以外はなかなか大変のようでした
逆に全国から「受け入れたら、山形県に行かない、山形県の物は買わない」と、すごい数のバッシングメールがきました。 500は超えていました。みんなが助け合わなければいけないのに、何なんだこれは、日本の社会はおかしくなっているのでは、と思いました。
【塩田】この問題に対する山形県民の受け止め方は。
【吉村】県民は静かだったんですよ。そっと聞こえてきたのは、「俺たちだって、本当は受け入れたいとは思わないけど、助け合わなければいけないから黙ってるんだ」という声でした。1年後くらいに、県外の山形県出身者から、「よく受け入れてくれた。実は私たち、誇りに思っているんだ」という声がぽつぽつと入るようになりました。一番早く、しかも一番多く瓦礫を受け入れて、あの被災地の瓦礫の山が消えてよかったなあと思っています。