1920年の戦後反動恐慌で大きな影響を受けた日本の紡績業。彼らはいかにして生き残ることができたのか。その対応策から現在の危機を生き抜くヒントを見出す。

100年に一回という不況に対応するには、われわれの経験をもとに解決策を考えるのではなく、歴史からヒントを得て対策を練り上げる必要がある。

前回は昭和4(1929)年の大恐慌をきっかけに飛躍した松下電器の創業者・松下幸之助氏が何をされたかを振り返った。今回は、その約10年前、大正9(1920)年の戦後反動恐慌の際に、日本の紡績業界がどのような対応をしたかを振り返ってみよう。

ここでいう戦後とは、第一次世界大戦の戦後である。第一次世界大戦の主戦場となったのは欧州と大西洋であった。そのため、欧州からの工業品の世界市場への供給が閉ざされ、世界市場の工業品の価格は高騰した。この高騰は、工業化を進めつつあった日本には僥倖であった。日本の工業化が急速に進んだのである。しかし、戦争が終わり欧州からの供給が再開されると、その反動が起こった。価格の調整が一気に起こって工業製品の価格は急落したのである。それが戦後反動恐慌である。私の研究室の今井君は、この恐慌への対応の巧拙が日本と英国の紡績産業の明暗を分けたという視点から博士論文を執筆中である。彼の研究をもとに日本の紡績産業の対応を見てみよう。100年に一度という不況への対応を考えるための貴重なヒントとなるだろう。

前回取り上げた29年の恐慌は、今回とほぼ同じように、秋から冬にかけて深刻の度を増していったが、20年の恐慌は春3月の株式の暴落から始まった。4月には、増田ビル・ブローカー銀行が破綻し、証券市場はふたたび暴落を起こした。証券市場の取引が停止されるという事態にまで至っている。この暴落が商品の相場にも波及した。とりわけ影響が大きかったのは綿糸紡績業であった。綿糸の価格崩落は綿糸の生産者である紡績会社だけでなく、綿糸の顧客である織布業者や流通業者にも深刻な打撃を与えた。織布業者や流通業者は、綿糸価格の高騰時に先物で綿糸を予約していたからである。綿糸の暴落で、先物で綿糸を予約していた顧客は大きな損失を被ることになった。

この苦境に対応するためにつくられたのは、紡績企業、綿糸商、輸出綿糸商のシンジケート団であった。このシンジケート団は、企業間の利害対立で苦労をしたが、大阪の大手紡績会社が中心となって、より弱い綿糸・綿布商、日本各地の機業地を救済するためのスキームを生み出した。そのスキームの中心となったのは、暴落した綿布の買い取り輸出、ならびに先物の総解とけ合いであった。総解け合いとは、取引当事者の合意のもとでつくられた一種の徳政令で、先物予約はなかったことにするという合意であった。解け合いは、紡績業者に追加的な損失をもたらすが、これによって顧客を救うことで、日本の紡績業は生き残ることができたのである。