未曾有の危機には、「思いもつかない」ような対応策が必要だ。今からおよそ100年前、日本が直面した昭和金融恐慌。危機を乗り越えた松下幸之助氏の対応に、その手がかりを見出す。

100年に一度といわれる危機が起こっている。ますます深刻になる様相もある。このような大きな危機に対応するためには何をすべきなのだろうか。その対応策は、通常の不況への対応の仕方とは異なるはずである。言い換えれば、われわれに馴染みのある対応策ではなく、われわれが思いもつかないような対応策を取らなければならないと考えたほうがよい。その対応策を考えだす手がかりは、100年前の危機にうまく対応した企業、それをてこに発展した企業の対応策の研究である。ほぼ100年前に起こった大きな不況は、1929(昭和4)年10月ニューヨークの株価暴落をきっかけとした世界恐慌である。日本では昭和金融恐慌と呼ばれることもある。そのときの経験を詳しく書き残しているのは、松下幸之助氏である。

昭和の初めは松下電器の発展期であった。昭和3年には住友銀行から融資を受けた15万円の資金で本店並びに本店工場の建設に取り掛かっている。しかし、そこから未曾有の危機が始まる。この昭和4年の危機について松下氏は著書『私の行き方考え方』で次のように書いている。

「ところがこの年の7月に、浜口内閣の成立とともに政府は緊縮政策をとった。しかし井上蔵相によって金解禁を計画せられるに及んで、財界は日に日に萎縮して、不景気の徴候が一層加えられたのである。そして11月には、いよいよ恐れていた金解禁が予告せられるにいたった。かねて予期していたことであるにもかかわらず、一般財界は急激なる混乱をきたし、物価はいっせいに下落するのみならず、その売れ行きもまた著しく減退をきたしたのである」

「ちょうどこのころ自分は病床に身を横たえていたが、11月、12月にかけて不況がますます深刻になって、松下電器においても世間同様にその製品の売れ行きが急速に減退してきた。そして12月の末には倉庫にはいりきれないほどの品がたまったのであった。あまつさえ建築後まもない資金の枯渇した時分であったから、一層経営的に困難を痛感するにいたったのである。このままで仕事を続けてゆけば、やがて行き詰まること火を見るより明らかである。

製品の売れ行きが半数以下となったのに対処するには、生産も半減しそれにつれて従業員も半減するということさえ考えなくてはならぬのである。この肝心かなめの時に、所主たる私は病気のために臥せっているのだ。しかも主治医の注意によって、12月の20日より西宮に出養生(でようじょう)することに決まっていたというありさまである。私に代わって店を見てくれていた井植、武久の両君は、いろいろ心配してその善後策を考えてくれた結果、ひとまず従業員を半減し、この窮状を打開するよりほかはないという結論を持って私に相談しにきてくれたが、いよいよ最後案たる結論を聞いて不思議にも急に元気が出て、思案に余っていた打開の途(みち)が頭にひらめいたのであった。