東京女子高等師範、現・お茶の水女子大学に進む選択肢もあった

しかし、嘉子にはそのどれもピンとこない。この時は彼女もまた固定観念に縛られていた。女が大学で何を学んだところで、結婚すれば専業主婦となりそれを活かすことはできない。そう考えるとすべてが無意味なものに思えてくる。進むべき道が見つからず悩んでいた。

そんな時に、

「結婚して大人しく家庭に収まる。お前は、そんな普通の女になってはいけない。何か専門の知識を学んで、それを活かせる仕事に就くのがいいだろう」

父からそんなアドバイスをされた。

「法律を学んでみてはどうか? お前には向いていそうだが」

さらに、こう言われた。しかし、当時は女性が法律を学んでも、それを仕事にすることはできない。弁護士法では「日本臣民ニシテ民法上ノ能力ヲ有スル成年以上ノ男子タルコト」と、弁護士資格を男性だけに限定していた。

しかし、嘉子が女学校を卒業した翌年、昭和8年(1933)にはこの弁護士法が改正される。弁護士資格を取得できるのは「帝国臣民ニシテ成年者タルコト」と、女性にもその門戸が開放された。貞雄は法学部出身者だけに法曹界にも詳しく、こうなることを予測していたのかもしれない。そして、自分の娘がその先駆者になることを期待したのだろうか。

法律を学び女性進出の先駆けになるという話に心ひかれた

父の話を聞くうちに嘉子もその気になってくる。法律を学ぶ女。自分が先駆けになる……と、そこにフロンティア精神を刺激された。

未開の地に足を踏み入れることには、不安や恐怖よりも好奇心のほうが勝るタイプ。自分がそれに成功すれば、後につづく女性たちのいい目標にもなるだろう。リーダー気質の彼女にはそれも重要なポイントだった。

しかし、この時はまだ弁護士法改正以前のことでもあり、弁護士になって法律家を職業にしようとまでは思っていない。ただ、

「女子大学で文学や英語を学ぶよりは面白そう。何かの役には立ちそうだし」と、軽く考えていたふしがある。そんな軽い考えで人が驚くような大胆な行動にでる。それもまた、彼女らしいところではあるのだが。

娘がその気になっていることを察した貞雄はさらに、

「明治大学専門部を受験してみてはどうか」と、勧めてきた。

戦前は多くの私立大学が専門部を設置していた。大学が旧制高校や大学予科を経ないと入学できないのに対して、専門部や専門学校は旧制中学校などの中等教育機関を卒業していれば受験することができた。

また、専門部を卒業すれば、個別審査なしで本校の大学に進むことが可能だった。当時、大半が内部進学していたというから、私学の専門部は北海道や京城(現在のソウル)など一部の帝国大学などが設置していた予科のようなもので、大学本校へ進学するための基礎知識を学ぶ場所と考えられていた。

1929年の明治大学女子部開校式
1929年の明治大学女子部開校式、『明治大学百年史』 第二巻 史料編II、1988年(写真=明治大学百年史編纂委員会/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons