2023年上半期(1月~6月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2023年6月18日)
織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼軍との間で起きた長篠の戦い(1575年)で勝敗を分けたものは何だったのか。戦国史研究家の乃至政彦さんは「騎馬隊を鉄砲隊が蹴散らしたからではない。注目すべきは、信長が仕掛けた用意周到な作戦にある」という――。

※本稿は、乃至政彦『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

長篠合戦図屏風
長篠合戦図屏風(画像=長浜市立長浜城歴史博物館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

岡崎城にいる内通者と接触しようとした武田勝頼

武田勝頼の狙いは、三河・遠江の徳川領であった。武田軍は先遣隊と武田勝頼本隊の二手に分かれ、信濃から三河へ進軍した。ここからは、金子拓氏の『長篠の戦い 信長が打ち砕いた勝頼の“覇権”』(戎光祥出版社、2019)概説に沿いながら私見を交えて説明していく。

二次史料主体の見解ではあるが、武田軍は岡崎城にある徳川家臣の内通に乗じて出陣しており、その目的は岡崎城の制圧にあったと考えられている。岡崎城はかつて家康の居城であったが、家康は遠江浜松城に移転しており、その嫡男・松平信康の居城であった。

その信康が出陣して勝頼の軍勢に接近する。岡崎城内の内通者にとって裏切りの好機であったが、ここでその企てが発覚し、関係者は捕獲され、全ては失敗に終わってしまった。

天正3年(1575)4月30日、勝頼は浜松城から接近した徳川家康の軍勢と交戦してこれを吉田城に追い払った上で、三河吉田城と二連木にれんぎ城を放火した。すでに岡崎制圧は困難と化していたが、ここまでの戦果に自信を得ていたらしい。

長篠を決戦の場と考えたワケ

ただ、ここで長篠へ「一動ひとはたらき」しようと考え、翌日の5月1日に奥平信昌の籠る長篠城を攻めた。突発的な判断に見えるが、俯瞰ふかんすれば勝頼の戦略的意図が見える。

三河への本格侵攻に長篠を無視することはできない。それに城主の信昌は、今川、徳川、武田、そしてまた徳川へと帰属先を転々とした領主だが、勝頼を裏切って徳川に帰参した際、勝頼は人質である信昌の身内や家臣を処刑した。

信昌は家康長女と婚姻することが決まっており、家康がこれを見殺しにすれば、家康の三河支配は崩壊する。すなわち勝頼の狙いは、家康を長篠近くに引き出し、決戦することにあっただろう。岡崎を奪取できなかった以上、家康に痛打を与えてこれまでの戦果を確たるものとしたかったのである。