日本赤十字看護大学 名誉教授として精力的に活躍する、看護界の重鎮・川嶋みどりさん。戦下に生まれ、まだまだ女性が働きづらい時代に、60年以上も看護師として現場に立ち続けてきた。川嶋さんは「あの頃は結婚したら、仕事を辞めるのが普通の時代。でも、私は両親に反対されても、同僚に変な目で見られても辞めようとは思わなかったの」という――。

91歳で新雑誌を創刊

緑あふれる東京・広尾の一角に、日本赤十字看護大学のキャンパスがある。1890年に日本赤十字社病院で看護婦の養成が始まり、1945年の敗戦翌年には「日本赤十字女子専門学校」が設立された。さらに短大から4年制大学へと、130年余にわたり看護教育が受け継がれてきた。

日本赤十字看護大学 名誉教授 川嶋みどりさん。「東京看護学セミナー」世話人代表。1995年第4回若月賞、2007年第41回ナイチンゲール記章受賞。
筆者撮影
日本赤十字看護大学 名誉教授 川嶋みどりさん。「東京看護学セミナー」世話人代表。1995年第4回若月賞、2007年第41回ナイチンゲール記章受賞。

そんな日本赤十字看護大学で今も名誉教授として活躍する川嶋みどりさん(92歳)は、まさに戦後の看護の歴史とともに歩んできた一人だ。看護界の重鎮として後進の教育に尽力し、昨年には91歳にして『オン・ナーシング』という新雑誌も創刊。今なお看護の在り方を追求し続けるフロントランナーである。

川嶋さんがかつて教員だったころは、学生からよく「なぜ、60年以上も看護師を続けてきたんですか?」と聞かれたそうだ。その度に、決まってこう答えていたという。

「それはね、看護大好きだから。このままではいけないっていう思いが強くって、もっとよくしていかなければと思っていたら、とうとう今日まで来ちゃったの……」

ずっと、勉強がしたかった

看護の道を選んだのは「もっと勉強がしたかったから」と、川嶋さんは子供時代を顧みる。

川嶋さんが生まれたのは1931年、満州事変の始まった年に。朝鮮京城(現在の韓国ソウル)で誕生した。銀行員だった父の転勤に伴って、幼少期~15歳になるまでは韓国、中国各地の小学校、女学校へと転々と転校を繰り返した。女学校の前半は、戦争の学徒動員で作業に明け暮れる日々だったという。

終戦を迎えた1945年、一家は引き揚げ船で父の故郷である島根県へ。仕事も食べ物もない中、両親は慣れない農業を始めたが、なかなかうまくはいかない。6人きょうだいの長女だった川嶋さんは苦労する両親の姿を目にして、どうしても進学の願いを口に出せなかった。そんなとき女学校の保健教諭から、学費もほとんどかからず資格を取得できる道があると聞き、同じ悩みを抱える友人と共に大喜びで受験したのが、日本赤十字女子専門学校(日赤女専)だった。

「寮生活は規則が厳しく、先輩への礼儀や言葉遣いをみっちり鍛えられました。食糧難でいつも空腹を抱えており、暖房もなかったので寒さが体にこたえました。そのような環境に耐えられないと半数が荷物をまとめて出ていったので、40人が入学して卒業まで残った同級生は26人。でも、私は勉強できるのがうれしくて。それに戦後すぐの女学校は封建的な学風で、自由な言論が許されず窮屈でした。そっちでの生活の方がつらかったので、赤十字での寮生活を私はあんまり苦には感じなかったの」

【連載】Over80「50年働いてきました」はこちら
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敗戦で物資が極度に不足していた当時、乏しい医療材料を工夫して使うしかない看護師たちの仕事は想像以上の過酷さだった。寮生活をする学生も朝5時半には起床、毎朝7時に病棟へ実習に行き、授業と実習を挟みながら一日8時間以上は学ぶ日々。2年生になり夜勤実習がスタートすると、夜勤は1週間ぶっ通し。人手不足から学生でも病棟を一人で任されるなど、学生気分ではいられない緊張感のある日々だった。

「学生気分ではいられない日々の中、私たち学生はすごく背伸びをしていたと思います。しんどいときには、とにかく看護婦は尊い仕事、専門職なのだと、常に自分に言い聞かせていました。でも、私の本音では“そうかな、本当にそうなのかな……?”という疑問もずっとあったんです。実感がなかったんですね。卒業式では答辞を読まされたときなどは、立派なことを書いていたけれど、心の底からそう思っていたわけではない気がします。私が本当に看護の力を知ったのは、トシエちゃんという女の子を看護したときでした」