混信を避けるためチャンネルの間をあけた

関東・中京・近畿の三地区で、テレビ放送を開始することは決まっていた。そこにこの貴重な枠を、どう割り振るか。考えねばならないのは、混信の問題だ。3チャンネル(102~108メガヘルツ)と4チャンネル(170~176メガヘルツ)の間だけは周波数が離れているので問題ないが、同地区で5チャンネル(176~182メガヘルツ)と6チャンネル(182~188メガヘルツ)のように周波数が近い局が並立していると、混信が起きて映像や音の乱れが発生する。また、たとえば関東と中京で、同じチャンネル番号の局が違う内容の番組を流すと、両者の境界地域ではやはり混信が起こりうる。

こうしたさまざまな条件を勘案し、関東地区には3・4・6チャンネル、中京地区には3・5チャンネル、近畿地区には4・6チャンネルが割り当てられることに決まった。NHKは関東・中京で3チャンネル、近畿で4チャンネルを割り当てられるが、後に米軍から1・2チャンネルの電波帯が返還された際、関東は1チャンネルへ、近畿は2チャンネルへ移動した。東海地区では1チャンネルに民放の東海テレビが入ったため、NHKは3チャンネルのまま今に至っている。

1957年には多くの企業による放送免許争奪戦が起こった

こうしてテレビブームが拡大すると、他社も黙ってはいられない。何しろ、テレビは大量の映像データを送らねばならないから、ラジオよりも遥かに広い周波数帯域を必要とする。となれば、設置できるテレビ局の数はそう多くはなく、出遅れれば永遠にテレビ局を持てなくなってしまう。新聞などマスコミ各社はもちろん、出版社、映画会社、宗教団体などなど、多くの企業や団体が放送局開設に動き出したのだ。

1957年には、関東地区に3局、近畿地方に2局、中京地区に1局、その他各地方で1局ずつのテレビ局開設を認める「第一次チャンネルプラン」が発表された。放送免許を求めて殺到した多くの企業をその豪腕で捌いたのが、かの田中角栄であった。39歳の若き郵政大臣は、申請者27社の代表を集めた懇談会で、自身のまとめた調停案を元に申請者同士の合同を勧告した。競合各社は、どう見ても「懇談」や「勧告」ではなく、「申し渡し」でしかなかったその案に従う他なく、いがみ合ってきた経緯を捨てて合同に向かう。文化放送・ニッポン放送・松竹・大映・東宝などは共同で「富士テレビジョン」(現フジテレビ)を設立し、東映・日経新聞・旺文社などは、難航の末に「日本教育テレビ」(NET、現テレビ朝日)を立ち上げる。

すでに放送を開始していた日本テレビの「4」、TBSテレビの「6」に続き、富士テレビジョンには「8」、NETには「10」のチャンネル番号が与えられた。奇数が使われないのは、前述した通り混信を防ぐためだ。その他、中京・近畿他の各地にもテレビ局が開局し、テレビ界は花盛りの様相を呈し始める。