オウム真理教は、坂本堤弁護士一家殺害事件から3カ月後の1990年2月、衆議院選挙に信徒25人が立候補し、全員が落選した。教祖の麻原彰晃は「これは国家による陰謀だ」と主張し、教団の武装化へ急速に舵を切った——。
※本稿は、松井清人『異端者たちが時代をつくる』(プレジデント社)の第1章「『オウムの狂気』に挑んだ6年」の一部を再編集したものです。
武装化するオウム
もはや捜査の手は伸びてこない、と高を括ったのだろう。麻原彰晃(本名:松本智津夫)の増長は留まるところをしらず、信徒たちは教祖への帰依を深めていった。
オウム武装化のきっかけは、坂本事件から3カ月後、1990(平成2)年2月に行われた衆議院選挙である。すでに述べたように、麻原を筆頭に信徒25人が「真理党」から立候補。若い女性信徒にゾウの帽子をかぶらせ、街宣車の上で踊らせると、マスコミは「オウムシスターズ」と名付けてもてはやした。
25人全員が落選すると、麻原は「これは国家による陰謀だ」と主張し、教団の武装化へ急速に舵を切る。このときから、教団施設内での化学兵器や自動小銃の製造が本格化していくのだ。
敵対相手と見なす個人への攻撃も、激しさを増していく。1993(平成5)年11月と12月の2回、東京・八王子の創価学会関連施設に向けて、完成したばかりのサリンを噴霧する。池田大作名誉会長を暗殺するためだった。その3カ月前の8月、山梨県上九一色村の教団施設に、サリン製造実験の「クシティガルバ棟」が建設されていたことがわかるのは、ずっとあとのことだった。