皇位継承の難題を解決するにはどうすればいいか。皇室史に詳しい宗教学者の島田裕巳さんは「あくまでも法律である皇室典範の中身を変え、男系男子のみによる継承順位を規定しなければよい」という――。

皇室典範は国会で改正できる

今年の通常国会では、安定的な皇位継承に向けた皇族数の確保についての対策が議論されてきた。けれども、結局は合意に至らず、秋の臨時国会に持ち越される結果となった。

合意形成ができなかったのは、女性皇族が結婚後も皇室に残る場合、いわゆる「女性宮家」を創設した場合、その配偶者と子どもも皇族とすべきかどうかや、旧皇族の男系男子を養子に迎える案について、意見が分かれたからである。

そこに大きな隔たりがある以上、臨時国会で合意形成が本当にできるのか、今のところその見通しは立っていない。

沖縄訪問を終え、羽田空港に到着された愛子さま=2025年6月5日夜
写真提供=共同通信社
沖縄訪問を終え、羽田空港に到着された愛子さま=2025年6月5日夜

合意形成がなされたとしたら、「皇室典範」の改正が行われることになる。皇室典範は名称が特別なので、一般の法律とは違うものと思われるかもしれないが、国会の議決によって改正できる法律の一つである。議論がまとまりさえすれば、それは十分に改正できるのだ。

ではなぜ「典範」などという特殊な用語が用いられているのだろうか。その理由を知るためには、1889(明治22)年に定められた「旧皇室典範」まで遡らなければならない。

皇太子が存在しない今の日本

旧皇室典範は、大日本帝国憲法と同時に定められたのだが、法律とはされず、天皇家の「家憲かけん」とされた。家の取り決めである家憲である以上、戦前に存在した帝国議会でそれを審議したり、改正したりはできないものとなっていた。

基本的な枠組みは、新旧の皇室典範でかわらない。戦後の皇室典範で新たに規定されたのは、皇位継承権は嫡出子に限定される、つまりは側室が否定されたことと、皇族の範囲が大幅に縮小されたことである。旧宮家が皇籍離脱したのはこれが関係する。

しかし、男系男子による継承を定めたところでは、新旧の皇室典範は共通している。つまり、新しい皇室典範でも女性天皇や女系天皇は認められていないのだ。

現状に関係することとして重要なのは、「皇太子」の規定である。現在、皇太子は存在しない。皇位継承順位では秋篠宮が第一位で、悠仁親王が第二位だが、ともに皇太子ではない。秋篠宮は「皇嗣こうし」と位置づけられている。

というのも、これは現在の皇室典範が旧皇室典範から受け継いだことでもあるのだが、第八条で「皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という」と規定されているからである。皇子とは天皇の男性の子どものことであり、秋篠宮は天皇の弟であって、子どもではない。悠仁親王になれば、天皇の甥である。

もしも皇室典範がなかったならば

ただし、皇太子が不在であるという事態は決して珍しいものではない。戦後に限っても、現在の上皇が1952(昭和27)年に成年式を迎え、「立太子の礼」を経て皇太子に立てられるまで不在の期間が続いた。昭和の時代に入ってから27年間も皇太子はいなかったのだ。

それでも、現在の上皇が1933(昭和8)年に誕生したときから、将来皇太子になると見込まれていた。しかし令和の現状では、「新たな皇太子」がいつ誕生するのか、見通しはまったく立っていない。これはおかしなことではないか。そう思われる方もいるだろう。

これに関して一つ考えてみたいのは、「もしも皇室典範が存在しなかったらどうなっていたか」である。

上皇が譲位して現在の天皇が即位したとき、天皇は、愛子内親王が2021(令和3)年に20歳の成年に達した時点で、皇太子に立てることも可能だったはずである。

なにしろその先例があるからである。奈良時代の第45代聖武天皇は、738(天平10)年に、娘の阿倍内親王を皇太子に立てている。史上初めての女性の皇太子である。それ以降、そうした例はない。阿部内親王は、聖武天皇の譲位によって孝謙天皇となり、その後、重祚ちょうそ(二度即位すること)で称徳天皇になっている。

愛子内親王が天皇になる可能性

阿部内親王が皇太子となった時点で、聖武天皇には、県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじの間に生まれた安積あさか親王がいた。それでも、阿部内親王が皇太子になったのは、母親が藤原氏の血を引く光明こうみょう皇后で、その強い意志が働いたからではないかと言われる。

島田裕巳『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)
島田裕巳『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)

ただ、拙著『日本人にとって皇室とは何か』でも強調したように、孝謙・称徳天皇は相当に野心的で、強い政治力も発揮した。その点では、十分に皇太子、さらには天皇の器にかなっていたと言える。しかも、安積親王は、17歳で急死してしまうのだ。

愛子内親王が皇太子に立てられていたとしたら、おのずから天皇に即位する道も開かれるであろう。だが、皇太子が必ず天皇に即位するわけではない。その代表は聖徳太子である。あるいは、阿部内親王の異母姉である井上いのえ内親王の子ども、他戸おさべ親王はいったんは皇太子に立てられたものの、廃されている。皇位継承をめぐって争いがあったからである。

その点では、皇太子が天皇に直結するわけではない。それでも現在の皇室では皇位継承をめぐって争いが起こる可能はほとんど考えられない。その点で、愛子内親王が皇太子から天皇へという道を歩むことは十分に考えられるのだ。

天皇陛下の即位礼正殿における儀式
天皇陛下の即位礼正殿における儀式(写真=首相官邸/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

皇室典範があるがゆえに起きた危機

では、その後はどうなるのかということにもなる。孝謙・称徳天皇は生涯独身だった。しかも、皇嗣を決めずに亡くなったため、急遽、光仁天皇が歴代の天皇の中で最高齢で即位している。

現時点では、幸い悠仁親王がいる。愛子天皇の時代が続いている間に、悠仁親王が結婚し、家庭をもうけていれば、どこかで譲位して、悠仁親王が即位すればいい。あるいは、愛子天皇の子どもが次の天皇に即位することも考えられる。

もちろんこれは、皇室典範がなかったらという仮定の話である。これは旧皇室典範の時代のことになるのだが、皇室典範が存在するがゆえに困った事態が生じていた実例があるのだ。

大正天皇は、明治天皇の唯一成人した皇子だった。ところが、虚弱状態で生まれ、生後すぐに髄膜炎ずいまくえんを患っている。その後健康を取り戻し、結婚し四人の男子にも恵まれた。そして、明治天皇が亡くなった後に天皇に即位している。しかし、即位後、健康状態が悪化し、天皇としての職務をまっとうできない状況に至った。

これが明治時代以前のことであったとしたら、大正天皇は譲位し、昭和天皇が天皇に即位していたことであろう。

大正天皇の肖像画
大正天皇の肖像画(写真=宮内省/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

皇太子を摂政にしなかったのはなぜか

ところが、旧皇室典範においては、第十条で、「天皇崩スルトキハ皇嗣卽チ踐祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と定められている。これは、天皇が亡くなる以外、譲位できないことを意味していた。

旧皇室典範の原案には譲位の規定があった。それに真っ向から反対したのが初代首相の伊藤博文で、天皇が「不治の重患を抱えていても摂政を置けばよい」と、その規定を削除してしまったのだ。伊藤は、天皇が譲位すると上皇として院政を敷くことを怖れたらしい(産経新聞、2016年10月10日付)。

こうした規定があったため、昭和天皇は摂政となり、大正天皇の代わりをつとめることとなった。その時点で昭和天皇は20歳だった。国民は若き摂政の誕生を歓迎したが、昭和天皇にはおよそ5年にわたって父親の政務を奪ったという自責の念があったようだ(同、同年11月8日付)。

現在の上皇が譲位の意思を示した際、皇后をはじめ周囲からは譲位せずに、皇太子を摂政とすることを強く勧められた。しかし、上皇は父親から摂政としてのつらさを聞かされていたのだろう、上皇が意思を示した参与会議に出席していた元宮内庁参与の三谷太一郎氏は、「陛下は大正天皇の例は望ましくないとの考えで、その悲運に同情的であられた」と振り返っている(同)。

時代とそぐわないものになった規定

歴代の天皇の中には、亡くなるまでその地位にあったケースはいくらでもある。だが、多くは生前に譲位している。それが伝統でもあった。それは、院政を敷くためでもあったが、早い段階で譲位することで、若くて健康な新しい天皇に道を譲ることが重視されたからだ。

現在の上皇が譲位しなかったら、91歳の今も天皇の地位にあったことになる。そうなると、65歳になった現在の天皇は依然として皇太子のままである。譲位の際に皇室典範は改正されず、それは特例法によって実現された。そのため、皇室典範は相変わらず、亡くなるまで天皇であることを求めているのである。

平均寿命が延びた現代においては、天皇が90歳を超えても生き続けるようになってきた。上皇は歴代の最高齢で、それに次ぐのが87歳で亡くなった昭和天皇なのである。

天皇に終身であることを求める皇室典範の規定は時代とそぐわないものになっている。それは、男系男子での継承しか認めない規定についても言える。少なくとも、皇室典範の存在によって、皇位の継承や皇族数の確保がひどく窮屈なものになっていることは否めない。

すべては「皇室会議」での決定によるとすればいい

家の継承の仕方を法律で定めること自体に無理がある。戦前の民法で家督相続の制度が定められていた時代においても、それぞれの家における家督の継承順位までは決められていなかった。皇統の継承順位を定めたことで、にっちもさっちもいかない状況が生まれているのである。

ここは、皇室典範の中身を大幅に変え、継承順位など規定しなければよいのではないだろうか。すべては「皇室会議」での決定によるとし、皇室会議の構成のみを定めておくだけにするのだ。今の規定だと、皇室会議は三権の長や宮内庁長官、それに皇族二人から構成されることになっている。

これから、天皇や皇室にどういったことが起こるか、それを見通すことは不可能である。

親王や内親王の結婚など、どうなるかわからない。どういった事態が起こっても、柔軟な対応できるよう、皇室典範では何も規定しないのである。

それは、旧皇室典範以前に戻るというだけのことである。そちらのほうが歴史ははるかに長く、伝統がある。規定を設けないことのほうが、はるかに思慮に富んだことなのである。

天皇皇后陛下ならびに愛子内親王殿下(2022年撮影)
天皇皇后陛下ならびに愛子内親王殿下(2022年撮影)(写真=外務省/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons