
三度目の再放送でも「やっぱり名作」と称賛された朝ドラ
コシノヒロコ、ジュンコ、ミチコの「コシノ三姉妹」を育て上げ、自身も晩年同じデザイナーとして活躍した小篠綾子をモデルに据えた、渡辺あや脚本×尾野真千子主演のNHK連続テレビ小説(通称「朝ドラ」)「カーネーション」(2011年度下半期)。その再放送が3月22日に最終回を迎える。
主人公・小原糸子を10代から演じた尾野真千子の芝居があまりにすばらしかったために、晩年が夏木マリに交代した際には、一部で批判もあった。しかし、小篠綾子の史実を知ると、この人物を描く上で、いかに晩年が重要だったかが見えてくる。
ドラマでは晩年、古い知人の息子からの依頼をきっかけに、主人公・小原糸子が自らデザイナーの道を歩むようになるが、これは史実通り。
小篠綾子(以下、綾子)の自伝『糸とはさみと大阪と』(文園社)には、呉服の加工をしている古い知人の息子から「斬新なデザインの着物をつくりたいので知恵を貸してほしい」と頼まれたことを機に、「洋服感覚の着物のデザイン」に挑戦したとある。
そこには「和服の分野でなら、まだまだ新しく開発することがありそう」ということ、もともと呉服屋の娘で生まれた利点もあり、「娘たちのやれん(やれない)ものに力注いだろ」という思いがあったという。
小篠綾子は3人の娘がデザイナーになり注目された
この和服は、各地でショーを行ったほか、綾子自身がデモンストレーションのために自分で着込んで、ミラノやパリでもショーを開催。娘たちもこの着物に魅せられ、長女・ヒロコが着物の絵柄、帯、小物分野のライセンス、三女・ミチコはロンドンやミラノにおけるライセンスを譲り受け、強気の次女・ジュンコは他の呉服業者と手を結んで大々的にショーを行うに至った。
綾子が娘3人をデザイナーに育てて一番感動したと振り返るのは、昭和57年11月、「大阪二十一世紀計画」の幕開けイベントとして3人の合同ショーを開催したときのこと。この思いは10年以上前からあったそうで、ミチコが姉たち同様に有名になる時期を待っての開催だった。
具体的な計画は前年から進め、娘3人を岸和田の祭りに呼び寄せ、ハッピ姿でだんじりを引いているポスター用の写真も撮影。その翌日にショーの話を切り出し、「三人揃ったところで晴れがましくイブニングが着たいんや」と冗談まじりで合同ショーを提案したという。ここには、自分にイブニングがまだ似合う年齢=自分が現役バリバリのうちに娘3人の合同ショーが見たいという思いがあり、それを見事にかなえたのだ。
中高年女性に似合う服を作ろうと、74歳でブランドを創設
ドラマでは糸子が晩年、高齢者向けの服をデザインしたが、これも史実通り。ドラマと同じく綾子も娘たちに反対され、長女には自分のブランドの中でやるよう提案されたが、断り、自身のブランドを創設すると宣言。「中高年向けのおしゃれな服」をコンセプトに、74歳にして「コシノアヤコ」ブランドを立ち上げている。

年をとると、体のあちこちにぜい肉がついて、体型が変化する。おしゃれしたい気持ちに変わりはないけれど、巷にはすらっとした若い人向けの服しか売られていないため、着ていて体型カバーができ、なおかつおしゃれに見える服を作ろうと考えたのだった。
まさしく先見の明だが、これについては意外なオチもある。コシノジュンコは『お母ちゃんからもろた日本一の言葉』(イーストプレス)の中でこう綴っている。
「さすがお母ちゃんならではの発想だと感心したものの、発表会にかけつけた私が目にしたのは、私のデザインにそっくりの服……。ほかに『ヒロコ風』もありました。すぐさまお母ちゃんに『私らのデザインの真似やないの』と抗議したら、『あんたら生んだの私や、自分の娘の真似してどこが悪い!』と一蹴。ほんま、お母ちゃんにはかなわん!」
娘のデザインを拝借して逆ギレ、貪欲で豪快な母だった
ドラマでは三女・聡子(安田美沙子)のデザイン練習のために、姉たち2人がデザイン画を送ってくれ、それを母・糸子(尾野真千子)が拝借、窓の光を利用して書き写すシーンがあったが、史実はさらに貪欲だった。
また、ドラマでは糸子が階段から落ちて骨折、1階に運び込んだ介護ベッドで生活し、松葉杖を使うようになったが、綾子が自伝で「生涯最悪の厄年」と振り返るのは、昭和59年春。
1月に旅行先でハイヒールを履いて駅の階段から落ち、骨まで見えるほどの裂傷を負い、13針縫った。また、4月にはヨーロッパ旅行で罹患した肝炎で入院。6月に退院した後、9月にまた階段の一番上から転落、2カ月ベッドでの寝たきり生活を余儀なくされる。
ドラマでは入院した糸子のもとに見舞客が次々に訪れ、糸子は化粧をして出迎え、総看護師長に怒られていたが、史実でも綾子は肝炎で入院した際、7日目に特別に移してもらってから友達を次々に招いて花見をしたり、電話やテレビを入れたり、「気づいたら病室が事務所」状態になっていた。さらに1週間後には職人を呼んで裁断もやっていたというから、ドラマ以上の豪快さだ。
娘たちの引退勧告には「私に『死ね』っていうことか!」
ちなみに、コシノジュンコは『お母ちゃんからもろた日本一の言葉』で当時のことを次のように記している。
「お母ちゃんは70歳になる頃、相次いで病気や怪我に見舞われました。体調を心配した私と姉は『そろそろゆっくりしたら』みたいなことを言ってみたんですが、そのときお母ちゃんはこう激怒しました。『私に「死ね」っていうことか!』。娘たちから年寄り扱いされたのがよっぽど悔しかったんでしょう」
この後に自身のブランド立ち上げのきっかけになったというから、すさまじいエネルギーである。
ところで、ドラマでは描かれていないが、実は晩年の綾子の人生観を大きく変えたのは「信仰」だった。
朝ドラでは描かれなかった母娘で入信した「信仰」
きっかけは、三女・ミチコがロンドンに旅立つ日にキリスト教の洗礼を受けたこと。入信したのは次女・ジュンコが最初で、次にミチコ、最後に、離婚話が難航していた長女・ヒロコが妹たちに勧められ、入信したところ、スムーズに離婚できたという経緯があった。

娘たちは当初、綾子に内緒にしていたが、姉妹で揃って出かける際、「わたしに内緒で、みんなどっかええとこに行くのかな」と勘繰り、一緒にタクシーに乗り込んだところ、着いたのは教会だった。
そこで、ミチコの無事を教会のみんなが祈ってくれることに感動、その流れで洗礼を受けたという。信仰がいかに支えになっていたかについて、綾子は自伝でこう記している。
「しばしば教会に行ってお祈りし、時には牧師さまにご相談にのっていただくこともあります。そうすることで精神的に余裕が生まれ、クリエイティブなアイデアも湧いてきますし、社員やお得意先との人間関係もうまくいく。それが結果的に、仕事の成功にも結びついてきます」
また、ドラマでは糸子が晩年、さまざまな人と交流していたさまが描かれたが、これも史実通り。『糸とはさみと大阪と』によると、「好奇心かたまりの会」、略して「ザ・Uの会」(遊、友、YOU、ユニオンのUなどの意)という集まりを作り、61年9月には400人を集めての発足式を開催。会員には大企業の社長もいれば、赤貧洗うがごとき人もいて、「精神はお金持ち」が入会条件だったという。
90歳で91人のボーイフレンド、そして過去の恋は…
88人のボーイフレンドが集まり、一緒に写真撮影をしたという仰天エピソードもまた、史実通り。ただし、『お母ちゃんからもろた日本一の言葉』によると、卒寿のお祝いのときに呼んだのは90人のボーイフレンドで、「行きたいけどどうしても行けない」といっていた男性が直前に駆け付け、91人の参加だった。
当時の様子をコシノジュンコはこう記している。
「じつはみんなが着ていたタキシードは、お母ちゃんのデザイン。『私のボーイフレンドにしてあげるから、あんた、タキシードつくんなさい』って、ちゃっかり商売もしてるんです。高いタキシードをつくらされるにもかかわらず、ご指名から漏れた人はみんな、すごい悔しがって。なんて人気者なんだって思いました」
三姉妹の父である夫は戦争で亡くしたが、男性から人気があった。ドラマでは糸子(尾野真千子)と周防(綾野剛)のせつない恋が展開したが、実際にも、妻子のいる男性との関係が20年近く続いたという。
骨折したり病気もしたが、前向きにパワフルに生きた
同じく『お母ちゃんからもろた日本一の言葉』の中では、ドラマと同様、綾子が病院を舞台に元患者たちをモデルにしたファッションショーを開催したことも次のように綴られている。
「これはお母ちゃんが88歳、宝塚の病院を舞台にファッションショーを開いたときのこと。観客は全員、500人あまりの患者たち。モデルは、元患者の10数名。最初は緊張していたモデルたちも次第に堂々とし、観客も大喜び。会場は大いに盛り上がりました」
その最後にみんなに向かって呼びかけた言葉が「笑いをなくしてはあきません。生きてやる!というパワーが大事」だった。
ちなみに、ドラマでは描かれていないが、綾子は79歳のときにヘルペスを発症。重症化し、後遺症の後神経痛に悩まされ、ひどいときは箸を持つのも痛いほどで、1年間痛みを隠した笑顔の練習をしていたこともあったという。そんな苦痛を抱えつつも、ヘルペスを「一生のお友たち」と呼んでいた。
ちなみに、同じく綾子をモデルにした新作映画『ゴッドマザー コシノアヤコの生涯』(5月23日劇場公開)では、大地真央が綾子を演じる。パワフルで前向きな生きざまがこちらでも描かれるようだ。
故郷の岸和田に店を構え、生涯手放さなかったのはなぜか
ドラマ最終話では糸子のナレーション「おはようございます。死にました」の後に、娘たち孫たち、ご近所などが集まり、岸和田のみんなの「お母ちゃん」として糸子が生き続けるさまが描かれた。あまりに斬新な「死」、そして「喪失」からの立ち直りの描写である。
しかし、史実のほうも愛情深さでは負けていない。
『お母ちゃんからもろた日本一の言葉』によると、綾子は死の間際、脳梗塞で倒れて話ができない状態になったが、そんな折、娘たちのもとに1冊の女性誌が届いた。そこには元気な綾子の笑顔と「母から娘への遺言~いま話したい大切なことがある~」と題したインタビューがあり、娘たちの幼い頃のエピソードと共に、岸和田を離れない理由も書かれていたという。
その理由とは、娘たちが故郷に帰りたいときに故郷がなかったらさびしい思いをするから。いくら娘たちに「一緒に住もう」と言われても、受け入れなかった理由は、娘たちの故郷を守るためだったのだ。その最後には「遺言」としてこう書かれていたという。
「もらうより与えるほうが得やで」
実に長く、太く、愛情豊かな人生だった。