銀行からお金を下ろす額はいくらにすると節約に有利か。15年間以上、同じの金額にしている作家の林望さんは「1万円札は、崩したとたんにお金としての存在感が心理的に軽くなり、あっという間になくなってしまう」という――。

※本稿は、林望『節約を楽しむ あえて今、現金主義の理由』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

引き出し額はいつも3万4000円

私は以前より銀行でお金を下ろす際には、3万4000円と額を決めています。

このことは2009年に上梓した『節約の王道』(日本経済新聞出版)でも、「現金をおろすときは『三万四千円』」という項目で説明しました。15年経った今も、やはりお金を下ろす時はこの金額です。

なぜ3万4000円なのか……つまり、お金というものは、大きな単位で持っていると、それを使い崩したくない、という心理がはたらいて、1万円札を崩したくないから、どこか金遣いに抑制が働くという機序があります。

仮に3万円を下ろしたとします。すると、1万をまず崩して、それが千円札と小銭という形になってしまいますね。となると、千円札は気軽に使えるので、どんどん使って無くなっていく、というあんばいで、たちまちその1万円はなくなってしまう。つまり1万円札は、崩したとたんにお金としての存在感が心理的に軽くなってしまって、あっという間になくなってしまうものです。そうじゃありませんか。

少なくとも4万円は入っているお財布から現金を取り出す手元
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無駄遣いを防ぐケチくさい考え

しかるに、3万4000円を持っている場合、万札から使うという人はありますまい。ふつうは、まず4000円から使うのが自然な心理です。で、千円札や小銭がなくなると、あ〜あ、いよいよ1万円を崩さないといけないと思い、心理的にストップがかかるわけです。

だから、「ではこの4000円の範囲でなんとかしよう」という、とてもケチくさい考えが起こるのです。これが無駄遣いを防ぐということにつながっていく。そうした意味では、端数をつけて3万4000円という額はなかなかよい線なのではないかと思っています。

そして、もうひとつ続けているのが、小銭貯金。私は小銭入れを持ち歩かず、おつりなどは常にポケットに入れて、家に戻ったらそれを小銭貯金にしています。小銭になった時点で、あとはもう使わずに、一定の枚数が貯まったら銀行へ持っていく。銀行口座に還流することになっているので、これもまた節約になるのです。

もっとも、最近は、銀行に小銭を一定の枚数以上持参すると、それを自分の口座に入れるだけなのに、別途手数料を取るという姑息千万こそくせんばんなることをするようになったので、なかなか小銭をまとめて口座に戻すのも簡単ではなくなりました。こういう姑息なことまでして、預金者にとっての利便性を剥奪し、せこせことオノレの儲けばかり増やそうとする、この銀行の腹黒い根性が、私はますます気に入らないのであります。

節約とは要らない金を出さないこと

節約とはなにかといえば、結局のところ、「要らない金を出さない」ということに尽きます。つまりは、「不要の出費を省く」というのが節約の一丁目一番地ですね。そうして、同時に、そこが最終目的地だと思うのです。だから、まず「自分の生活の中で不必要なことに金を使っていないか?」という反省から始まるのが第一歩です。

すでに縷々るる述べたように、PayPayで支払うとこれこれのポイントが貯まりますよ、というような宣伝に踊らされて、ろくに考えることなく夢中になって不要不急のお金を使ってしまう、なんていうのは非常に危ないことだと思います。やはり、一人一人があくまでも冷静に、しかも自分の頭で考えないといけません。

たとえば、今、年間2%のインフレ誘導といった話が取り上げられていますが、それはとりもなおさずお金の価値を減らしていくことにつながっていく。すなわち、貨幣価値の逓減ていげんとなり、「銀行口座に資産を持っていただけではどんどん実質的に目減りしていくことになるから、ある程度投資をしましょう」ということになりましょうね。

下降の一途をたどるチャートと日本列島
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30年間目減りしなかった現金

だからその分をカバーする賃上げがなくては、貧しくなる一方です。だけれど事実として、少なくともこの30年間くらい、日本はずっとデフレでしたから、私はずっと現金で持っていたけれど、ちっとも目減りはしませんでした。

今度、政府がこれだけ笛を吹いたから、果たしてインフレ傾向に振れていくかなと思うけれど、さあそれはどうでしょうか、政府のいうようになるかどうかは、どうもあてにならないと思うのです。

なぜかというと、日本はこれだけどんどん人口が減ってしまい、いわゆる人的資源がやせ細りつつあって、大学でも世界順位を次第に下げてしまっている、という現実がありますから、その結果として、世界のビジネスシーンからは次第に後れを取りつつあります。GDPの順位も下っていくわけです。

こういう現状がある以上、日本がかつての旺盛なる経済成長のようなことを実現できる可能性はどうしたって低いといわなくてはなりません。といって、人口を俄かに増やす妙策もないし、そこを補うためにいたずらに外国から移民など入れれば、こんどは日本社会の穏やかな道徳性とか、安全な暮らしというところに亀裂が入ってくる。どうやっても、かつて私ども団塊の世代が額に汗して、おおいに奮励努力した結果として、世界に躍進を遂げたようなことの再来は、望むほうが無理というものです。

「今あるものは失わないようにする」賢い意識

そこで、これからはむしろ、小国寡民しょうこくかみん的政策になっていくほうがよいし、それがむしろ望ましい未来なのではないかと私は思います。

世界のモンスターのようなユダヤ資本なんかに対抗してやっていこうというのがそもそもの間違いで、日本は小さな国としてシンガポールのようにこまやかに穏やかに暮らしつつ、そしてささやかな幸福を希求するという方向に舵取りするのがいいのではないか、と思うのです。

だから、これから先はどんどんインフレになって経済成長していく、といった見果てぬ夢を見るのはやめにして、今あるものを失わないようにする。そうした後ろ向きなスタンスというのが、結局、賢いのではないのかなあと、私はひそかに思っています。

この「今あるものは失わないようにする」という意識は、個人にも当てはまるのではないかと思うのです。すなわち、「投資はいいけれど、投機はやめたほうがいい」という王道的な考え方にもつながっていきます。

投資の本来あるべき姿とは

投機は博打ばくちのようなもの、何をしているのかもろくに知らない会社の株なんぞを、目まぐるしく売り買いして、そこに法外な利潤を求めようとするのは、やはり道義的におかしいし、本質的リスクがそこに伏在するのは、博打がアブナイ行為であるのと同じことです。

そして、もし投資をしたいのであれば、本書で前にも書いたとおり、その会社が何をしようとしているのか、つまり業務の将来性や道義性をよく調べて、その発展性の確からしさはどのくらいなのか、経営者の人柄はどうなのか。あらゆることをよくよく取り調べて、「この人のやることならば、まあ間違いはないだろう」と見切れたところで、自分の持っている“余剰資金の範囲”で投資をするというのが、本来のあるべき姿に違いありません。

そのようにして買った株券は、原則として「売らないこと」です。

10年でも20年でも持っている。もし万一その会社が20年経ったら潰れてしまったとしたら、それは残念だった、自分の目がなかった、と思って諦めたらいい。投資には、そういうリスクはつきものだといわなくてはなりません。

リスク管理のイメージ画像
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泡銭を儲けても幸せにはなれない

林望『節約を楽しむ あえて今、現金主義の理由』(朝日新書)
林望『節約を楽しむ あえて今、現金主義の理由』(朝日新書)

でも、いっぽうで、デイトレーダーなどといって1日中パソコンにはりついて、1秒ごとに売ったり買ったりして利鞘りざやを稼いだりしている、なんてのは何が楽しいのでしょう。世のため人のためでもないことのために、ただ株券を売り買いして泡銭あぶくぜにのような金を儲けてもおそらく達成感などは得られますまい。

たとえば、デジタルカメラがどんどん世に出てきたときに「これじゃあフィルム会社はいずれダメになるな」と想定する……そういう時こそ、投資の出番です。この時に当たって、たとえば富士フイルムという会社は、フィルム事業からさらに発展的な分野に、企業としての目をむけ、投資もしていった、つまり、もっとハイテクの医療機器だとか、新薬の創製だとか、化粧品の開発にまで業態転換をしつつ巨大な投資をして、今、目覚ましい業績を上げています。それは結局、経営者の見識の問題なのです。