2024年は、愛子さまが大学を卒業して日本赤十字社に就職され、初めての単独地方公務を経験された年となった。神道学者で皇室研究家の高森明勅さんは「今年、敬宮(愛子内親王)殿下は、皇室の祭祀に参列されるなどしながら過去の天皇のご事蹟を天皇陛下とご一緒に学ばれている。これは、敬宮殿下ご自身が、皇室の将来を背負おうとされる前向きなお気持ちがあるためではないか」という――。
東京都港区芝大門にある日本赤十字社本部
東京都港区芝大門にある日本赤十字社本部(写真=Tengusabaki/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

海外留学でなく「ご公務と仕事の両立」を選択された

令和6年(2024年)は、天皇、皇后両陛下のご長女、敬宮としのみや(愛子内親王)殿下ご自身の人生にとって大きな節目となった。これまで学んでこられた学習院大学を卒業され、皇族としてのご公務を本格化される一方で、日本赤十字社の嘱託職員としてご就職になられた。

学生時代の日本文学へのご熱心な打ち込みぶりが伝わる中で、大学院へのご進学や海外留学という進路を予想する声が、少なくなかった。

しかし敬宮殿下はまったく違う決断をされた。

学習院大学のご卒業に際しての「文書回答」は以下のおことばで締めくくられていた。

「皇族としての務めを果たしながら、社会人としての自覚と責任を持って、少しでも社会のお役に立てるよう、公務と仕事の両立に努めていきたいと思っております」

敬宮殿下は、皇族にとって少しでも青春を謳歌できる貴重な大学時代の多くを、コロナ禍によって奪われる不運な巡り合わせだった。にもかかわらず、ご卒業後ただちに「公務と仕事の両立に努め」られるという献身的な選択をされた。

「困難な道を歩く人たちに心を寄せる」

敬宮殿下は日本赤十字社へのご就職に際しても「文書回答」を公表されている。そこには、殿下ご自身の明確な“皇室像”が語られていた。

「皇室の役目の基本は『国民と苦楽を共にしながら務めを果たす』ことであり、それはすなわち『困難な道を歩まれている方々に心を寄せる』ことでもあると認識するに至りました」と。

ここでは、直系の皇女として平成から令和に受け継がれた「皇室の役目の基本」をしっかりと踏まえられながら、さらに“困難な道を歩む国民に心を寄せる”という、皇室の役目の核心についてのご自身なりの「認識」も、率直に述べておられる。

その認識に立って、いわば皇室の役目をそのまま延長する形で、「公務以外でも、様々な困難を抱えている方の力になれる仕事ができればと考えるようになり」日本赤十字社へのご就職を希望されたことを、同じ「回答」の中で吐露された。

人道支援活動への高いご関心

日本赤十字社が取り組んでいる人道支援活動への敬宮殿下のご関心は、並々ならぬものがあった。そのことは、昨年(令和5年[2023年])10月2日に両陛下とご一緒に日本赤十字本社を訪れられ、開催中だった関東大震災100年企画展をご覧になった時のご様子からも、うかがえる。

その時、解説に当たった職員に対して、殿下の方から「トリアージ」について話題にされ、重ねて質問された。

トリアージとは、災害が発生して多数の傷病者が出た時に、それぞれの緊急度や重症度に応じて治療の優先順位を決定すること。これは、限られた医療資源を最大限に有効活用し、少しでも多くの人命を救うために欠かせない手順だ。しかし一方では、命のランク付けと言える厳しい側面も、否定できないだろう。

綺麗ごとだけでは対処できない救援活動の苛酷な現実と、真剣に向き合おうとされているご姿勢が伝わる。担当の解説者も、殿下がデリケートな部分にまで目を届かせておられるご理解の深さに、感銘を受けていた。

平安文学の特別展で初の単独ご公務

敬宮殿下の単独での初めてのご公務は、5月11日の国立公文書館(東京・千代田区)で開催された特別展「夢みる光源氏―公文書館で平安文学ナナメ読み!」へのお出ましだった。卒業論文のテーマに古典文学を選ばれた殿下にピッタリのご公務デビューだった。

とても初めてのご公務とは思えない、緊張感や気負いの無さに、取材に当たった記者たちは驚いたようだ。古典文学がお好きな殿下は、興味が尽きないご様子で、いかにも楽しげに展示をご鑑賞になられたという。

当日、ご説明に当たった同館の星瑞穂調査員はテレビ局の取材に対して、終始笑顔で飾らない気さくなお人柄という印象を受けたと語っていた。

その一方で、展示してある源氏物語の注釈書『窺原抄きげんしょう』の説明をした時に、殿下は「江戸時代といえば『湖月抄こげつしょう』という注釈書がありますね。それとの関係性は?」という極めて専門的なご質問を、さらりとされた。星調査員は「修士大学院生以上の知識があるのではないかなと拝察いたしました」という感想を述べている。

連鎖していく愛子さまの笑顔

お帰りになる際には、館長が「またおいで下さい」と申し上げたのに対し、「はい、近くですのでシュッとこれます」と明るくお応えになり、その場にいた皆を笑顔にされたようだ。敬宮殿下らしいご公務のスタートを切られた。

テレビ局の取材に星氏も終始笑顔で応じていたので、「殿下の笑顔が伝わっていく」とテレビ局の記者が解説していた。その解説をした記者本人も嬉しそうな笑顔だった。さらに、そのニュースを見た視聴者の多くも、同じように笑顔になったのではないだろうか。敬宮殿下の温かなほほ笑みは、次々と連鎖するらしい。

「あっという間に緊張がほぐれていく」

そのような笑顔の連鎖をあらためて感じさせたのは、初めての地方での単独のご公務の時だ。

敬宮殿下は10月11日から12日にかけて、佐賀県で開催された国民スポーツ大会にお出ましになった。この時に、現地で敬宮殿下と間近に接した人たちがどのような印象を持ったか。共同通信の大木賢一記者が丁寧な取材記事を書いている(47NEWS、11月29日公開)。

それによると、案内役として最も長く時間を共にした佐賀県の山口祥義知事は、次のように述べている。

「自然な形で言葉がぽんぽん出てくる。だからちょっとお話ししていると、あっという間に緊張もほぐれていくんです」

佐賀城歴史館を案内した七田忠昭館長も「(一瞬で人の緊張を解いてしまわれる)陛下も愛子さまも、何か魔法でも持っているかのようです」と語っている。

大木記者自身が皇太子時代の天皇陛下と接した時も、「とても緊張していたはずなのに、終わってみるとやたらと楽しかったことしか覚えていない」そうだ。

敬宮殿下は、そのような天皇陛下の「魔法」めいた力を、そのまま受け継がれたのだろう。

ご感想から伝わる高い“共感力”

敬宮殿下が現地で「紙すき」の体験をされた時に、補助役をしたのは工房「名尾手すき和紙」の職人、田中ももさんだった。年齢は殿下と近い25歳という若さ。紙すき体験について、敬宮殿下は「水の冷たさとか、流れる音とか、紙の感触とか、そういうのが新鮮で心地いいですね」という趣旨のご感想を述べられた。田中さんにとって、このご感想が本当に嬉しかったようだ。

「そうなんです! そうなんです! って、嬉しくなってしまいました。(紙すきの作業に対して自分自身が)大変さを上回る楽しさとかやりがいを持っているので、大変ですねって言われるよりは、そういう風に言ってもらった方が、そうなんですよっていうふうになってしまいます」

このように語る田中さんの満面の笑みが目に浮かぶ。

「自分はこんなに笑顔を見せていたのか」

国民スポーツ大会のロイヤルボックスで、敬宮殿下に柔道競技の解説をしたのは全日本柔道連盟の西田孝宏副会長だった。西田副会長は後日、自分が解説していた時の写真を見て「自分はこんなに笑顔を見せていたのか」とびっくりしたという。「振り返ると自分の笑顔も(敬宮殿下によって)引き出されていたかのようです。不自然な背伸びのようなものが何もなくて、本当に自然体の方でした」という感想を述べている。

国民スポーツ大会の柔道競技を観戦中に全日本柔道連盟の西田孝宏副会長と話される愛子さま
写真提供=共同通信社
国民スポーツ大会の柔道競技を観戦中に全日本柔道連盟の西田孝宏副会長と話される愛子さま=2024年10月12日午前、佐賀市のSAGAアリーナ

「国民みんなの娘のように」

現地で、殿下と接した10人ほどの人々から取材をした大木記者は、記事の最後に次のように書いていた。

「自分も含めて多くが親世代であることもあり、愛子さまがまるで、国民みんなの娘のように愛されていることを強く感じた。愛子さまは、会ったみんなを喜ばせて佐賀の地を後にされた」

殿下に接した誰もが喜び笑顔になり、その笑顔はその周囲の人たちにも連鎖したに違いない。

被災地に心を寄せる天皇ご一家

敬宮殿下の地方での初のご公務は、もともと能登半島地震で大きな被害を受けた石川県志賀町と七尾市へのお見舞いが、9月に予定されていた。しかし、記録的な豪雨被害のために、やむなく直前に取りやめとなった。

これは、地震による深刻な被害に心を痛められた、殿下ご自身のご希望だったことが伝えられている。まさに「困難な道を歩まれている方々に心を寄せる」という殿下が自らつかみ取られた皇室の役目を、実践されようとされていたのだった。しかし残念ながら、やむを得ない事情のためにそれはひとまず中止になった。

だが12月17日には、天皇、皇后両陛下が豪雨による被害を受けた輪島市をお見舞いになられた。輪島市には、去る3月22日に能登半島地震の被災地として、珠洲市とともにすでに1度訪れておられた。石川県にはこれで年内に3度目のお見舞いになる。

これだけの短期間に天皇陛下が同じ被災地を訪れられるというのは、異例のご対応と言える。

これは、震災の後に豪雨によってさらに被害を受けたという特別な事情によるものだが、現地の苦しみに陛下がそれだけお心を砕いておられることの表れだろう。そこには、敬宮殿下のお気持ちも重なっていたと拝察できる。

陛下とともに「天皇の歴史」を学ぶ意味

天皇陛下から敬宮殿下への受け継ぎという点で、見逃せない事実がある。それは、過去の天皇のご事蹟を陛下とご一緒に学ばれていることだ。

皇室では、毎年恒例の祭祀が多く行われている。その他に大切な臨時の祭祀もある。その中に、「式年祭」と呼ばれるものがある。式年祭は、天皇が亡くなられてから決まった年ごとに、亡くなられた日にあたる日(崩御相当日)に執り行われる。今年は「懿徳いとく天皇二千五百年」(10月1日)、「平城天皇千二百年」(8月9日)、「後宇多天皇七百年」(7月24日)、「後亀山天皇六百年」(5月19日)の式年祭が行われた。

敬宮殿下はそれらすべての祭祀に参列されたばかりか、式年祭の前に行われるそれぞれの天皇のご事蹟についての歴史学者による天皇陛下へのご進講にも、ほとんど陪席されていた。

これは意外だった。普通なら皇女であられても、このようなご進講の場にご一緒されることはないからだ。

現に、最初の後亀山天皇の時(5月10日、皇學館大学教授・岡野友彦氏によるご進講)は天皇、皇后両陛下だけで、敬宮殿下のご陪席はなかった。ところが、その次からは毎回、陪席されている。

皇室の将来を背負うご覚悟

「天皇の歴史」を学ぶことは皇位継承者の必須知識として、天皇陛下がまだ浩宮ひろのみや殿下と呼ばれていた頃から、上皇陛下がその必要性について述べておられた(昭和51年[1976年]12月17日の上皇陛下の43歳のお誕生日を控えての記者会見など)。

式年祭前のご進講に敬宮殿下が陪席されることになった経緯は、つまびらかにしない。天皇陛下が敬宮殿下を誘われたのか。それとも敬宮殿下から希望されたのか。

いずれにしても、敬宮殿下ご自身に皇室の将来を背負おうとされる前向きなお気持ちがなければ、天皇陛下のためのご進講にわざわざ陪席されることは、なかったのではないだろうか。

敬宮殿下が人生の節目を迎えられた今年は、天皇陛下から「魔法」の力を受け継がれ、人々に喜びの輪を広げる殿下の輝きが、国民により強く印象づけられた1年になった。