スウェーデン王室御用達の日本人彫刻職人
2024年8月。私はある女性とともに、スウェーデン王立ドラマ劇場のすぐそばにあるインテリアショップ「Svenskt Tenn(スヴェンスクト・テン)」本店にいた。
スヴェンスクト・テンは1924年に創業した王室御用達のインテリアメーカー。店内はどこを見回しても商品が隙のないコーディネートで展示され、まるで宮殿に迷い込んだような美しさだ。
ただのインテリアメーカーではない。会社そのものが文化遺産として認定され、会社が永続的に事業を展開するために1975年から科学研究と文化を促進するシェル&マルタ・バイエルス財団が所有権を持つ。商品はすべて「メイド・イン・スウェーデン」。品質には一切の妥協を許さないのが同社の方針だ。
王室御用達のブランドというだけあって、ひとつひとつが気軽に買えるような値段ではない。なかでも、店舗中心部のひときわ目立つところに、一台のネストテーブル(複数台の机が入れ子になっているテーブル)が展示されていた。
表示価格は「600,000 SEK(スウェーデンクローナ)」。日本円に換算すると、なんと約855万円(2024年10月時点)だ。ピューターという、スズを主成分とした金属の天板に旧約聖書の「ノアの方舟」をイメージした絵が手彫りによって描かれている。
1940年に売り出されたこのネストテーブルのデザイナーは、ニルス・フォグステット(1881~1954)という彫刻家。スヴェンスクト・テンでも多くのアイテムを取り扱う、重要なデザイナーのひとりだ。2024年4月、同社の100周年を記念した復刻版として、限定30台で製作された。
その復刻版の彫刻を手がけたのが、金属彫刻職人の美知子・エングルンド(以下「美知子」)さん。現地でスウェーデン人と結婚した、日本人女性だ。スヴェンスクト・テンは自社のHPで、美知子さんの言葉を掲載している。
「私は職人で、ニルス・フォグステットはデザイナーです。私の役割は、彼の作品に命を吹き込み、彼の創造的な表現を解釈すること。私の仕事は、可能な限りオリジナルに近づけることです」。
スヴェンスクト・テン社は、美知子さんの仕事ぶりについても紹介している。
「ミチコはオリジナルに限りなく近いデザインを丹念に再現した。彼女のスヴェンスクト・テンでの職人としての役割は、どんな細部も見逃さないことだ。」
そう、この日筆者と一緒に店舗を訪れたのは、ネストテーブルに彫刻を施した美知子さん。彼女の訪問により、スタッフの間では少しざわめきが起こっていた。嬉しそうに彼女に話しかけるスタッフもいて、彼女がいかに著名な職人であることがわかる。
ストックホルムの街並みになじむアジア人女性
一緒に店を訪ねた日の前日、私たちは郊外にある、ストックホルムの街を見渡せる公園「Ivar Lo's park(イヴァル・ローズ・パーク。Ivar Loは芸術家の名前)」でインタビューをすることになった。
現れた美知子さんは、とても明るい笑顔で「こんにちは〜!」と手を振りながら近づいてきた。
スウェーデンの8月下旬は暑くも寒くもない、とても過ごしやすい気候だ。シンプルなグレージュのトップスに白いパンツ。明るいキャメル色の革のショルダーバッグにはグリーンを基調としたレオパード柄のストラップが付いていて、コーディネートのアクセントになっていた。
上品な赤のスカーフを髪全体に巻き、その上に白い中折れ帽を被っている。耳と指にはパールやシルバーのアクセサリーを合わせている。
その姿はとても洗練されていて、ストックホルムの都会の風景にとても馴染んでいた。
彼女が異国の地で、女性かつアジア人であるにもかかわらず、職人としてここまでの地位を築き上げるようになるまで、どんな道をたどってきたのだろうか。
子どもは「家の手伝いをする者」
美知子さんは、1951年茨城県高萩市生まれで、現在73歳。旧姓は「鈴木」という。幼少期の頃、高萩市は炭鉱業が盛んでとても賑わっていた。実家は駅から徒歩3分ほどの街のど真ん中で、食料品店を営んでいた。
主な取扱商品は、缶詰・味噌・醤油・砂糖・佃煮・干物の乾物やお菓子など。幼い美知子さんは忙しい両親を毎日手伝っていた。起きてすぐに掃き掃除と拭き掃除、学校から帰ってきたら自転車で配達をした。おさんどん(台所仕事)、薪割り、お風呂を洗って沸かすなど、遊ぶ間もなく手を動かした。
父親は厳格で寡黙、しつけもとにかく厳しかった。ときどき口を開けば「失敬千万!」などといった四字熟語を使い、笑っているところを見た記憶がない。典型的な「男子厨房に入るべからず」という人だったため、家事をしているところも見たことがない。
母親は東京・下町で手広く商売を営んでいる名家の出。とても働き者で、その姿を見て育った美知子さんは「少しでも母親の助けになりたい」と思うようになった。
このころ夢中になったことや、やりたいことはありましたか、ときいてみた。
「そういう感覚を持った覚えはないね。当時、とにかく子どもとは『家の手伝いをする者』であって、そこに自由な意思を持つなどということは考えられなかった。それは別に私だけじゃなく、みんなそうだったと思います」
しかし美知子さんの心の中には少しずつ「自由への憧れ」が蓄積されていった。小学校の頃は、どこかいつも自分はつまらない人間だと思っていた。子どもの数がとても多い時代だったため「勉強を頑張って、この競争を勝ち抜かなくてはいい学校には行けないんだ」と幼心に悟り、小学校4〜5年生の頃から勉学に励むようになった。でも、それも自分の意思というよりは、時代や環境からの影響が大きい。
頑張れば競争に勝ち抜けそうなものは何か
中学・高校時代も心では自由を求めてはいるけれど、何をしたらいいのかはわからなかった。高校のときの得意科目は数学と物理と英語。憧れの女性の先生が津田塾大学出身だったため「津田塾大学の英文科に行きたい」という気持ちがあったが、炭鉱の町は徐々に不景気になっていき、大学進学はお金がかかるだろうからという理由で早々に諦めたという。
では、卒業後何をするか。彼女は「誰もやらなそうなことで、頑張れば競争に勝ち抜けそうなものは何か」を探し、和裁の学校に進学することを決める。和裁に興味があったんですかと聞くと「いや、別に興味はなかったわね」。
当時、和装は冠婚葬祭などの特別な時にしか着ないものとして人気も衰えていた。だから、あえてその道へ進もうとする人は少なかった。
「とにかく一番、というものが好きなんですよね。たとえそれが全然人気のない職業であろうと。『他の人がやっていない』というのが一番の理由」というから、驚きだ。
和裁に進む道を捨て、実家に帰る
高校卒業後は、築地にあった和裁の専門学校に進学した。1年目は大森の親戚の家に身を寄せていたが、2年目からは西船橋の4畳半のアパートで友人と2人で下宿しながら、計3年かけて普通科から師範科までを学んだ。最終的に、卒業時に選出される「優秀生徒」ふたりのうちのひとりに選ばれるほどの技術を身につけた。
その腕を活かし、卒業後は知り合いのツテをたどって新橋の売れっ子の芸者さんの着物を縫う仕事に就く予定だった。
しかし、美知子さんは突然その進路を断念し、実家に帰ることとなる。
理由は「家業を手伝うため」。
両親から帰ることを強く言われたわけではない。
「子どもの頃の環境や習慣からの影響というものは大きくて。親との会話の中で察するものがあって『帰って家業を手伝う。それが子どもの役目だ』と感じたことがあったんです」。そのときもやはり「自分の意思を通したい」とか「反抗したい」というような発想は浮かばなかったという。ところが、さらにその1年後、美知子さんはスウェーデンにいた。
ほぼ唐突にスウェーデンに向かった
小さな頃から少しずつ蓄積していた「自由を求める」心が、とうとう彼女の中で弾けたのかもしれない。22歳のときだった。
なぜスウェーデンなのか。
実は、15歳の頃から文通をしている相手がいた。昔は雑誌の中に文通相手を探す投稿欄があり、美知子さんはそこで1人のスウェーデン人男性と知り合い、文通を続けていた。英語はそのやり取りの中で、ある程度鍛えられたという。
その人を頼り、ほとんど唐突にスウェーデンに向かったのだ。実家からは勘当を言い渡された。
両親のことを思い出しては胸を痛め続けたが、ストックホルムで暮らし始めて間もなく、自分の育ってきた環境にはない、スウェーデンの自由な空気に魅了された。個人の意思を尊重し、それを政府や国が守ってくれることに驚いた(スウェーデンは、すべての体罰を禁止する法律が1979年に世界で初めて国会で承認された国である)。
文通相手の男性との交流は短い期間で終わりを迎えたものの、美知子さんは大好きになったスウェーデンにとどまることを決める。ようやく、自分の人生で自分の意思を貫くことを決めた瞬間だった。
自分の長所は手をつかってコツコツ作れること
スウェーデンに来て半年間は、語学学校に通っていた。その年の12月に、知り合いから貴金属店で彫刻加工をする仕事を紹介され、見習いとして基礎技術を学びながら働くことにした。
それも、和裁の学校を選んだ時と同じ観点だ。
「特にジュエリーに興味があったわけでも、手彫りがしたかったわけでもなかったんです。普通の仕事をしても、まだ英語もスウェーデン語もままならない自分は、スタートの時点で他の人と同じ土俵では勝負できないでしょう。自分の長所は、トップを目指して懸命に努力することができること。そして、手を使ってコツコツと作り続けることができることだから、そこで勝負すれば、もしかしたらトップになれるかもしれないと思ったんです」
スウェーデンに来て2年が経つ頃、のちにパートナーとなるスウェーデン人男性と出会う。「わりかし無口なんだけどユーモアがあって、お互い笑いのツボが合う人」だった。
ほどなくして2人は同棲を開始し、さらに2年後には日本の両親にも紹介して結婚に至った。
そのころ勘当状態だったのでは? と尋ねると、実は母親とだけは秘密で連絡を取り合っていたそうだ。そのせいか、挨拶に行く頃には実家とのわだかまりはほとんどなくなっていたという。スウェーデンで働き始めて数年後から、美知子さんは実家に毎月仕送りをした。それは母親が亡くなるまで、一度も欠かさなかった。
金属の手彫り彫刻で身を立てる
「正直、税金の高いスウェーデンでは自分の生活費を稼ぐだけで精一杯だったわよ。でも、一度実家を捨てたことへの罪悪感でしょうね。毎月の仕送りは、どうせやるなら最後までと決めていた。それが私の性格なんです」
のちにパートナーとなったスウェーデン人男性とは、1975年頃からストックホルムで同棲を開始。その頃は、贈り物用の指輪、食器、トロフィーなどに名前・日付・家紋などを手彫りで入れる仕事をしていた。職場は、そのような金・銀・プラチナのギフト用品を取り扱う大手チェーン店。このような形式の店はスウェーデン国内には多くあり、とても身近な存在だ。
3年ほど働き、次はスポーツトロフィーの手彫りなどを手がける会社に転職。その後29歳で長女を出産し、31歳で長男が生まれ、育児と仕事との両立に悩むようになった。
会社への通勤には1時間。子どもを6時間保育施設に預けても、実質働けるのはたったの4時間だ。1日働いた分から保育料を差し引くと手元にはあまり残らないうえ、通勤の体力的な負担も大きい。何より、子どもと一緒に過ごす時間が少ないことに大きな不満を感じていた。
「だったら自宅で子どもを見ながら、3〜4時間だけ働くスタイルに変えたほうが良いのでは?」と考えた美知子さんは、1983年に個人会社を設立。長男が2歳になる頃だった。
自宅で子育てしながら働く手段
雇われて働くのとは違い、自分で仕事をつかみ取らなければならない。美知子さんは以前働いていた手彫りのギフト商品を扱う会社に電話をかけ、直接社長に「フリーで仕事をすることになったので、仕事をください」と依頼した。実にストレートだ。
社長は美知子さんのことを覚えていた。社員だった当時も美知子さんの技術には定評があり、王室からの依頼や王室宛の品を担当したこともあったそうだ。
当時、このギフト会社はスウェーデン国内で100店舗以上を展開していた。社長はすでに、美知子さんの腕を信頼していたのだろう。
「どのくらい欲しいんだ?」ときかれて「えっ?」と戸惑っていると、「おまえがやりたいなら、やりたいだけ全部やるぞ」と言ってくれた。そして、ストックホルム南部の約10店舗分の仕事を彼女に任せてくれた。
仕事内容は、主に「アクセサリーなどに家紋やモノグラム(2つ以上の文字などを組み合わせ、1つの記号を形成した文様のこと)を彫る」ことだ。
「私の専門は『ブライトカット・エングレーヴィング(彫刻)』です。ブライトカットっていうのは『輝きが出るカットをする』ということです」
美知子さんは、晴れてフリーランスとしての好スタートを切った。
しかし、この時点ではまだ無名の職人の1人にすぎない。彼女がスウェーデン王室から直接電話がくる職人になるまでに、どんな道のりがあったのだろうか。(後編に続く)