山深い過疎の集落で地域に根ざした介護を
長野県松本駅から車でカーブの多い道を30分ほど走らせると、山深い緑に囲まれた、のどかな田園風景が広がる。以前は四賀村(現・松本市)だったこの集落に入ると、見えてくるのが「峠茶屋」の看板だ。
「こんな田舎までわざわざ来てくれて」。そう笑顔で出迎えてくれたのは、私財を投じて地域の介護施設を立ち上げてきた江森けさ子さん(83歳)だ。
NPO法人 峠茶屋では、松本市四賀地区で地域密着型通所介護(デイサービス)、定員9名の認知症型グループホーム、訪問看護ステーション、居宅介護支援事業所、定員7名の住宅型有料老人ホーム、訪問介護事業所、福祉有償運送事業などを運営。「地域で暮らし 共に生き 地域で老いて 地域で看取る」がモットーだ。
60歳の時に、終の住処のつもりで家どころか墓まで用意していた静岡を離れ、故郷の四賀にUターン。2年後には通所介護施設「峠茶屋」を開所し、地域の高齢者のケアに取り組むようになる。施設運営の傍ら、介護支援専門士、認知症ケア指導管理士の資格も取得。もともと持っていた看護師の資格を生かした訪問看護師として、現場で高齢者に寄り添ってきた。
幼少期から憧れた看護師で「手に職」を
「私はおしゃべりですからね」。そんなふうに笑顔ではきはきと切り出す江森さんに、看護師をめざすきっかけを聞いてみた。
江森さんが生まれた頃の80年前の四賀村は、養蚕と米づくりで生計を立てる貧しい農村だった。きょうだいは7人。とても進学する余裕はなかった。
「私は7人きょうだいの4番目だったから、手に職をつけて生きていこうと思っていたの」。憧れは、いつも目にしていたメンソレータムのかわいいリトルナースだ。中学卒業後は、長野県立阿南病院付属準看護学院に入学。看護師としての人生の歩みをスタートする。
当時の准看護婦は、開業医の家に見習い看護師として住み込み、家のことを手伝いながら准看護学校に通うというパターンがほとんどだった。しかし、「私がラッキーだったのは、全寮制の県立病院付属の養成所に入学できたこと。勉強に集中できました」。
不妊宣告を乗り越え、正看護婦学校在学中に2人の娘を妊娠
晴れて准看護師として働くようになり、23歳で結婚。結婚の条件は「働き続けられること」だ。夫となる元春氏とは、「看護師は食いっぱぐれがない」と意気投合。新婚生活がスタートする。しかし、すぐに卵巣嚢腫が発覚。術後、医師からは「子どもはできない」と宣告された。
不妊治療も何度かしたが、「30歳で子どもはあきらめました。その代わり、正看護師になろうと学校に通うことにしたの」。
夫の転勤で赴任していた広島には、准看護婦が正看護婦になるための学校があった。今こそがチャンスだと張り切って受験。入学が決まったときは、うれしくて一番に入学金を収めにいったほどだ。診療所で働きながら夜学で学ぶことは、大きな喜びだった。
うれしいニュースは続く。学校に通い始めて1年。2年生になる春休みに、思いがけない妊娠が発覚する。周囲は、「この妊娠は奇跡だから、学校を辞めるように」とアドバイスするが、江森さんは学業を続けることを選択。
「神様が勉強をしなさいと言ってくれている。だから妊娠できたのだ、って思って、意地でも辞めなかった。出産後、2週間だけ休んで、すぐに学校に戻ったの」
幼子を抱えての通学は大変だったはずだが、そんなことにくじける江森さんではない。なんと、3年生の夏には第2子を妊娠。卒業式では総代として、大きなお腹で壇上に立ったという。
「人生は一度だけ。人間にダメだということはないんですよ。やりたいことはとにかくなんでもやり通さなくちゃ」
定年を機に、故郷の松本・四賀へUターン
今でも看護師はハードな仕事というイメージだが、当時はもっと大変だった。一日中、立ちっぱなしで診察の補助や患者の世話をし、深夜勤務などもある交代制。休みもなかなか取れない中、夫と協力しながら二人の子育てを両立してきた。
それでも看護師には、大きなやりがいがあった。夫の転勤で、広島から静岡に移り住んだあとも看護師を続け、37歳からは看護学校の教員に。定年まで23年間勤め上げ、1000人以上の看護師を送り出してきた。
そんな江森さんが生まれ故郷の松本・四賀へ足を運ぶようになったのは、56歳の時だ。実家を継いだ兄夫婦の農作業を手伝うために、片道4時間かけて週末農業に静岡から通うようなる。久しぶりにゆっくりと実家で土に触れる作業をしていると、自分が生き返るような感覚を覚えるようになった。
「田舎では、こんなに呼吸がしやすいんだ。ここには酸素がある、ってね」
同時に目に入ってきたのは、村の元気な高齢者たちの姿だ。年齢をものともせず、生き生きと農作業をする姿は、見ているだけで元気をもらえるようだった。気がつくと、カメラを持って、そんな高齢者の写真を撮りに行く「追っかけ」になっていたという。
そうこうするうちに、「やっぱり四賀での暮らしがいい」とUターンを決断。地元を離れてすでに44年。移住者のような気持ちで、舞い戻ってきた。そのとき頭に浮かんだのは、自身の看護師生活の集大成として、高齢者介護に取り組みたいという思いだ。
峠の外れにある公民館を改修したデイサービス
江森さんは、峠の外れにある、使われていない公民館を改修。小規模宅老所、いわゆるデイサービスとして「峠茶屋」を開設。「峠茶屋」という名前には、人生の厳しい峠を乗り越えてきた高齢者が、最後の安らぎの場として「ここらで一服してほしい」という願いを込めた。江森さんの退職金の約半分を投資した「峠茶屋」の理念は、「住民が主人公、主体は利用者」が理念だ。
当時はまだ「認知症」という言葉が一般的ではない時代。高齢になり認知症状が出てきた人は、「変な人」「困った人」として扱われていた。家族はそんな認知症高齢者を周囲から隠そうとするが、当の本人は外に出たがる。その行き違いが、さまざまな軋轢を生み、困り果てる家族も少なくなかった。自宅では見きれないのでデイサービスを、と思っても、そこに通わせていることを周囲に知られたくないと考える家族が多かったのも、状況を悪化させていた。そんなときに人目につきづらい峠の外れにできたのが、峠茶屋だった。
「最初の1カ月こそ利用者がゼロで、どうなることかと思いましたが、徐々に口コミで増えていくように。誰にも知られず通わせられるから、というご家族が多かったですね」
ここから江森さんの介護にかける人生が本格的にスタートする。認知症高齢者に向き合うことは、「毎日がドラマの連続だ」と江森さんは言う。
頑固者で村では嫌われ者で通っていたある高齢者は、その気性の荒さにどの施設からも断られるほどだった。峠茶屋で預かってくれないか。そんな相談に、江森さんは「もちろん、いいですよ」と即答する。
「利用者を増やしたいという、経営の切実な部分もありましたが、何よりもどんな人にも寄り添いという気持ちが強かったですね」
混乱と不安のさなかにある高齢者に根気よく寄り添ううちに、高齢者自身が穏やかに変化していく。
「峠茶屋に通うようになって、あのじいさんがすっかり穏やかになった、って噂になるくらい。そして、そんな私たちの姿勢を地域の人たちはちゃんと見ていてくれた。今の私たちがあるのも、住民から支えてもらってきたからです」
人生の終の棲家で、認知症高齢者に寄り添う
峠茶屋開設から2年後、64歳でNPO法人 峠茶屋を設立。さらに3年後の67歳でグループホーム「すみか」を開所する。もともと介護事業は「5年やったらおしまい」のつもりだったが、事業はどんどん拡大していくことになる。
認知症の高齢者の数は増える一方で、在宅介護で苦しむ家族、そして高齢者本人の姿を見ているうちに、「終の住処」となる場が必要だと、持ち前の行動力を発揮。突き動かされるようにホーム開所に動いていたという。
家族だけが苦しむことはない――。私たちも一緒に、みんなで高齢者の世話をしようとつくったのが、グループホームだ。入居者の定員は9名。彼らに接する中で、改めて「認知症とはどういうことなのか」を教わった。
「あちこちで排泄するのも、理由があるから。昔は、家の外の暗い場所にお便所があるのが普通でした。トイレに行きたくても、どこにあるかわからないから、子どもの頃の記憶を頼りに、暗い場所を探して排泄しようとするんです」
認知症状で暴力を振るうようになり、精神科に入院している男性の受け入れを決めたこともある。受け入れの判断をするために精神科に面接に行ったとき、江森さんが見たのは、車椅子に拘束され、薬の副作用で口からよだれを垂らした男性の姿だった。
「その姿を見た瞬間に、うちでお引き受けします、と言っていました」
男性が「すみか」に入居すると同時に薬をやめた。もちろん、拘束もなしだ。「うちには拘束具がありませんからね」。男性はそのうちテーブルに手をついて歩くようになり、言葉も発するように。「しまいには、あれだけ危険だと言われていた人が、鼻歌を歌いながら鎌を研ぎ、毎日畑仕事に行くようになり、家に帰ると出かけられるようになったんです。もちろん職員が必ず付き添いましたけれどね」
「私もスタッフもとにかく無我夢中だった」と、介護施設を始めてからの日々を江森さんは振り返る。認知症介護は難しいといわれる中、なぜ「すみか」には徘徊も暴力もなく、誰もが穏やかに人生の残りの時間を過ごせているのだろうか。
その答えは「その人の人生に心から寄り添う」ことにある。大切なのは、相手への尊厳を忘れず、その気持ちを理解し信じることだ。
「問題行動を起こすときは、そこに必ず原因があります。それがわかれば、寄り添い方も変わってくる。たとえ認知症でも寄り添ってもらえることで、笑顔で過ごすことができるようになると思っています」
(後編へ続く)