「女性は運転が苦手」といわれることがあるが、なぜなのか。漫画家の田房永子さんは「45歳で初めて運転免許を取った。車を運転するようになって気付いたのは、車の運転は『男性的なマインドが必要』ということだ」という――。
車の運転をする女性
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なぜ「女性は運転が苦手」とされているのか

今年45歳で生まれて初めて教習所に通いました。

多くの教習所には「レディースプラン」という、女性限定のコースがあります。たいてい「検定試験に何度落ちても再試験料無料」などの特典が付いています。「女性は男性よりも運転が苦手」という前提があることを知りました。

改めて友人や知人に聞いてみると、ビックリするくらいペーパードライバーが多いことが分かりました。「20代の時に免許をとったけど、20年運転してない」という女性がとても多いのです。

教習もあと卒検を残すのみとなった頃に、男性教官からこう言われました。

「女の人はデパートに行ったら何を買うかいつまでも迷うでしょ。こう言っちゃなんだけど、男性のほうが決断力や判断力があるんですよね。女性は運転が苦手なのは仕方ない」

女性である私を励ますために言ったのだと思いますが、私はその時、まだ運転中にうまく会話することができず、「はい、なるほど」とだけ答えました。

車の運転=刀を持ったサムライ

だけど私は、2カ月近くの教習所通いで、その「女性は運転が苦手説」について気付いたことがありました。

運転してみて思ったのは、「車の運転って侍(サムライ)みたいだ」ということです。侍っぽい動作、つまり「男性的仕草」が必要な、車の運転という作業。それを多くの男性が得意なのは当たり前であり、多くの女性にとっては単に不利なだけなのでは? と思うようになっていました。

車という、人に危害を与える恐れのある物品の中に入り、その中から世界を見て走る。そんな風に自分自身が街の中で“危険な存在”となる感覚が、刀という、人に危害を与える恐れのある物品を携帯し行動する侍っぽいと思ったのです。

車道は、自分と同じ刀を持っている侍たちが往来していて、自分にも危険があるかもしれない。自分が危険な存在であるからこそ、その視界(フロントガラス)を冷静に見極め、むやみに弱き者(歩行者)を傷つけたりしないように、堂々と胸を張って(背もたれに背をつけて)、我が道を進まなければいけません。リラックスも重要です。自分が危険な存在であるからこそ、何が起きても冷静でテンパらない心を保つ必要があるからです。

運転に大切なのは、この侍っぽいマインド。

私はこの「侍マインド」が全くなかったので、教官から何度も指摘されまくりました。

電動自転車の安全運転と車の安全運転は違う

45歳になるまでハンドルを握ったことのなかった私ですが、安全運転には自信がありました。普段、子ども乗せ電動自転車に乗っている時、慎重すぎるほどに気をつけているからです。

子乗せ電動自転車は非常に重くスピードも出る軽車両なので、加害側にもなり得ます。

さらに、我が子という絶対に守らなければいけない人間を乗せているので、あらゆる危険を想定し被害に遭わないように意識しています。特に、暴走車に突っ込まれるかもしれない、というのが恐ろしく、常に「おかしな動きの車はいないか」と周りに気をつけて走行しているのです。

そんなわけで常にキョロキョロ、目と頭と上半身を動かして目視確認し、スピードも出しすぎないようにしているので、その執念にも近い「安全運転」を教習所でも褒められるはずだと想像していました。

ところが車の運転というのは、「あらぬ方向から暴走車が飛んでくるかもしれない」と想定してキョロキョロしたりしてはいけないのです。せわしなくいろんな方向を目視する行動は「気をつけている」ことにならないのです。知らなかった……。

左折をするために発進する際、横断歩道に誰か来ないかと右の方を見ると「そっちは見なくていい!」と教官から叱られます。

左折ができる=車の信号が青になっている=歩行者の信号は赤、なので「渡る歩行者はいない」と判断してよいのです。気をつける必要はゼロではないけれども、それよりも左折先の横断歩道を渡る歩行者に気を付けて、巻き込まないよう確認をしろ、という教えです。

だけど私は「急にトリッキーな動きをして飛び出して走ってくる人がいるかもしれないじゃん!」という長年に渡り染みついた感覚をなかなか手放すことができませんでした。

しかし「侍になる」つまり「男性になりきるのだ」と意識していくことで、運転への認識がガラリと変わりました。

「侍になって」運転する

教習所を卒業し日常的に運転をするようになって思うのは、「みんな車の交通ルールをしっかり守ってるんだな」ということです。アスファルトの上に白い線が書いてあるだけなのに、しかもその線は車の幅ギリギリに書いてあるのに、みんなきっちりその中をはみ出さずに走り、青になったら絶対に動き出す。その様子はまさに、ドラマで見る「背筋がピンとした礼儀正しい侍」っぽいです。

一方、自転車は青信号でもスマホが気になっていたら立ち止まったままでもいいし、気が変わったらUターンとかもアリです(もちろん、ほかの車や歩行者の邪魔にならない&危険のない場所でないとダメですが)。自転車と歩行者の世界のほうが無法地帯だと感じるようになりました。

“怖がらせる存在”になるということ

だからでしょうか、教習所に通っている時の私は、歩道でつちかった「被害者になりやすい側としての意識」が抜けず、車で車道を走っていても常にビクビクしていました。

視界の中に自転車や歩行者の動きが少し入っただけで、ビクッ!となってブレーキを軽く踏んでしまう、というのも1~2回やってしまいました。例えば横断歩道で青になるのを待っている人がちょっと前のほうに移動する、とかです。車からかなり離れているし、そんなところでブレーキを踏むほうが危ない、と教官から注意されました。

車に乗っている状態で周りの車にビクビクしていると、車が不可解な動きになるので、逆に周りの車をビビらせることになる、「あなたは怖がってるけど、後ろの車はあなたに怖がってるんだよ」ということを叩き込まれました。

そうなのか、なるほど、車に乗った私は、歩行者だけではなく周りの車からも怖がられる存在なのだ。そう理解しても、どうしてもこわい。ぶつかってしまう、というより、ぶつかってこられるのでは、という種類の恐怖が抜けませんでした。ブレーキを踏みたくなる瞬間に「踏まない! 大丈夫! ぶつからないから!」と心の中で自分に言い聞かせて耐えまくりました。

「前かがみの姿勢」から「正しい姿勢」へ

たまに、腕を曲げてハンドルに胸をくっつけるような姿勢で前かがみになって運転している人を見かけることがあります。それはたいだいおばさん、中高年の女性である、という印象がありました。他の属性にもいるのかもしれないけど、特に中高年のおじさんでそういう姿勢で運転している人はあまり見たことがない。

私もどうしてもその前かがみ姿勢になってしまい、何度も教官から注意されました。「逆に危ないからやめなさい」と。だけどどうしても近距離のもの、つまり「目の前に突っ込んできそうなもの」が気になって仕方ないのです。

正しい運転の姿勢は、腕をある程度伸ばし、背もたれに背をつけて全身をゆったりと構え、フロントガラスの全体を視界に入れつつ、視点は目的地の方向に向ける。

こわくて前かがみになりたいのを堪えて、その通りの姿勢になって運転してみた時のことです。「あっ!」と思いました。

これは、男性の動作である、と思いました。男性の視界、男性の世界の見方。

「正しい姿勢」で解けた男性の行動のなぞ

ゆったりと運転席に座り、堂々と目的地を見る。その状態で他の標識や歩行者、信号などの全体を把握するためには、それら一つひとつに関する情報の解像度はある程度下がります。

人や周りに危害を加えるものに乗り込み、自分自身が加害性のある存在となった状態で、目の前の景色の全体をぼんやりと見つめ、「目的地を目指す」ことを行動の最も重要な指針とする。

その感覚を体感した時、今までの人生で「なんなんだろう?」と思っていた“男性たちの行動”が「男性ってこういう視線で世界を見ているんだ!」と繋がったのです。

そしていろいろな「男性あるある」な場面が浮かびました。

例えば保護者の集まりでパパとママが集まると、近づいてキャーキャーワイワイと話を弾ませるママたちに比べ、パパたちは隅のほうで単独で点々と立っていたりする場面。スーパーで買ったものを袋詰めしているおばあさんの横で、じーっと立って待っているおじいさん。子どものことで必死になっている妻に比べて「大丈夫でしょ」とゆったり落ち着いている夫。女性が「こんなにつらいことがあったの」と落ち込んでいる時に「それならこうすればいいじゃない」と解決法を提示して「そういうことを言ってほしいんじゃない」と叱られる男性。

別にそれらの行動はハッキリと男女で分けられるわけではないけど、そういった「どうして男は黙ってるんだ? 動揺しないんだ? なぜここでへっちゃらなんだ? なんで無表情? どうしていつも最終地点のことを言いたがるんだ?」と思った記憶が一気によみがえり、彼らと“侍マインドになっている私”が重なったのです。正しい姿勢で運転をした時に。

「ビビらせるくらいなら余計なことはしない」

男性は女性よりも「あなたは悪いことをやらかしやすい存在である」と教えられる機会が圧倒的に多いと思います。

特に女性に対しては、力の強さや妊娠させる側の性別として「お前は加害性のある側の人間である」「あなたの行動で女性をビビらせる可能性がある」「ビビらせてはいけない」というメッセージを、小さい頃からいろんな形で叩き込まれ、受け取りながら大人になるんじゃないでしょうか。

女性はそういった教えはほとんど受けません。むしろ「被害に遭いやすい性別だから自衛しろ」ということばかり言われます。

つまり、女性に比べて男性は「他人に危害を与える恐れのある車に乗っている状態」に近い感覚を幼い時から持たされやすい性別であると言えるのではないでしょうか。

そういった社会的な教えの中で男性という性別に属する人たちの多くは「ビビらせるくらいなら余計なことはしないほうがいい」という感覚を同時に養っていくのではないかと想像しました。「何もしない」「動かない」というのは、危害を加えやすい側の、最善の安全対策でもある場合があるからです。

近くのものよりも目的地を見る

さらに、女性が目の前で起きていることに動揺している時「こうすればいいじゃないか、そんなことは何も問題ではないよ」と結論を先に言って女性との会話が噛み合わなくなるのも、近くのものよりも目的地を見るべしとされている車の運転と似ていると思いました。

目の前で何か起きていても、自分が必要なさそうだったら「大丈夫」と判断する。彼らに悪気があるわけではないけど、目の前の出来事の解像度が高い人からすると冷たい対応だと感じてしまうこともあります。ただ彼らには、危険を察知し自分がやるしかないと判断したら、全力で動き出してくれる特徴もあります。ただ、よっぽどじゃないと「無」で見ていることも多い。

女という性を45年間生きてきて、初めて車という、自分自身が危険な存在になる乗り物を運転して、初めてその感覚が分かったような気がしました。

女がかいがいしく動き回る時に、表情すら変えない彼ら。けれども、もしかして彼らにとってはそれが「動き回る」と同じくらいの働きであったのかもしれない、と思ったのです。

彼らが愚鈍なわけではなかったのだ――。

怖がられ疑われる性、危険な目に遭いやすい性

若い頃「職質にあった」と愚痴を漏らす男友達や男性の知人が何人もいました。だけど女性で「職質にあった」という話はほぼ聞いたことがありません。性暴力・性犯罪においては事実として男性が女性に加害するケースが圧倒的に多いのもあって、社会的に、男性は怖がられ疑われる性であり、女性は危険な目に遭いやすい性、というジェンダーロールがあります。

私は中高生の頃、「お前は被害に遭う側だから気をつけろ」という大人たちの予告通り、帰路を歩いているだけで見知らぬ男に駅からつけられ「家まで送るよ」と紳士みたいな口調で話しかけられ恐怖したり(本人はおそらく脳内で私とすでに付き合っている)、電車では脈略なく体を触られたりする痴漢被害に毎日のように遭い、原付に乗った男にすれ違いざまに胸を触られたり(性犯罪であり交通違反)、とにかくあらゆる形式で性的被害に遭いました。

どの野郎も必ず、ヒョコッといきなり現れます。それまでは隠れて近づいてきて、突然目の前に出て私の行く道をふさいだり、脈略なく体に手を伸ばしてきたりするのです。そういうやつらにひどい目に遭わされないよう、自衛しなきゃなんないのです。目的地よりも、目の前の曲がり角や、暗がりや後ろを気にして行動しなきゃいけない。常に目の前に気を配らないといけなかった。

そういった歩き方が子どもの頃から身に染み付いていたので、子ども乗せ電動自転車に乗っている時も、教習所で車の運転を始めた時も、その自衛の感覚が当たり前だったのです。

初めての「国の決まりを守っていれば私も守られる」感覚

そして最も、「運転は男性の世界である」と感じたのは、法定速度です。

教習所で「法定速度30キロの道は、35キロくらいまで出していいから」という教官がいました。「ゆっくり走ってたら他の車をイラつかせるから、他の車の流れを見てそれに合わせて」という意味です。他の教官も、私が法定速度ピッタリで走っていると「実際にこの速さで走ったら、クラクション鳴らされるよ」と教えてくれました。

しかし実際に運転するようになると、初心者マークを貼っているからかもしれないけど、法定速度で走っていて、周りの車に急かされたことは今のところありません。

教習所の時は「速く走らなきゃ! 35キロ出さなきゃ!」と思っていたけど、今は逆に、歩行者や車がいてどうしてもゆっくり走らないといけない時は「30キロのところを30キロで走ってるんだから何も悪くない」と堂々とした気持ちでいるようになりました。もしクラクションを鳴らしてくる運転者がいたら、その人のほうが交通違反じゃないか。国家、警察が決めたことを守っている私は、堂々としていればいいんだ。

そういう風な「国の決まりを守っていれば、私が守られる」という初めての感覚に、驚きで脳がビリビリしました。

なぜ彼らは「どこからがセクハラなのか」と聞くのか

ハラスメントが取り沙汰される時、その加害者となりがちな“権力を持つおじさん”は周りにこう尋ねます。「どこからがセクハラなんだ」「どういう言動をしたらパワハラになるのか」

「やられた人がイヤだ、と言ったらハラスメントだよ」と教えられても、彼らは「いや、どこまでがOKなんだ」と法律について聞いてくるので話が噛み合いません。

「どこまでやったら怒られるのか、捕まるのか」という質問は、国とか国家とか警察とか法律とか、何かしら、自分より大きな存在に守られているという信頼、そして自分は守られるべき存在であるという確信がないと出てこない疑問です。

「あなたがやっていることはハラスメントですよ」ととがめられた時に「どこまでやったら捕まるのか」と聞き返す人は、自分自身に最も近い「自分自身の気持ちや感覚」やその次に近い「自分に対して抗議している相手の気持ち」は一切無視していて、何よりもまず「法律」に注目しています。つまり「目的地」を見ているのです。

運転で「見えないカベ」の向こう側を体験できた
イラスト=田房永子
運転で「見えないカベ」の向こう側を体験できた

守られながら見張られる

一方私は、子どもの時からずっと、道端でワケのわからない性欲&加虐欲モンスターと化した見知らぬ男性たちからいきなり体や存在を狙われ好き勝手されて、警察に通報しても「見回りを強化します」と言われるだけの野生地帯でネズミみたいな立場でいたことが当たり前でした。

女性や子どもを守るために、法律や警察が男性を取り締まる、というような構造がある半面、私は車を運転して初めて「法律に守られている」ということを実感しました。そして同時に「交通違反やらかしたら警察に捕まる」ということも、すごく身近になりました。

つまり私にとっては、国家・警察・法律への信頼を持ちながら、同時に見張られる立場になることは、非常に「男性的」なのです。

法定速度を守って運転している時、私の胸には国家権力があります。守られていることに信頼を寄せることで、落ち着いて安全運転ができるのです。

車の中ではクレバーな「無」の感じで、車の外を見て、誰を守るべきかを判断しながら交通ルールを守ってスムーズに走行するってすんごい、侍っぽい。

「車の運転は、『男性』を体感できることである」と思うようになりました。

ネズミマインド、侍マインド
イラスト=田房永子
ネズミマインド、侍マインド

運転に必要な“侍マインド”

もちろん、運転が苦手という男性もたくさんいると思います。だけどそもそも車自体が、男性の身体や社会的ジェンダー規範に近いものであり、「侍」という男性的マインドが必要なので、ある程度練習したら違和感なくスッとできるのは男性のほうが多いというのもあると思います。

それに、つい数年前まで、男性の体型を模したダミー人形を使用した衝突実験データに基づいて車は設計されてきて、男性と骨の仕組みなどが違う女性のダミー人形は使用されてこなかったということも話題になっています。(毎日新聞デジタル「データがあれば… 運転中のけがに男女差 衝突試験は『変化の兆し』」)

私も40代になって、世の中のいろはも分かってきたし「男になればいいんだ」と頭で理解して運転できるようになりましたが、若い人、特に若い女性にとって車の運転は難しいことである、というのはそりゃ当たり前だと思うのです。