「不義の子」が描かれる「光る君へ」
NHKの大河ドラマ「光る君へ」(2024年)をずっと見ている。イメージすることが難しい平安時代の朝廷、貴族社会の姿がわかりやすく表現されていて、とても勉強になるからだ。
主人公は、『源氏物語』の作者、紫式部だが、今回のドラマの特徴は、紫式部と藤原道長が幼なじみと設定され、恋愛関係にあることだ。もちろんこれはフィクションだが、二人の間には子どもまで生まれたことになっている。道長には正式な妻がいるわけだから、その子は「不義の子」になる。
そのような設定が生まれたのは、『源氏物語』の主人公である光源氏が、父親である桐壺帝の妻となった藤壺と関係を結び、その間に後の冷泉帝が生まれるからである。「光る君へ」の脚本家は、それを踏まえ、紫式部にも不義の子を産ませたわけである。
『源氏物語』の薄雲の巻には、冷泉帝が、藤壺の夜居の僧から自らの出生の秘密を教えられる場面が出てくる。夜居の僧は護持僧とも呼ばれるが、天皇や皇后など高貴な人物に仕え、その安寧のために日頃祈禱を行う僧侶のことをさす。
70歳に達したその僧侶は、藤壺が37歳で亡くなったこともあり、天変地異が続き、世が乱れるのは、そうした出生の秘密を持つ冷泉帝が即位したからだと解釈し、それで重大な秘密を打ち明けたのである。
不倫の機会はいくらでもあったのか
ただ、そこで興味深いのは、冷泉帝が出生の秘密を知って、「自分は不義の子である」と悩むわけではないことである。冷泉帝が考えたのは、譲位して、本当の父である光源氏に皇位をわたすことだった。光源氏は、その申し出を拒む。
光源氏は、桐壺帝の子であり、天皇家の血筋につらなっている。だが、臣籍降下しており、そのために源氏の姓を賜っている。その点で、源氏の嫡男である冷泉帝が即位することは、本来ならあり得ない話である。
ではなぜ、光源氏は藤壺と関係を持つことができたのだろうか。それについては若紫の巻で語られている。藤壺は病によって宿下がりをしており、侍女である王命婦の手引きによってそれが実現したのだ。
これは、偶然の機会を活かしての不倫ということになる。
だが、「光る君へ」を見ていると、そうした機会はいくらでもあったように思えてくる。
中宮は、天皇の正式な妻であり、皇后である。ただ、天皇には他に、女御や更衣といった女性たちがいた。こうした女性たちは、「七殿五舎」という場所で暮らしたが、そうした殿舎は、天皇の住まいや政務を司る建物の北側にあり、殿舎は渡り廊下で結ばれていた。
日本式後宮の他国との決定的な違い
これが日本式の「後宮」ということになるわけだが、他の国の後宮とは決定的な違いがあった。
たとえば、中国の後宮で働くのは、女官と宦官に限られた。宦官は去勢した男性のことである。皇帝を除き、宦官以外の男性は後宮に立ち入ることができなかった。それは、后妃が皇帝以外の男性と関係を結ぶことを防止するためだった。
これに似ているのが、江戸時代の「大奥」である。日本では宦官が存在しなかったため、大奥に勤めているのは女性ばかりだった。大奥は男子禁制で、将軍以外は立ち入ることができなかった。入れる男性がいたとしたら、それは御殿医だけだった。
宦官は、中国の文化を受け入れた朝鮮半島やベトナムの王朝にもいたし、古代のオリエントやイスラム王朝であるオスマン帝国のハレムにもいた。ところが、日本では、刑罰として去勢する宮刑が課せられたことはあったようだが、後宮に宦官が入ることはなかった。
開放的な場として描かれる七殿五舎
なぜ日本の後宮に宦官が入らなかったのか。
いろいろな説が唱えられ、家畜の去勢を当たり前に行う牧畜民ではなかったからだとも言われる。だが、そもそも日本では「男子禁制の後宮を作ろう」という構想がなかったことが決定的なのではないだろうか。
「光る君へ」でも描かれているが、七殿五舎は男子禁制ではなく、男性の公家たちが頻繁に出入りしている。そこはサロンのような役割を果たし、社交の場でさえあった。
しかも、「光る君へ」では、七殿五舎がいかに開放的な空間であったことが強調されていた。部屋と部屋を隔てるのは御簾や几帳だけで、「藤壺」の別名をもつ飛香舎へはじめて上がった紫式部は、他の女官たちのいびきに悩まされたりしたのだ。
天皇の后妃は、そんな開放的な空間で生活していたわけだから、たとえ宿下がりなどしなくても、天皇以外の男性と関係を結ぶことはいくらでもできたはずである。
貴族社会の噂になった陽成天皇
実際、不義の子ではないかと噂された天皇がいた。それが、第57代の陽成天皇である。
陽成天皇は、平安時代前期の貴族で歌人の在原業平と、第56代の清和天皇の女御であった藤原高子とのあいだに生まれたのではないかという噂である。
ただこれは、業平を主人公のモデルとしたのではないかと言われる『伊勢物語』をもとにした噂であり、事実であるという証拠はない。『源氏物語』は、この『伊勢物語』の影響を強く受けている。
しかし、こうした噂が立ち、『源氏物語』で、不義の子としての天皇が描かれたということは、そうした可能性があると、平安時代の貴族社会で認識されていたからではないだろうか。
それも、天皇の后妃が、厳重に管理された後宮に閉じ込められていなかったからである。部屋には鍵などかかっていなかった。しかもそこには男性が出入りできたのである。
后妃が天皇以外の男性と関係を結ぶことを防止しようとするなら、江戸時代の大奥のように、後宮には女官だけがいて、天皇以外の男性が出入りできないようにするべきである。大奥の場合、「七ツ口」で、男性の役人が仕事をしている場所とは仕切られていた。
となると、平安時代の後宮が開放的だったのは、意図的なものと考えなければならなくなってくる。
皇位継承のさまざまな困難
古代から、皇位をつつがなく継承していくことにはさまざまな困難がつきまとってきた。
天皇には、皇后のほかに幾人もの側室がいたわけだが、必ず跡継ぎが生まれるわけではない。不妊が天皇の側の問題であることだって、いくらでもあったはずだ。
一方、平安時代になると、摂関家である藤原氏が大きな力を持つことになった。その代表が、「光る君へ」の最重要人物藤原道長ということになるが、藤原氏としては、娘を入内させ、次の天皇になる皇子を産ませる必要があった。道長がそれに腐心する姿は、「光る君へ」でも描かれている。
娘を入内させたのに、子が生まれないということは、摂関家にとって困った事態である。天皇の外戚として権力をふるえなくなるからだ。懐妊を待ち続けるしかないとも言えるが、なかなか娘が懐妊しない場合、高い能力を持つとされた僧侶に熱心に祈禱もさせたであろう。それでも懐妊に至らなければ、非常手段に訴えることだってあり得たはずだ。
娘の側も、懐妊し、皇子を産んでこそ、その地位は安定したものになる。果たしてそのときに不義ということは起きなかったであろうか。
不義を防ぐ体制がなかった事実
もちろん、そうしたことが実際に起こったという証拠を見いだすことはできない。
だが、不義を防ぐ体制がまったく作り上げられていなかったことも事実である。そして、『伊勢物語』や『源氏物語』は、その可能性を示唆している。
天皇の側にとっても、たとえ実子ではなかったとしても、皇位を継承する皇子が生まれることは好ましい。その点で、天皇の側の利害と摂関家の利害とは一致する。
もし、後宮が完全に閉ざされ、男子禁制が徹底して守られたとしたら、不義は起こり得ない。だが、そうなると、皇位の継承に支障が起こるかもしれないのだ。
その点で、極めて開放的だった日本の後宮は、巧みなものだった。
『源氏物語』の冷泉帝が、出生の秘密を明かされても、大きな動揺を示さなかったのも、それが関係するのではないか。そもそも、不義の子としての天皇を描く『源氏物語』が、朝廷と貴族社会で好んで読まれたのは、不義の子が皇位を継承することを許容する空気が存在したからではないだろうか。
明治以降の皇位継承の背後にあるもの
江戸時代に大奥が生まれたのは、徳川幕府が儒学を公式な学問として採用し、儒教倫理が広まったからである。平安時代には、すでに儒教は取り入れられていはたものの、その倫理に当時の人たちはまだ縛られていなかった。
皇位は、男系男子によってのみ継承されるという考え方は、明治になって打ち出されたものである。その背景には、儒教にもとづく「男尊女卑」の考え方があった。
天皇は男系男子でなければならないというこだわりを持つ保守派の面々は、『源氏物語』を読み、「光る君へ」を見てみたらどうだろうか。
開放的な後宮で、皇子は皆、天皇の血を受け継いできたのだろうか。そんなことが可能なら、他の国の後宮において多数の宦官を入れる必要などなかったはずである。