一部上場のホワイト企業でも入社してみると、仕事のやり方は旧態依然としていることがある。組織開発のコンサルを行う勅使川原真衣さんは「指示に疑問があっても、使えないやつと思われたくなくて質問できない企業風土では、新人は萎縮してしまう。そこで失敗したとしても、その人に能力がないということでは必ずしもない」という――。

※本稿は、勅使川原真衣『職場で傷つく リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』(大和書房)の一部を再編集したものです。

ポテトチップスとビール
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「能力」とは絶対的なものではなく、刻々と変化する「状態」

人は環境次第でいかようにも変わります。元気そうに見えた人が、ある日突然進行がんが見つかり、弱ってしまうことだってそりゃあ、あるのです(私のことです)。

人の見え方(評価)でいえば、もっと可変的です。株相場と同じくらい、平気で変動します。

その人そのものが変わらなくても、誰と何をどのようにやっているか? という場が変われば、「使える」と言われたものも翌日には「あいつ使えねえ」に変わりかねない。逆もまたしかりです。

ある人の見え方は、その人が固定的に保持しているかの「能力」ではなく、あくまで互いに影響し合って揺らぎの中を進行する「状態」なのです。

このことについて初作で著した際に「自分のことかと思った」と方々より反響をいただいた、敏腕営業部長Mさんの新卒時代の黒歴史を題材に、考察してみましょう。

今は敏腕な営業部長が新卒で入った会社でやらかしたこと

Mさんが新卒で入った旅行会社は、新卒学生が挙げる人気企業ランキングの常に上位。「健康経営」「パーパス経営」だなんだといった組織論でも先端を行く企業の1つと認識されている「優良企業」です。

しかし、つぶさに見たときの現場は、「自分で考えろ」「調べてから聞け」が飛び交う部門や部署もしかと存在していたようです。これはつまり、組織目標は大きく美しく掲げられているものの、ちょっとしたことを気軽に確認できない、窮屈な組織風土が醸成されているということでもあります。

新卒入社の営業社員のMさんは、ある最重要顧客のプライベート旅行の手配の指示の中に、「チップとデールをよろしく」と出てきたのですが、初耳で、なんのことかわからないでいました。

わからないなら尋ねればいいだけの話のように思いますが、そう単純なことではないのが世の常。

「そんなことも知らないのか!」

これまで散々言われ続けたことで、次のような意思決定をするのです。「チップとデール」と何回も脳内で唱えるうちに、

「チップとデール……?」→「チップスと、デール?」→「チップスとビール……」→「チップスとビールのことか!」

勝手にシナプスがつながり、わかった気になってしまったのです。

そして迎えたリクエストの当日。そのクライアントのお嬢さんのお誕生日祝いの席でしたが、そこに大好きな「チップとデール(ディズニーキャラクターであるシマリスのコンビ)」のデコレーションが施されることは……ありませんでした。テーブルにデーンと、ビールジョッキとフライドポテトが用意されていました。期待値が高かっただけに、事態は修羅場に。

「チップとデール」の悲劇で始末書を書き、会社を辞める

電話で叱責されたうえ、自社内でも即刻始末書を書かされ、その後も「そういえば前からMは使えなかった!」などと袋叩きに遭い、退職することを決意したのでした。

しかしこれまた興味深いことに、Mさんはその後転職し、今となってはその転職先で最年少営業部長として比類なき「才能」! をみせている、というエピソードでした。

さて、この話。初作では、「能力」評価なるものが乱高下する一例としてサラっと描きましたが、これは実は掘り下げ甲斐のある事例なんです。

特に、登場人物各人がかけているであろう「めがね」をかけて、状況を眺め直すとおもしろい。

階段の一番上から双眼鏡で遠くを眺めている人形
写真=iStock.com/mikkelwilliam
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新卒社員Mさん(現、他社の営業部長)には、聞きたいことも聞けない、不自由で不寛容と映った職場。たとえ、先端的、「優良企業」であったとしても、です。

また同時に興味深いのは、その職場の当時の上司たちは、世が世なら「パワハラ」と言われてしまうかもしれない点です。何か聞いたら、

「ねえ、忙しいのわかんない? そんなことに答える暇ないんだよ。自分で考えて」

――この積み重ねで、若手は病んでしまうことが充分に考えられるわけですから。

忙しいプレイングマネージャーに部下の教育はできない

しかし、マイクを今度はその上司たちに向けると……まったく異なる世界線が見えてくるはずです。直接ご本人たちに聞いたわけではありませんが、似通った状況は散見され、そのたびにこれまで相談を受けてきました。それら拙経験を職場のエスノグラフィー(質的調査、参与観察メモ)として振り返るに、十中八九、こう言うことが想像されます。

「自分たちがプレイングマネージャーとして、重い予算(ノルマ)を持たされて、それでいて部下を育てろ? 体が何個あっても足りませんって。

気楽に何度も何度も質問されて、それにいちいち答えていたら、それだけで1日終わります。ちょっと緊張感って言うのかな、なんていうか締め付けは必要なんです。育成というか、人の管理には。

僕らにこれだけの生産性を求められていたら、そりゃあ空気の読めないような、能力の低い人には犠牲になってもらわないとどうしょうもない。

いいですか、知らないことを聞かなかったM本人が諸悪の根源です。『わからないことを聞けない組織風土をつくった』? いやいや(笑)、わたしたちを巻き込まないでほしい。

Mみたいにあれこれ聞いてくるやつ、ほかにはいませんでしたからね。彼は採用ミスだった、と言うべきでしょう。それだって俺らの責任になるんですよ?

『誰だよ、こいつ採用したの?』って言われるんですから。管理職はつらいですよ」

新人教育の余裕がない企業では、管理職も「傷ついている」

なんとなく、わかりますよね。これは、さっきまで「ひどい上司だな」と感じた点を覆す視点ではないでしょうか。つまり何が言いたいかと言うと、

――上司も上司で「傷ついている」

ということに他なりません。

はたまた、「チップスとビール」で大事な娘の誕生会を台無しにされたクライアントの側に立つとどうでしょうか。

始末書に追い込むほど、旅行先から名指しクレームを激高した様子で入れてきたクライアント。その権幕たるや相当な怒鳴りこみの国際電話だったと聞いていますが、それも本人からしたら、無理もないのです。だって、大事な娘の誕生会で、日ごろの育児参加の埋め合わせを考えていたであろうに、ちゃんと聞き返すなり、確認してくれなかった若造のせいで、台無しになったのですから。

これも世が世なら、「ヤバい人」「クレーマー」とされてしまうのかもわかりませんが、ご本人の事情はどうでしょうか。これも直接もちろん本人に聞けたわけではありませんが、似通った相談からこんな想像ができます。あながち的外れではないと思うのです。

頭を抱えているビジネスマン
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高い報酬を稼いでいるクライアントも競争で「傷ついている」

「日頃、『仕事と家庭どっちが大事なの?』と妻に繰り返され、時には離婚の二文字もちらつかされる中迎えた、背水の陣ともいえる娘の4歳の誕生日パーティー。

盛大に、娘が大好きなディズニーランドで開くことに決めたんです。そんな場で、ビールとポテト用意されちゃったんですよ?

僕はこれまで、完璧に仕事をこなしてきた。だから若くして、ここまで偉くなれた。ケア労働はすべて妻任せだと言われても、だからといって妻は妻で贅沢な生活を送れている。それが間抜けな若造の勘違いで、めちゃくちゃにされた気分。

人生がかかってるんですよ! 完璧な人生が。勘弁してくださいよ、クレームくらい入れさせてくれ‼」

――ああこの方も、労働世界の競争と、家庭というケア現場の狭間で「傷ついている」というわけです。

新人、上司、顧客それぞれの「見え方」が違うゆえの悲劇

どっちが「正しい」のか? などという単純な話ではないことは、つかんでいただけましたでしょうか。

こうした事案は、「被害者・加害者」のような二項対立的な図式で語りがちかもしれませんが、「正しい・間違っている」でもなければ、「良い・悪い」でも語り尽くせないのです。

ただただ、ある状況で、お互いに見えている世界・認識が違う、ということです。

その状況で、お互いがかけているメガネが違うことを意識せず、誤って次のことに盲進していくのが、いわゆる「トラブル(傷つき)」の状態と言えます。

お互いに自己正当化と他者批判をすると、蟻地獄まっしぐら

どこか思い当たる節がないでしょうか? 社会学的には「他者の合理性」と呼ばれるものです。が、この視点がないと、

「あいつが悪いのに⁉ まったく」
「こっちは被害者だぞ?」

という自己正当化か他者批判という穴を自ら掘って自ら入っていくことになり、袋小路、蟻地獄まっしぐら。

しかしながら、多くの人にとって、

「あなたは間違ってない」
「悪いのはまわり」

とささやいてもらえたほうが、一見するとありがたいといいますか、留飲が下げやすい。

ゆえに、「ハラッサー」問題や、「メンタル不調者」問題、「職場の害虫」問題などなど、個人のラベリングやカテゴライズによる問題の個人化は、ビジネス界でもビジネス書界でも、引っ張りだこと言えます。

ですが、耳に心地のよいことばかりを言って、問題の矮小化(自分以外の誰かの悪者化)をつづける限り、「職場で傷つく」ことを本質的に解きほぐせないと考えるため、しつこく言わせていただきます。

会社の会議
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他人をジャッジせず、その人が置かれている状況を理解する

「正しいのは誰か?」という問いは、忘れてください。

人と生きる限りにおいて、おそらくどこにも使い手のない不毛な問いです。誰しも、自分の目線で「正しい」ことをしているはずですから、議論は平行線をたどります。

ちなみに、「正しい」の部分は、こういう言葉にも置き換わります。「仕事ができる・できない」「頭がいい・悪い」のはどっち? もついつい、脳内を駆け巡ってしまう、間抜けな問いの1つです。

しかしいずれも、私たちが一生懸命になってすべきことではありません。

自分や他者をジャッジメンタルに見るのではなく、ただただ、

「今は状況・場の歯車が噛み合っていない“状態”に陥っているのだな」

ととらえることなのです。

そのうえで、

「さてこの歯車を、どう噛み合わせていこうかな? ちょっと考えてみようっと」

――これが、職場のいざこざを紐解く第一歩になります。

現に、先の登場人物たちは、今はそれぞれがまったく違う状況で、「パワハラ上司」でもなければ、「使えない新人」でもないのですから。「環境を変えよう」と発想しました。またそれが、功を奏した事例でもあります。

ゆえに、自分に問うべきもまずは、

「俺(私)って、ほんとにやばいのかも? ああ眠れない、どうしょう」ではなく、

「いまちょっと調子悪いな……。どこが噛み合わないのかな? 変えられるところはあるのかな?」なのです。

この思考は、何より現場に則した現実的な思慮です。

自分の能力不足と落ち込まず、転職することで環境を変えた

自分って……と掘れど掘れど、不安感と妄想が広がるばかり。先ほどのMさんも、確かに前職の旅行会社では「傷つき」ましたが、そのあと、自分自身の「能力」の問題だと意気消沈することなく、転職することで、環境を自ら調整しました。

彼の思考プロセスは、今考えても見事な判断だったと思います。

加えて、新天地でうまく立ち上がれたのは、環境を変えたことだけではなく、自分自身の解釈や言動のパターンをよくよく内省したことも大きな一因です。

誰が悪いのか? あの環境はどのくらいひどいところなのか? などともんもんと考えつづけるのではなく、人と人、人と環境は互いに影響を受け合っているのだというメカニズムを理解したうえで、彼は、自身が陥った一定のパターンには自覚的になっていました。

「圧力がかかると、委縮して、ひるんでしまうのだな」
「聞くべきことも聞かずに進めることを、“できるやつ”と思い込んでいたな」

など、苦々しい過去のしくじりであろうと、少し引いて、振り返っていたのです。

勅使川原真衣『職場で傷つく リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』(大和書房)
勅使川原真衣『職場で傷つく リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』(大和書房)

――これは「能力」ではなく、振り返りの習慣として非常に卓越したものだと感じます。さらに付け加えるなら、Mさんご自身の苦い経験を、今いる会社で存分に活用しているといいます。

どんなに忙しくても、自分もプレイングマネジャーとして余力をなくしているときでも、チームメンバーの口を塞がないことを徹底すると。質問しにくくする、報告しにくくする、提案しにくくする、それらの行き着く先の悲惨さを知ってますから。

今となってはそう語るのです。これほど活きた学びがあるでしょうか。