ヒロインの恋の相手役を演じる岡田将生の好感度が爆上がり中
俳優・岡田将生の好感度アップが止まらない。現在35歳、デビューして18年目の彼には、仲野太賀(「虎に翼」でヒロインの前夫役)と共演した「ゆとりですがなにか」など、既に主演作もたくさんあるが、ここにきて、朝ドラでヒロイン・寅子(伊藤沙莉)のロマンスの相手役となり、「朝から見るにはイケメンすぎる!」とも騒がれるほど整った顔面と繊細な演技で、老若男女の視聴者を魅了しつつある。
そんな岡田が演じる星航一のモデルは、初代最高裁判所長官だった三淵忠彦の長男・三淵乾太郎。「非常に豊かな教養と気品のある風格を兼ねそなえた紳士で、忠彦長官の御曹子にふさわしい優れた資質の持ち主」(『追想のひと 三淵嘉子』高木環の文章より)というジュニア的な扱いをされることが多いが、調べてみると、勲二等瑞宝章を授与された父親に負けず劣らず、乾太郎もドラマチックな人生を送った人だ。最高裁判所の調査官、東京高等裁判所の裁判長になるなど、法曹界の第一線で活躍し、戦前・戦後の激動の歴史に関わってきた人物である。
「初代最高裁判所長官の息子」として完璧なエリート人生
三淵乾太郎が、和田嘉子と再婚したのは50歳の時だが、彼のそれまでの前半生を知るキーワードは3つ。「初代最高裁判所長官の息子」「総力戦研究所第一期研究生」「ロマンチストの愛妻家」だ。
乾太郎の祖父は会津藩士で武士の家系。三淵家のルーツは会津藩のあった福島県であり、乾太郎も「福島出身」というプロフィールになっている。京都帝国大学法科を卒業して裁判官となった父の下、明治39年(1906年)12月3日に生まれ、3人兄弟の長男として育ち、旧制水戸高校(現在の茨城大学)に入学。おそらく勉強はかなりできたタイプで、東京帝国大学を目指すため、福島から比較的近い水戸の進学校を選んだのだと思われる。
そして、東京帝大法学部を出て、1930年、高等文官試験司法科に合格して司法省へ。同期には「虎に翼」の久藤頼安(沢村一樹)のモデルとなった内藤頼博らがいた。父親が東京地方裁判所判事、大審院判事と出世していったので、その後継者として法曹の道を歩んだのかと思われるが、直接、父から「お前も裁判官になれ」と言われたわけではないらしい。後年、自らつづったエッセイで次のように明かしている。
裁判官として順調なキャリアを築くも「総力戦研究所」へ
昔の日本の家庭らしく、ベタベタしない、ある意味、不器用な父親と長男の距離感だったようだが、その父の願望どおり、帝大生でも合格が難しい高等試験をクリアした乾太郎は、さぞかし自慢の息子だっただろう。乾太郎は東京地方裁判所、高校時代を過ごした水戸の地裁などで、順調に裁判官としてのキャリアを積んでいく。しかし、太平洋戦争が起こった昭和16年(1941年)、その運命は一変する。
ドラマでも描かれた「総力戦研究所」。これについては、猪瀬直樹氏の『昭和16年夏の敗戦』が詳しい。1941年12月、日本がパールハーバーを空爆しアメリカに戦争を仕掛ける約半年前、30歳前後の官僚など、各界のエリートたちが30人ほど集められ、「もしアメリカと戦争をしたら、日本は勝てるのか」というシミュレーションを行ったという。
負ける戦争を止められなかったというエリートゆえの苦悩
東京地裁に勤めていた乾太郎はその模擬内閣で司法大臣というポジションとなり、他のメンバーと共に活動したと思われるが、どういう発言、主張をしたかという記録は残っていない。戦後になっても本人も明かしていない。実は、もともと司法省からは他の人物が推薦されていたのだが、健康診断で結核であることが判明し、乾太郎が代理で選ばれたのだという。
乾太郎たち官僚は、その頭脳と知識を活かし「戦争したら、日本は負けます」「そのうち石油が補給できなくなるし、ソ連が参戦したら詰みます」と、かなり正確な予測をしたのだが、その報告を受けた政府中枢、軍部は「日清、日露戦争のように戦争はやってみなきゃわからん」と無視して開戦へと突き進んだ。これではシミュレーションの意味がない、と総力戦研究所のメンバーが落胆、失望したことは想像に難くない。
ドラマでも航一がそのトラウマを抱え、戦争で家族を亡くした人たちに「ごめんなさい」と泣いて謝っていたように、わかっていたのに避けられなかったという悔しさ悲しさは、乾太郎の人生に影を落としただろう。乾太郎はこのミッションを与えられる前、昭和15年(1940)の「河合事件」と呼ばれる思想弾圧事件の裁判では、3人の裁判官のひとりとして、軍部批判をして著書の発禁処分を受けた東京帝国大学経済学部教授・河合栄治郎を無罪にしている(のちに控訴され有罪に)。思うところが何もなかったはずはない。
戦争で心の傷を負った乾太郎と嘉子は自然に惹かれ合った
ちなみに乾太郎は昭和19年9月から領事に任命され、中国の北京に異動している。資料では確認できないが、翌年の終戦の瞬間を北京で迎えたとすると、日本に引き揚げてくるまでにも命懸けのエピソードがあったのではないだろうか。
一方で和田嘉子(当時)も、夫が戦病死し、その死に目に会いに行けなかったことをずっと悔やんでいた。ドラマで描かれるように、二人が戦争で負った心の傷を共有し、それを癒やすように愛情を寄せ合い結ばれたというのは、リアルだったのかもしれない。
三淵乾太郎を知る人は、彼が「美男子」で「紳士」だったという証言を残している。司法省の野球部のメンバーであったり、運動会の徒競走で活躍したり、後年はゴルフにはまってプロを目指したらと勧められるなど、スポーツも得意だったようだ。ドラマで描かれるように麻雀も好み、要するに、口数の少ない紳士だけれど、遊びで競争するのは好き。
乾太郎と4人の子をもうけた祥子夫人とのラブラブな逸話
前妻、祥子は大正2年生まれで9歳下。二人の間には4人の子が生まれ、女の子が3人続いて、ようやく4人目に男子を授かる。その娘たちから言わせると、乾太郎はロマンチストでさびしがりや。もちろん、愛妻家だったらしい。後年、ゆかりのあった小田原元市長・鈴木十郎の遺稿集に文章を寄せ、こんなエピソードを明かしている。
(『鈴木十郎 遺稿と追想』1977年)
秋の空模様のようにコロコロと変わりやすいのは女心か、それとも男の方か。祥子夫人とそんなやりとりをしていたと思うと、微笑ましい(このエピソードは嘉子夫人との話だという可能性もある)。乾太郎はそんな愛する妻を病気で亡くしてしまい、落胆している中、義母が推薦してきた嘉子との再婚話を進めることにしたという。
「全人格的にお似合いのご夫婦、神の摂理の美妙さ」と絶賛
いわば再婚同士、お見合いに近い形で結婚の話が進んでいったわけで、ここはロマンティック・ラブを描くドラマと違うところだが、実は乾太郎の方が積極的で嘉子への思いが勝っていたという同僚の証言、「結婚したのはお互いに気に入ったからです」という乾太郎の子どもたちの談話もある。周囲からも、裁判官同士、ハイスペックでお似合いのカップルと見られていたようだ。
50年来の親交があったという調停委員の高木右門は、乾太郎のことを「積極的にヒューマニズムの視座から権利保護の姿勢を貫かれた」とリスペクトし、「人間的な親近感」を抱いていたという。嘉子とも一緒に仕事をしていて、乾太郎との縁組みは「全人格的にお似合いのご夫婦が誕生し、神の摂理の美妙さに深く打たれた」と感激。その感激のあまりか、推しカップルの目撃談も披露している。
(『追想のひと 三淵嘉子』1985年)
法曹界のセレブ、三淵家に嫁いだ嘉子は玉の輿だったか
エリート一家の長男でイケメンの乾太郎と再婚し、三淵嘉子となった嘉子を玉の輿とまでは言わないが、ラッキーだと思った人もいたらしい。内藤頼博はこう書き残している。
(『追想のひと 三淵嘉子』1985年)
法曹界で祝福された乾太郎50歳、嘉子41歳の時の結婚は、ドラマではどうアレンジして描かれるのだろうか。今後の展開が楽しみだ。