長崎平和祈念式典にアメリカ、イギリスなどの大使は欠席
8月9日、戦後79年を迎えた今年の長崎平和祈念式典。長崎市がイスラエル駐日大使を招待しなかったことで、エマニュエル・アメリカ駐日大使らが式典を欠席する結果となった。
イスラエルを招待しないのは、イスラエルをロシアやベラルーシと同列に置くもので、式典の政治利用だ、というのが、エマニュエル大使らの言い分だった。事前にG7諸国やEUの大使らと連名で書簡を送り、このままだと高官の出席は難しい、と長崎市側に通告していた。
これに対し、式典前日の8日、鈴木史朗・長崎市長は会見で「不測の事態のリスクを考慮したもの」「平穏かつ厳粛な雰囲気の下で円滑に式典を実施したい」と説明し、政治的な理由はないと、大使らの見方を否定した。
両者の言い分は平行線で終わった。だが日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の田中熙巳氏が言うように、「『ガザで残虐な行為をしているイスラエルに来てもらいたくない』という市民や被爆者の気持ちを受けて、イスラエルを招待しなかった」という面もあったのだろう。広島市がイスラエル大使を式典に招待したことについても、地元では疑問視する声が上がっていた。
「原爆を作る人々よ!」と訴えた鈴木市長を支持する声
実際、広島市の対応は、長崎市とは真逆だった。6日の式典では、入場制限と持ち物検査まで行い、プラカードなどの持ち込みさえ禁止した。背景には、イスラエル大使が出席したことによる「不測の事態」に備える必要もあったと思われる。だがこうした規制はさらに市民の反発を呼び、分断を作り出した。広島市の対応がこれでよかったのかも考えるべきだ。
一方で鈴木市長は8日の会見で、被爆者の平均年齢が既に85歳を超えており、「体にムチを打ち、酷暑の中、頑張って式典に参加する方もいる」と話していた。「長崎市にとって一年で一番大切な日」と市長が見なしているその日に、高齢の彼らが、入場規制や所持品検査を受けて参列しなければならないとすれば、酷なことだ。その点長崎市の方が、より市民に寄り添った対応をしたと言える。市長は市民の代表であることを考えれば、当然のことでもある。
XなどのSNSでは、方針を曲げなかった鈴木市長を支持する声が多い。
鈴木市長は、式典にG7の大使たちが欠席し、岸田文雄首相が見守る中、長崎平和宣言の冒頭で被爆詩人・福田須磨子(1922~74年)の詩を引用した。宣言の内容も、松井一實・広島市長が読み上げた平和宣言より、反響が大きかった。
しばし手を休め 眼をとじ給え
昭和二十年八月九日!
あなた方が作った 原爆で
幾万の尊い生命が奪われ
家 財産が一瞬にして無に帰し
平和な家庭が破壊しつくされたのだ」
広島市とちがって、長崎市の平和宣言は市民の意見も反映
この「原爆を作る人々よ!」という呼びかけの先に、オッペンハイマーがいると言っていいと思う。今春日本で公開されたハリウッドのヒット作『オッペンハイマー』には、広島・長崎の原爆被害の様子が全く描かれていなかった。それについて国内で批判の声が上がっていたが、映画の中では完全に切り捨てられていた被爆者の声を、式典の場で世界に向けて届けた、と言える。
「ロシアのウクライナ侵攻に終わりが見えず、中東での武力紛争の拡大が懸念される中、これまで守られてきた重要な規範が失われるかもしれない。私たちはそんな危機的な事態に直面しているのです」と、イスラエルに対すると取れる文言も盛り込んだ。
「オッペンハイマーに言及を」「イスラエルを名指せ」といった意見は、市民が参加する平和宣言の起草委員会でも出ていた。長崎市は、それをそのまま取り入れたわけではないが、参考にしたとは言えるだろう。重要なのは、長崎では起草委員会で出た内容は逐一報道され、作成過程の見える化が進んでいることだ。
それも広島との大きな違いだ。広島市では、有識者でつくる平和宣言に関する懇談会の内容は非公開。ブラックボックスに入ったままで、市民には知らされず、閉じられている。
ふだんは、広島の陰に隠れた扱いをされることが多い長崎。しかし今回、イスラエルの招待を拒否したことで外圧をかけられながらも、ぶれなかったのはなぜだろう。その一つは、このように市民と親和的であろうとしている長崎市の姿勢にあると思われる。市民の声をバックにしていると、揺るぎにくい。
『長崎の鐘』の著者・永井隆は原爆肯定ともとれる主張をした
もう一つは、広島とは違う、長崎の一筋縄でいかない歴史が関係している。長崎は式典を政治利用しているとエマニュエル大使は非難したが、私に言わせれば、戦後まもない時期から、長崎はずっと政治利用されてきた。たとえば、式典の際に高らかに鳴らされる「長崎の鐘」。長崎で被爆した医師の永井隆が病床で書いた同名の書と同じ名前だ。
永井の『長崎の鐘』は1949年、占領下で出版された。日本軍がマニラで行った住民らへの残虐行為をまとめた『マニラの悲劇』との抱き合わせ出版だった。検閲により原爆報道が自由にできなかった時期に、ベストセラーとなった異例の本だ。
爆心地に近い長崎医科大学で被爆した永井や同僚の救護活動などが記されているが、最後に出てくるのは、次のような永井の主張だ。
「原子爆弾が浦上におちたのは大きな御摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」
その後、キリスト教徒である永井が息子や娘と、浦上天主堂の鐘の音を聴きながら祈るところで幕を閉じる。
天皇にも慰問された永井は死後も影響力を持つ
原爆肯定とも読める、この永井の主張は、後に強い批判を呼んだが、当時は違った。ベストセラーになった『長崎の鐘』は映画化され、人気歌手の藤山一郎が同名の曲を歌った。覚えやすく甘いメロディで、センチメンタルな心情を歌った曲は大ヒットした。メディアミックスでブームを作り出す手法は、既に健在だった。
ただ、歌詞には原爆は一切出てこなかった。映画の方も、永井を悲劇のヒーローのように取り上げるだけで、原爆被災シーンは皆無だった。
その後、永井は偉人のように見なされるようになる。死期を悟りつつ、遺される子供たちや長崎のことを案じるエッセイを書き続ける永井を、昭和天皇やローマ法王の特使、ヘレン・ケラーが慰問に訪れた。永井は最初の長崎市名誉市民に選ばれ、国会でも、日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹と同時表彰された。
1951年に死去した後も、長崎では永井の強い影響力が残った。「怒りの広島、祈りの長崎」――戦後しばらく、広島と長崎はそう対比されていたが、「祈りの長崎」と言われるようになった背景に、「長崎の鐘」を道具立てにした一連のブームがあった。
1960年代から永井批判が起き、長崎市民も原爆被害を訴える
一方、広島では、怒りと共に被爆の実相を告発する人たちが前面に出た。1952年春に占領が終わり、日本が主権を回復すると共に、本格的な原爆報道が始まった。
報道以外の分野でも、それまで禁じられていたビジュアルな描写を初めて行った一人に、広島出身の新藤兼人監督がいる。“解禁”となって最初の1952年8月6日に狙いを定めて、広島の少年少女の被爆手記を集めた『原爆の子』を映画化し、公開した。
広島で被爆した原民喜、大田洋子、峠三吉らの文学者が書いた原爆文学や原爆詩も広く知られるようになり、広島出身者が目立つ時期が続いた。
しかし、長崎では、それまでタブーになっていた永井隆批判が始まったのは戦後20年もたった1960年代後半のことだった。口火を切った一人が、被爆者運動の中心人物だった医師の秋月辰一郎。永井と師弟関係にあったが、「ついていけない」「原爆を語れば、それは反米分子であり、革命分子であると見なされるようになった」「ひたすら祈りを捧げるだけになってしまった」などと声を上げた。
追って永井の批判を始めたのが、詩人の山田かんだ。秋月と同じく、キリスト教徒だった。「被爆の実態を歪曲し、あたかも、原爆は信仰教理を確かめるがために落されたというような荒唐無稽な感想を書きちらした」「ジャーナリズムはそれらを厚顔にももてはやすという、まさにアメリカ占領軍の意を体したかのごとき活動を行いつづけた」などと痛烈に批判した。
「祈りの長崎」だけでなく「もの言う長崎」が出てきた
実際、GHQが『長崎の鐘』の出版を許可したのは、原爆被害を受け入れ、災害のように描いているからだ、との見方がある。深刻な物資不足の折り、GHQがこの本のため用紙を融通すると申し出た、とも言われている。
そもそも永井を見出したのは、西九州に駐屯していた米軍だった。「わが身を実験台に、原子病の究明に励んでいる」科学者として1947年に発表したのを全国の新聞が取り上げた。永井がマスコミで引っ張りだこになるきっかけとなった。
このようにして徐々に、「もの言う長崎」が「祈りの長崎」から枝分かれしていった。もともと浦上には隠れキリシタンの歴史があり、江戸末期から明治にかけて起きた「浦上四番崩れ」をはじめ、厳しい弾圧を4回も経験した。島原や五島でも、数百年にわたり信仰をあきらめず、抵抗を続けてきた過去がある。祈りと抵抗、という長崎のキリスト教徒が持つこの2つの面が、原爆被害の受け止め方にも表れているようにも見える。
平成の時代に2人の「もの言う長崎市長」が銃撃された
「昭和天皇は戦争責任がある」と発言し、1990年に銃撃を受けた五島出身の本島等・長崎市長も、熱心なキリスト教徒だった。本島はもともと自民党所属の保守派。そうした人物が、当時タブーにされていたことを口にする。本島はその後、アジア太平洋諸国を侵略した日本の加害責任についても、積極的に語るようになった。長崎には、そのように簡単には説明できない重層性がある。
近年、広島市長より、長崎市長が平和宣言などで語る言葉の方が、より骨太で腰が据わった内容だと評価されることが増えている。悲劇的にも、2007年に暴力団組員により射殺された伊藤一長・長崎市長も、国際司法裁判所の陳述の場で、アメリカの原爆使用は国際法違反だ、と無残に被爆した少年の写真パネルを掲げ、涙と共に訴えている。もともと自民党などの支援を受けてきた政治家だった。
市職員出身の田上富久市長も、2014年の平和宣言で、集団的自衛権を巡る議論について懸念を表したことがある。その後自民党議員から反発を受けたが、国際的にも国内的にも、平和と軍備については「もの言う長崎市長」が続いている。鈴木市長は、こうした市長たちの系譜を引き継ぐ立場だ。
はたして鈴木市長が背負っているものは何だろう。
鈴木市長は実は、「被爆建物」だった浦上天主堂を撤去してしまった田川務市長(1897~1977年)の孫に当たる。
爆心地に近い浦上天主堂は徹底的に破壊されたが、中でも熱線で顔を焼かれたマリア像は、涙を流しているように見えた。もしそれらが当時のまま残っていたら、長崎の原爆被害のアイコンになっただろう。
なお、当時の浦上天主堂の映像は、1956年に公開された亀井文夫のドキュメンタリー映画『生きていてよかった』で見ることができる。
今の鈴木市長は、浦上天主堂を撤去してしまった田川市長の孫
田川市長は、最初は浦上天主堂の保存に前向きだったと言われるが、姉妹都市提携を結んだアメリカ・ミネソタ州のセントポール市を1956年に訪問した後に態度が変わり、撤去に踏み切った。
キリスト教の殿堂を破壊し、キリスト教徒が多数虐殺されたことが、浦上天主堂の残骸を通して可視化されていたら、欧米へのインパクトも大きかっただろう。鈴木市長は、祖父が浦上天主堂を撤去したことをどう思っているのだろうか。
ただ、浦上天主堂の保存問題は、引き裂かれた長崎を象徴している面もある。天主堂の場所が、かつて江戸時代にキリシタンが踏み絵を踏まされた庄屋跡地でもあることから、その地に再建することは天主堂側にとっては譲れないことだった。長崎市議会は全員一致で保存を求めていたが、爆心地が長崎中心部から離れた浦上だったため、原爆被災を「キリスト教徒の多い浦上で起きたこと」と見なす市民も、一定数存在した。
山がちの長崎の地形も影響した。原爆被災の程度は爆心地からの距離だけでは測れず、その点、平地の広島とは大きく違う。市中心部が壊滅させられ、怒りに燃えた広島に比べ、長崎の中心部はむしろ、被災者の救護に回った地域だ。隣接した地域でも被害に濃淡があり、ひと固まりで把握しにくい。
今でも、被爆二世や三世でなくても、広島出身なので原爆の問題は自分にとって重要と話す人たちはいるが、長崎出身でそのように話す人は、広島に比べて少ないように私自身は感じている。
英米留学経験もあり「国際派」の鈴木市長だから決断できた
つまり、ある意味自然に「一体」になってきた広島と違い、複雑な状況が重なる長崎にとって、分断の持つ意味は非常に大きい。だからこそ冒頭で書いたように、長崎市が、市民の意見を聞き、寄り添っていくことが重要なのだと言える。
祖父の田川市長もそうだったが、鈴木市長の両親も被爆している。90歳になった母親の鈴木智子氏の誕生日は8月9日。「母の誕生日でありながら、母の誕生日を祝えない、そういう8月9日をずっと過ごして参りました」と鈴木市長は語っている。
ただ、海外渡航がままならなかった時代に渡米した田川市長と違い、鈴木市長は国際派だ。鎖国していた江戸時代、出島のあった長崎は、海外とつなぐゲートシティだった。鈴木市長は、その出島の出身でもある。
運輸省(現在の国土交通省)の官僚となる一方で、イギリスの大学で国際政治経済学の修士を、アメリカの大学で国際法と国際関係の修士を取得もしている。国際社会の論理を政治的・法的に知悉した上で、どう自分の考えを持って行動するか、わかっていると見てもおかしくない。国際社会で広範な支持を得るには、筋を通すことはとても重要だ。それは、立ち位置や忖度や駆け引きを重視する日本の国内政治の論理とは異質のものだ。
核廃絶のスローガンとしてよく「ノーモア・ヒロシマ」と言われるが、これも実はおかしい。長崎が原爆で攻撃をされた時点で、既にそれは破綻しているからだ。本来、私たちが追求すべきは「ノーモア・ナガサキ」であり、それには長崎市の強いリーダーシップが欠かせない。「もの言う長崎」の今後が注目される。