再婚相手の三淵乾太郎氏には前妻との間に4人の子がいた
「虎に翼」第16週では、寅子(伊藤沙莉)が新潟地家裁三条支部に赴任、支部に着任当初、歓迎の花束を受けました。ちなみに、ドラマでは初の地方赴任が新潟となっていますが、寅子のモデル・三淵嘉子さんの最初の赴任先は名古屋で、そこで3年4カ月を過ごします。最初から名古屋駅前の電光ニュースには「女性の裁判官が赴任」と流れるほどの注目度で、在任中はあちこちから声を掛けられ、講演を行うなど、引っ張りだこになります。
さらにドラマでは、初代最高裁判所長官・星朋彦(平田満)の長男で、判事の星航一(岡田将生)が再登場しました。星朋彦のモデルは初代最高裁判所長官の三淵忠彦さんで、航一のモデルは、その長男で最高裁判所の調査官もしたことがある裁判官の三淵乾太郎さんです。視聴者の中には、航一が寅子の再婚相手になるのだろうと推測している方も多いですが、では、実際に三淵乾太郎さんとはどんな人だったのでしょうか。
三淵乾太郎さんは、明治39年(1906年)12月生まれ。妻の祥子さんとの間に四人の子(長女・那珂さん、次女・奈都さん、三女・麻都さん、長男・力さん)がいましたが、祥子さんを病気で亡くしていました。
「お二人の親密さは、どうみてもただごとではない」
二人を引き合わせたのは、最高裁判所判事・関根小郷さんだったと言います。息子・芳武さんの記憶によると、名古屋時代に嘉子さんと芳武さんとある男性の3人で名古屋の動物園に出かけたそうで、そのお相手が三淵乾太郎さんだったと思われますが、二人の仲がさらに深まるのは嘉子さんが東京に戻ってからのようです。
東京に戻ってからのことを、同僚の裁判官・高野耕一さんはこう書いています。
「時々、三淵(和田)さんのお帰りになる時刻に判事室を訪ねてくる長身痩躯の英国型紳士に気付きました。お二人の親密さは、どうみてもただごとではなさそうでしたが、その紳士の方の思い入れは、遥かに三淵さんを上回っておりました。……(中略)……三淵さんも満更ではなかったようで、嬉しそうに連れ立って帰って行かれました。私は心中ひそかにあの紳士は何者かといぶかっておりましたが、何かの折りに、あれが最高裁調査官の三淵乾太郎さんだよ、お二人はやがて結婚するのだということを人から聞かされました」(『追想のひと三淵嘉子』)
先に惚れ込んだのは乾太郎氏、嘉子が41歳のときに再婚
乾太郎さんが先に嘉子さんに惚れ込んでいたのは事実のようで、乾太郎さんははじめ、同僚に「あの和田君(嘉子)がぼくのところへなんかきてくれるもんですか」と言っていたそうです。やがてふたりは昭和31年8月に結婚します。乾太郎さんは49歳、嘉子さんは41歳、互いに再婚でした。それは前夫・芳夫さんが亡くなってから10年の歳月が流れ、芳武さんが13歳、麻布中学の2年生になっていた頃です。
乾太郎さんは嘉子さんのどこに惹かれたのでしょうか。ふたりの出会いは、先述のように引き合わせた方がいてのものだったようですが、その前の接点として、ドラマと同様、嘉子さんは乾太郎さんの父・忠彦さんが本を出す際に手伝った一人だった、ということもありました。
さかのぼると、嘉子さんが尽力した家庭裁判所の設立に対し、当時は風当たりが強い中、理解者として、見守ってくれていたのも、最高裁長官だった忠彦さんでした。そうしたご縁もありましたので、忠彦さんが亡くなった際、嘉子さんはお悔みに行ったこともあったそうです。あくまで推測ですが、その際、お父さんにお世話になったご挨拶などを通して、嘉子さんと乾太郎さんは顔を合わせていたかもしれません。
乾太郎氏は「教養と気品のある風格を兼ねそなえた紳士」
また、忠彦さんはリベラルな方だったようですから、家庭裁判所設立のために奮闘する嘉子さんの話を乾太郎さんも聞いていたかもしれませんし、嘉子さんにも長官だった忠彦さんに対する信頼があったからこそ、その長男に対する親近感もあったのでしょう。そもそも同じ裁判官同士であるうえ、嘉子さんはまだ女性裁判官が少ない時代に赴任のニュースが出るほど有名でしたから、乾太郎さんは当然ご存じだったでしょう。
では逆に、嘉子さんは乾太郎さんのどこに惹かれたのでしょうか。私が『華やぐ女たち 女性法曹のあけぼの』(復刻版は『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』日本評論社)を書いたとき、嘉子さんの実子の芳武さんが、乾太郎さんについて嘉子さんが語ったことを話してくれました。
「母は三淵乾太郎を『処理が早いし、よく勉強する。仕事が好きなのね』と感心していました。母はもともと、勉強より遊びが好きです。仕事は『やらなければならない』という使命感でやっていました。好きではなかったのです」
また、東京地方裁判所の同僚だったという高津環さんは乾太郎さんについて、こう記しています。
「豊かな教養と気品のある風格を兼ねそなえた紳士で、……(中略)……お書きになった判例解説は、その内容もさることながら、いずれも香り高い名文で綴られており、並の法律家ではない」(『追想のひと三淵嘉子』)
乾太郎氏の長女による貴重な証言「父は恋愛至上主義者」
さらに乾太郎さんの魅力を推測する上では、長女・那珂さんのこんな発言が参考になります。
「父は会津っぽではなく、イギリス紳士型です。彼はアンドレ・モーロアの本が好きでした。お酒の席で、シューベルトの魔王をドイツ語で歌って、周りを困らせました。外国に旅行すると、美術館をめぐって楽しみました。裁判官の中には、外食などなさらない方もいらっしゃいます。しかし、父は、家族をレストランによく連れて行ってくれました」
「父は恋愛至上主義でした。私も『パパがいいなら、いいんじゃない』と言いました。父の気持ちが第一だと思いましたから」
また、引き合わせた人がいたのは事実としながらも、「しかし、結婚したのは、互いに気に入ったからです。結婚する前の年は、父へ、よく夜に電話がかかってきました。かなり親しそうでしたよ」と語っています。
様々な証言により、いかに二人がラブラブだったかが見えてきますが、前の夫・和田芳夫さんへの思いとは、違いがあったのでしょうか。
ドラマでは、寅子は社会的立場と信用を得るため、優三(仲野太賀)の結婚の申し出を承諾。その後に寅子にも恋愛感情が生まれてきましたが、実際の嘉子さんは、それとは事情が違ったようです。
実子の芳武さんは父親の和田さんに似た顔立ちだった
戦前、弁護士になったあと、嘉子さんは父親に誰か気になる人はいないのかと聞かれ、「実は、ひとり」として和田芳夫さんの名前を挙げたとのことです。何人もいた書生の中でもとりわけ気立てが良く、物静かで優しい人物だった芳夫さんに、まるで正反対な性格の嘉子さんがひそかに心を寄せていたことは両親も弟たちも全く気づいていません。そこで、交際しているのかと父に問われると、「何もありません」と答えたことで、娘の意をくんだ父が芳夫さんにそれを伝え、交際に発展したそうです(清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』)。
【参考記事】朝ドラのモデル三淵嘉子は父親に「好きな人は」と聞かれ「和田さんがいい」と答えた…実弟が見た結婚のいきさつ
当時は、親が決めた相手と結婚するか、持ち込まれた縁談相手とお見合いして結婚、あるいは男性が見初めた女性と結婚することが多かった時代。逆指名で意中の相手を射止めたことでも、嘉子さんは時代の先端を走っていたようです。
戦時中に召集されて亡くなった芳夫さん。その遺児である芳武さんは、私が対面したときの印象では、顔立ちは母の嘉子さんより、お父さん似でした。芳武さんは今はもう亡くなられているので、39年前に会ってお話を聞いておいてよかったと思いますね。
再婚した頃、世間注視の「原爆裁判」も担当していた
ところで、優しい前夫・芳夫さんと、イギリス紳士型の乾太郎さん。タイプは少し違うかと思いますが、二人に共通しているのは、穏やかで物静かだったことのようです。やはり嘉子さんがパワフルで賑やかな方ですから、亭主関白的な男性はあまりお好みではなく、自身を理解してくれ、仕事にも協力的な男性の方を求めていらっしゃったのかもしれません。
嘉子さんが乾太郎さんと再婚するのは、名古屋地裁から東京地裁に戻ったあとの昭和31年(1956年)8月。嘉子さんは東京地裁で、広島と長崎の原爆被害者が国を被告とする裁判を提起した「原爆訴訟」を担当しています。この裁判は1955年に始まり、9回の口頭弁論が開かれ、1963年まで続いた長く、注目度の高い裁判でした。
1963年12月7日には、東京地方裁判所が原告の請求は棄却しましたが、米軍の広島・長崎への原爆投下は国際法に違反すると記載した判決が下されました。出された判決は、担当の裁判官による合議体なので、嘉子さんだけでなく多数決で決めたものですが、再婚後の生活を送りながら、この重大かつ注目を浴びる事件も担当していたわけです。
今後、この原爆裁判が朝ドラで描かれるのか、もし描かれるとしたら、寅子はどんなことを考え、どんなことを話すのか。恋模様と共に気になるところです。