過剰在庫を指摘し「皆に嫌われるだけ」の日々
埼玉県秩父郡に拠点を置く松本興産は、1970年創業の自動車部品メーカーだ。売上高45億円、従業員約280人(グループ全体)の中小企業で、松本めぐみさんは2012年に同社の2代目社長と結婚。3年間の専業主婦生活を経て取締役として入社し、総務や経理を監督する立場に就いた。
当時、会社は業績不振や人間関係の悪化などさまざまな課題を抱えていたという。立て直しに悩む夫を助けたいと入社したものの、いきなり未経験の経理業務を任され、「数字や専門用語ばかり並んだ決算書を、初めて見たときは絶望した」と振り返る。
松本さんの前職は、半導体メーカーのエンジニアとホテル業。これまでのキャリアではまったく縁のなかった“会計の世界”を理解するのには相当な苦労が伴った。顧問税理士に一から教わり、書籍を何十冊も読み、会計セミナーにも参加。ようやく財務諸表や決算書を読み解けるようになったが、同時に自社の課題もはっきり見えるようになった。
「特に問題だったのは過剰在庫です。数字を見ると明らかに作り過ぎなのに、現場の社員はそれに気づいていなくて、月一度の棚卸しでも目視確認をしていませんでした。これはまずいと思って、工場でも会社でも『棚卸しをして』『数字を見て』って口酸っぱく言い続けたんです。でも過剰在庫はまったく解消せず、ただ皆に嫌われていくだけでした」
こうしたことは、言われるほうも嫌だが言うほうもストレスがたまるもの。松本さんも、会議で毎週のように「どうしてこんなに在庫作っちゃったの」と問いただすのにほとほと疲れ果てていた。
いくら言っても人はそう簡単には変わらない。一体どうしたら皆に動いてもらえるのか。
「なぜ解消しなければいけないのか」を理解してほしい
考え抜いた末、松本さんが出した答えは「社員に会計を教えること」だった。会社で起きていることはすべて数字に表れる。社員がそれを読み解ければ、過剰在庫がいかに経営を圧迫しているか、なぜ解消しなければいけないのかが理解でき、自発的に動いてくれるようになるだろうと考えたのだ。
「会計を知れば自社の強みも改善すべき点も見えますし、何より経営視点を持つことができます。そうすれば自分の業務の位置づけや役割がわかり、自発的に動けるようになるはずだと思いました」
「風船会計メソッド」編み出し勉強会
しかし、自身がそうだったように、会計は初心者にはわかりにくく、人によっては学ぶ意欲を持つことさえ難しい。そこで松本さんは、初心者が楽しく会計を学べる方法を模索し、試行錯誤の末に独自の「風船会計メソッド」を編み出した。
風船会計メソッドは、売り上げを風船に置き換えたり、賃借対照表を豚の貯金箱に置き換えたりして、会計上の数字をビジュアルを使って読み解いていくものだ。おもちゃのコインと、工場や設備、従業員、銀行、税務署などのイラストを手で動かしながら視覚的に学んでいけるため、数字が苦手な人もとっつきやすい。
メソッド完成後、松本さんは社内で「めぐみ塾」を開始した。週に1回、各部署から社員が集まり、イラストや図をもとに会計の考え方を学んでいった。
一通り知識を得た後は、実践編として同じような規模の他社の決算書を分析。これが予想以上の効果を生んだ。分析結果を自社と比較することで参加者の視野が広がり、業績向上や効率化につながるアイデアがたくさん出始めたという。
「めぐみ塾の開始から3カ月後ぐらいには手応えを感じ始めました。会計にまったく興味のなかった社員たちが、自分から貸借対照表の話をするようになったんです。今では、日本の製造部門の部長の中では、当社の部長がいちばん会計がわかっているんじゃないかな(笑)」
自発的に動き始めた社員たち
その結果、大きな課題だった在庫問題は劇的な変化を遂げた。松本さんは社員の自発性を信じ、その年度中は作り過ぎに関して一度も口を出さなかった。にもかかわらず、決算を迎えたとき、前年度1億2000万円もあった在庫は6000万円にまで減少していたのだ。
「社員が自分で考えて自分で動いた結果ですよね。感動したと同時に、自分はもう嫌われ役をしなくてもいいんだと思ってホッとしました。入社当時の孤独で苦しかった時期に比べたら、今は本当に楽な気持ちで仕事できています」
さらに、利益率も大きく改善した。風船会計導入前に18.5%だった売上総利益率は、22.6%と4ポイント以上も上がった。会計知識を得た社員たちは経営者と同じ目線を持ち始め、例えば原材料の高騰などに際しても、早めに顧客と価格転嫁の交渉をするようになった。経営層がいちいち指示しなくても、自発的に手を打つようになったのだ。
また、一時的に利益が減った際には、各部署の社員たちが一緒に風船会計の図を広げて解決策を話し合うようになった。これによって、今まで部署間で起こりがちだった責任の押しつけ合いや対立が解消。コミュニケーションも活発化し、風通しのよい組織に変わっていったという。
「会計嫌い」は教え方のせい
風船会計メソッドを用いて社員に会計を教えるという試みは、松本興産に大きな効果をもたらした。とはいえ、このメソッドがどんな人に対しても有効かというと疑問は残る。会計に苦手意識を持つ人や勉強嫌いの人は少なくないからだ。
「それは教え方が悪いからだと思います。私は教えるときはいつも『家で勉強しないで!』と言っています。風船会計メソッドは、今この場で90分間だけ学べば理解できるように設計してあるからと。会計の本質や考え方を学ぶ上で、自宅での予習復習や用語の暗記は一切不要だと思っています」
また、学ぶ際には「会計がわかると何がいいのか」を知っておくことも大事だという。そこで松本さんに、経営層、管理職、社員それぞれにとってどんなメリットがあるのか、解説してもらった。
売り上げだけでなく利益を伝えないと意味がない
まず経営層の視点から見て、社員が会計を知ると何がいいのか。
多くの経営者は社員と売り上げ目標を共有するが、これでは社員は目標を達成できなければ後ろ向きになり、達成すれば「なのになぜ給料が上がらないのか」と不満を持ってしまう。
「だから売り上げではなく利益を伝えないと意味がない」と松本さん。社員が会計知識を持ち、利益の仕組みを理解していれば、「自分の給料を上げるには会社の利益を上げる必要がある、それなら製品の利益率を上げてはどうか、そのために自分は何をすべきか」というような考えも湧く。利益の上げ方を自発的に考えるようになるのだ。
「経営者は孤独になりがちですが、全員で会計視点を共有できれば、それが社員との共通言語になります。経営者がビジョンや実現するにあたって必要な利益などを語ったとき、腹落ちしてくれる可能性も高くなるでしょう」
「どうすれば部下を動かせるのか」という発想は間違い
では、管理職にとってのメリットは何だろう。一般的に、管理職は自分の部署の予算や利益にのみ着目しがちだ。これでは部署間で予算の奪い合いや利益の競い合いが起きてしまい、横のつながりによる相乗効果は見込めない。だが、会社全体の数字を会計視点・経営視点で見ることができれば、全体利益に向かって他部署と協力する姿勢が生まれやすくなる。
また、管理職自身が会計知識を持っていれば、部下にもその重要性を伝えられるだろう。
「どうすれば部下を動かせるのか」と悩む上司は多いが、松本さんは「そもそもその発想が間違い」と指摘する。
「『動かす』と言っている時点で、相手ではなく自分のことを考えていますよね。本来は、部下が自立して『動ける』ようにしてあげるのが上司の役割。部下の立場になってみれば、背景がわからないのにただ指示されても動きようがなく、不満がたまるばかりでしょう。それを防ぐためにも、共に会計知識を持ち、指示の背景となる数字を共有できるようにしてほしいと思います」
会計は生きる知恵、自立する知恵になる
そして社員にとっての最大のメリットは、仕事が面白くなること。会計がわかれば経営層の意図がわかり、自身の役割や目標も明確になる。さらに、会計は幅広い業界で通用するスキルであることから、転職や起業の武器にもなる。身につければ人生の選択肢は確実に広がるだろう。
「会計知識は、経営者や会社員はもちろん、そうでない人にとっても生きる知恵、自立する知恵になる」と松本さん。そのことをより多くの人に知ってもらえるよう、風船会計メソッドを世界中に広めていきたい──。目を輝かせながらそう語ってくれた。