目の前に起きていることを正しく把握するにはどうすればいいか。医師・岩田健太郎さんは「『結論、根拠、結論、根拠』の話し方を身につければ、自ずと事の本質をつかめるようになる」という――。

因果関係をほのめかす不適切な報道

SMA症候群(上腸間膜じょうちょうかんまく動脈症候群)をもつ男子高校生が昨年死亡していたことが「医療過誤」の問題として大きく報じられた。記者会見は、6月17日である。得られた情報だけではまだ判然としない部分もあるが、当該医療機関の発表資料によると、入院後の脱水、せん妄などの治療の後、死亡が確認されたという。亡くなられた患者さんの御冥福をお祈りし、ご家族・関係者の皆様にはお悔やみ申し上げる。

※日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院「過去公表事例

日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院
写真=共同通信社
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院=2024年6月17日午後、名古屋市

奇っ怪なのは、報道である。

多くのメディアが本件を「研修医の誤診」で高校生が死亡したと報じた。しかし、救急外来受診の段階では患者の容態は安定しており、「誤診」が死亡をもたらしたとは考えにくい。それをあたかも「研修医が見逃したせいで死んだのだ」と言わんばかりの、因果関係をほのめかす報道は適切ではない。

誤診は望ましくはないが、誤診をしない医者は皆無だ。誤診は一定の頻度で起きる。超一流のバッターでも全打席でヒットが打てないのと同じで、これは厳然たるファクトである。特に、初対面の患者の容態を救急外来で正確に診断することは、ましてや稀な疾患であるSMA症候群であると言い当てるのは、ベテランの優秀な診療医でも困難であろう。

医療者とメディアのミッションは同じである

そういう誤診が「ある」という前提で、我々医療者は行動する。繰り返しの診療の中で、当初分かっていなかった現象をつかみ取り、最終的には正しい診断に近づこうとする。場合によっては何週間という長い時間をかけてようやく病名が分かることもある。

繰り返すが、誤診は毎日、世界中の医療機関で起きている。これがファクトであり事実だ。その事実を無視し、誤診が「あってはならないこと」であるかのように報じるのは極めてミスリーディングである。その「誤診」が患者の死亡の「原因」であるかのように報じるのはさらに悪質だ。

医療者のミッションは患者に何が起きているかを正確に理解することだ。初診でできなかったとしても、最終的にはそこを目指す。

メディアのミッションも同じなはずだ。本件の本質は明らかに別なところにあるのだが、ジャーナリストたちは事の本質を正確に理解しようとしているだろうか。むしろ、事の本質そっちのけで、センセーショナルな見出しで読者を「あおっている」だけの、インプレゾンビみたいな連中に堕していないだろうか。猛省を望みたい。

「どこに連れていかれるか分からない」喋りのコワさ

さて、本題である。

突然だが、しゃべるときは「結論、根拠、結論、根拠」の順番でやると上手くいきやすい。プレゼンテーションのときは特にそうだ。

一番、いけないのは「どこに連れていかれるか分からない」ようなダラダラした喋りである。「昨日、○○があってー、そこで××に会って、それでー」と延々と話が展開されるのだが、「だから結局何が言いたいのですか」が分からない。いつ、この話が終わるかも分からない。本当に、この話が終わるのかすら、分からない。聞く方は不安になるし、忙しいときはとてもイライラさせられる。

結論を先に言えば、「ここがゴールなんだな」と理解できる。そして、その直後に「というのは……」と根拠を述べれば、なぜこの結論が導き出されたのかも理解できる。非常に理解しやすい話の持っていきかただ。

もちろん、「どこに連れていかれるか分からない」喋りの存在価値がゼロということはない。

例えば、デートのときだ。デートは相手と同じ場所にいて、相手と会話すること自体が目的だ。よって、会話の内容自体には、特に意味なんてなくてもよい。議論に結論がつかなくたって、問題が解決しなくたって構わない。いや、むしろ結論なんてつけないほうがよいときも多い。愛する人が、美しい声で、楽しそうに喋っているのを眺めているだけで幸せになれるのだから。「喋りの構造」などに拘泥こうでいする必要はない。拘泥しない方が良い。

私は医者だから、患者が「どこに連れていかれるか分からない」喋り方をするのには慣れている。仕事だから、そのときは割り切る。ゴルゴ13のように「要点を聞こう」などと上から目線で要求できるのは、極端に信頼されている名医だけである。

医療面接
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「急がば回れ」が有効な例外

外来診療は「仕事」だから、まずは患者が気分良くなったり、元気になってもらわねばならない。その一助になるのであれば、「どこに連れていかれるか分からない」話が続くのは仕方がなかろう。長話できる患者は、相対的には(しゃべる力もない患者よりはずっと)元気なのだし。

もちろん、患者が理路整然と自分の心身の問題をスピーチしてくれたほうがこちらの理解も早いので便利といえば便利だが、患者の喋り方のくせ、思考の流れの特徴などを理解するのも、等しく患者や病態の理解には役に立つことも多い。そういう意味では、「素のままの」患者を出していただいたほうが、「急がば回れ」でより良かったりするのだ。

このように「どこに連れていかれるか分からない」喋り方にも効用がないわけではない。が、一般的に言えば、それは社会生活においては不便な喋り方だ。こういう喋り方で聞き手の評価が高まることはまずないし(前述の例外は除く)、時間は浪費されるし、問題解決の助けにはなりにくい。

だから、回診のときにも、医学生や研修医には「結論、根拠、結論、根拠」の順番でプレゼンするように促している。こうすれば、自ずと事の本質をつかめるようになるからだ。

他の疾患ではなく肺炎である根拠とは…

医学生や研修医は、一般には日本社会で「頭の良い人たち」だと思われている。実際にそういう側面もある。しかし、スマートな彼らのはずなのに、この「結論、根拠、結論、根拠」の話し方を“苦手”とする人がわりと多い。結論は出すんだけど、根拠が出せない。そういうことが多いのだ。

「肺炎だと思います」
「なぜ、肺炎だと思うの?」
「それは……熱があるから」
「熱があれば、それは肺炎なんですか?」
「いえ……そういうわけでは……」
「では、他の疾患ではなく、肺炎であるという根拠としては弱いのでは?」
「そうですね」

目の前に起きている現象がAである、と主張する場合、それは同時にBでもCでもDでもEでも……ないことを意味している。Aにコンパチブルである(相容れる)ということと、それが他ならぬAであるということは同じ意味ではない。よって、現象がAであるという主張の根拠には、他の可能性、BやCやDやその他の可能性ではないという根拠も込められていなければならない。

ライプニッツを読んで私が考えたこと

私はこのことを、哲学者ライプニッツの『モナドロジー』を読んでいて思い至った。

念の為申し上げておくと、ライプニッツがそのような診断学的要諦を論じていると言いたいのではない。ライプニッツを読んで、“私がそう考えた”というだけの話である。私は哲学の専門家ではなく、哲学書の読解も全て「我流」である。私の了解する形でしか、私は哲学書を咀嚼そしゃくしたり、活用したりはできない。よって、私はいつも「ライプニッツはこう言っている」とは決して言わず、「ライプニッツを読んで私はそう考えた」と主語を「私」にしている。私がそう考えたのは、紛うかたなき事実なので、誰にも(たとえプロの哲学者にも)否定はできまい(というずるい考え方だ)。

昔、あるシンポジウムで「ヒュームを読んで、厳密な意味での『科学的な証明というのは不可能だ』と……」というコメントをしたら、「ヒュームはそんなこと言っていない!」と専門家に叱られたことがある。「いや、ヒュームを読んで私がそう考えたので……」と慌てて補足したので事なきを得た。専門家を相手に「哲学者××が○○と主張している」と主張するほど、私は勉強家でも自信家でもない。

畢竟ひっきょう、診断とは「Aであり、BでもCでもDでもその他でもない」と現象を正しく言い当てることだ。治療も同様だ。「Aであり、BでもCでもDでもその他でもない」治療を選択するのが大事である。

チェックボックス
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目の前の患者には、常に最良の治療選択肢があると私はいつも考えている。その最良の選択肢を選択したいといつも考えている。

それは、一体何か。

それを言い当てるには、例えば抗菌薬甲を選ぶのであれば、同時に抗菌薬乙や丙や丁を“選ばない理由”を、論理立てて説明できねばならない。

診断であれ、治療であれ、医療医学においてはこのような、ある意味哲学的、あるいは論理学的命題に答える必要がある。少なくとも必要であると私は考えている。