可憐な若手歌手として人気に、高倉健に猛アタックされる
15歳でレコードデビューした江利チエミは歌手だけでなく、映画『サザエさん』シリーズをヒットさせるなど、女優としても活躍し、ゲスト出演した映画『恐怖の空中殺人』での共演が縁で、1959年(昭和34)にまだ、スターになる前の高倉健(当時28歳)と結婚する。
藤原佑好による江利チエミの評伝『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』(五月書房)によると、当初チエミは東京キューバン・ボーイズのピアニスト、内藤法美(当時から越路吹雪と恋仲で、後に結婚)に恋をしていたが、高倉に猛アタックされていた。そんな恋の悩みを『サザエさん』の共演者で母・フネを演じた清川虹子に打ち明けたところ、「女はね、男に思われるほうが幸せなのよ」とアドバイスされ、高倉との交際、そして結婚へと進んでいったようだ。
高倉がチエミに夢中だった様子について、チエミとショーで何度も共演し、仲が良かった大村崑は後にこんなエピソードを語っている。
歌手を辞め家庭に入るが、妊娠中に病気になり悲しい経験も
サンスポ「【関西レジェンド伝】大村崑(5)」2017年11月14日
高倉との結婚を決めたチエミは、父・益雄の引き止めに反発して、一度は歌手を引退。歌い続けたいという思いと、愛する人のそばにいたいという思いが交錯する中、両方をこなす器用さがないと判断し、歌への強い思いを抱きつつも、主婦の道を選んだのだ。
そして、3年後には妊娠。しかし、妊娠高血圧症候群のため、出産には至らなかった悲しい経験もしている。チエミ自身が生まれたとき、母・歳子は腎臓病と高血圧に苦しみ、難産の末に決死の覚悟で産んでくれたこともあり、母になれなかったショックは大きなものだった。
かわいがっていた甥っ子は早逝、異父姉と同居することに
しかし、チエミが精いっぱい明るく楽しく生きようとする一方、高倉の仕事は多忙になり、すれ違いが増えていく。そんな中、チエミは実兄の子・サトシを自分の子のようにかわいがり、養子にしようと、一時は一緒に暮らすようになる一方、子供に恵まれなかった思いは埋められず、歌手に復帰。新たにミュージカルにも挑戦し、成功を収めるが、1961年、かわいがっていたサトシを突然の事故で失う。
さらに、その翌年、チエミの運命を大きく狂わせる女生徒の出会いがある。母が不倫相手との間に作った異父姉A子が現れたのだ。A子は夫と別れ、1人で子どもを育てていると言い、そんなA子の境遇に心を痛めたチエミはA子を同居させる。
小柄で地味な服装で、物腰の低い献身的な“姉”をチエミは信用し、高倉も喜んでくれていたが、その頃から徐々に高倉の足は自宅から遠のくようになる。さらに1970年、高倉・チエミ邸が火災に遭うと、夫婦はしばらくの間、ホテル・ニューオータニに宿泊することになる。
信頼していた姉はチエミと高倉の家を勝手に抵当に入れた
しかし、そこから夫婦の絆が強まるわけではなく、高倉はますます帰らなくなり、心配するチエミは食事もとらず、夜も眠らないことから一時入院。その後、マネージャー兼付き人だった長兄も急死し、その半年後にチエミと高倉は離婚する。
実は夫婦の離婚の原因には、A子の存在があった。A子は実印を使ってチエミの銀行預金を使い込み、高利貸しから多額の借金をしてチエミ・高倉邸を抵当に入れていたのだ。
評伝では、清川虹子がチエミ・高倉の離婚について、こう語っている。
藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』(五月書房)
母が不倫して産んだ姉は、スターになった妹を妬んでいた
A子の境遇に同情し、信用して何もかも委ねたチエミだったが、A子からしてみれば、同じ母親から生まれながら大スターになった妹は、嫉妬の対象で、憎い相手だったのだ。A子の日記には「いつか敵をとってやる」と書いてあったことも、清川は語っている。
チエミは高倉の迷惑にならないよう、1971年に離婚。その翌年、断腸の思いでA子を告訴した。しかし、その理由も、借財の所在をはっきりさせるためで、A子は懲役3年の実刑となった。
一方、清川いわく、チエミは離婚後も高倉のことをずっと好きだったようで、高倉も再婚をせず、チエミが生涯ただひとりの正式な妻となった。
心ならずも高倉と離婚、翌年は搭乗便がハイジャックに
チエミの波乱はそれで終わらなかった。1972年11月6日、羽田空港発福岡空港行きボーイング727を、覆面男が乗っ取り、キューバへの亡命を要求するハイジャック事件が起こる。機長がその要求を不可能として拒絶したところ、同機は羽田に引き返し、乗客だったチエミや三田明などの著名人が人質になったのだ。膠着状態の後、犯人は逃亡用の機材を用意させ、乗客を解放。しかし、逃亡しようとしたところ潜伏していた警察官に逮捕された。
恐怖の6時間半を過ごしたチエミは、「もうどうなっても仕方ないと思ってじっと目をつぶっていました。窓のブラインドを閉めさせられていたので、“羽田に着いた”って言われても信用できなくて……」「飛行機から降りて、ホテルで食事をしようとしたら急に恐ろしさがこみ上げて足がガクガクするんです」と語り、いつまでも青ざめていたという(1996年11月6日/「日刊スポーツ50周年TODAY」より)。
プライベートでは幾度も困難に見舞われながらも、歌手、女優、テレビ番組の司会業でも活躍し、A子による数億円規模に及んだ借財と抵当にとられた実家なども自分自身の力で取り戻したチエミ。1980年11月からは「江利チエミ・三十周年記念」として日本全国縦断も開催した。
歌手活動を続けていたが、1982年に突然の死を遂げる
しかし、1982年2月10日、キングレコードのパーティーで功績ある歌手として表彰された際、常務に「新曲のことでゆっくり話したいの」と言ったにもかかわらず、2月13日、港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上で横たわっているところをマネージャーが発見。死亡解剖による検死の結果、吐いたものが気管に詰まっての窒息死と判定された。風邪気味だったところに、脳出血で意識を失い、吐しゃ物を吐き出せなかったことが原因という。
2月16日、葬儀には美空ひばり、雪村いづみ、清川虹子ら多くの著名人が参列。くしくもこの日は高倉健の誕生日であり、チエミとの結婚記念日でもあった。
ちなみに、高倉は『サンデー毎日』(1972年12月10日号)に「男の人生を語らせてもらいます」と題し、特別手記を寄稿している。その一部を引用しよう。
いつも煩悩に悩まされるバカな人間だが、僕にあるのは映画俳優という仕事しかない。この仕事に自分のすべてをぶつけるしかない。この僕の生き方が一人の女性を不幸にしてしまった。僕はいまでも彼女(江利チエミ)を仕事に生きる女性として尊敬している。同時にほんとうに申訳ない(原文ママ)と思っている。昭和三十四年の僕の誕生日に結婚してから、十二年間、僕はただガムシャラに仕事一途に生きてきた。それがあるとき、ふと、こんな疑問にぶつかった。
「オレみたいなヤツが、世間一般のような、家庭の幸せというものを築き上げることができるのだろうか。いまのままで、この女を幸福にすることができるだろうか」
たしかに俳優さんの中にも仕事と家庭をうまく両立させている人もいる。ところが、僕は不器用な人間だ。あっちもこっちもうまくやるというような器用さがない。そう思い出すと、もうたまらなくなった。オレはこの女を十二年間も不幸にしてきたのではないか。別れる以外にない。これが僕の出した結論だった」
『サンデー毎日「男の人生を語らせてもらいます」』(1972年12月10日号)
江利チエミと高倉健は離婚後もお互いを思っていた
お互いに愛情がありながらも、お互いに迷惑をかけないため、どちらも自分に原因があると語って離婚したチエミと高倉。なんとも悲しい別れである。
そんな愛する人への思いを残しつつも、江利チエミの波乱万丈の人生は45歳で幕を閉じた。あまりに早すぎる死は、くしくも母・歳子が亡くなった年齢、46歳とほぼ同い年だった。