8歳になった娘の誘拐未遂事件は笠置の実話がベース
ドラマ「ブギウギ」第24週では、8歳になった愛子(このか)の誕生日に、スズ子は近所の主婦や子どもたちを自宅に招いて、パーティーを開いた。愛子に友だちを作るためだったが、愛子は有名人の子として学校でいじめられており、反抗的な言動が増え、スズ子は子育てに悩んでいた。
そんなある日、スズ子のもとに電話がかかってきて「娘を誘拐されたくなければ、金を出せ」と脅される。ショックを受けたスズ子は警察に通報し、刑事の高橋(内藤剛志)らが自宅にやって来て、捜査を開始する。
実は、愛子が仲良くなった貧しい少年の父親が、脅迫電話の犯人だった。父親は男手ひとつで息子を育てており、病気で働けない状況。そんなとき少年が愛子の誕生日パーティーに招かれ、父親もスズ子たちの優雅な暮らしぶりを見て犯行に及んでしまったという経緯がわかり、その事件を介して母子の愛情が再確認される流れが描かれた。
少々突飛にも思える内容だったが、実はこの誘拐未遂事件は、実際にスズ子のモデル・笠置シヅ子の身に降りかかった実在の事件だったというから驚く。
究極の格差社会、戦後に財を成した芸能人は狙われていた
敗戦から10年、1950年代半ばになると経済成長に伴い、映画などの娯楽産業も盛んになる。そんな中、53年に当時16歳だった美空ひばりが建てた“ひばり御殿”をはじめ、スターの豪邸が次々に建てられ、メディアで披露された。
笠置の邸宅が世田谷に建てられたのは1951年。しかし、スターの豪邸というイメージよりは、愛子のモデルとなった娘・ヱイ子への深い愛情が詰め込まれたものだったようだ。
雑誌『映画ファン』(1951年8月14日号)の「わが家は楽し」というページを見ると、笠置が娘のヱイ子と大きな鏡の前でオシャレをしていたり、フランス人形やアップライトピアノがあったり、柵によじ登るヱイ子を笠置がうれしそうに見ていたり……。ドラマに出てくるエントランスの柵そっくりの写真もあり、ドラマの美術スタッフがいかに丁寧な仕事をしているかがわかる。
また、雑誌の紹介文では「誰でも表札に目を見張る」「薄いグリーンに赤い屋根白い壁、モダンで明るいこのお家の一番よい位置に笠置さんはエイ子ちゃんのお部屋を作って、その愛情の程を思わせる設計である」と記している。
その一方、ガレージはあるが、自動車はまだなく、「まだまだ、そこまで買えませんよ。だからせめて車庫だけでも、と思ってね」というコメントが印象的だ。
「カセギスルコ」と呼ばれても「笠置に追いつく貧乏なし」
しかし、当時の「大スター」笠置の暮らしぶりについては、タナケンのモデル・エノケン(榎本健一)と「エノケン・ロッパ」と並び称されて人気を競った喜劇役者「ロッパ」こと古川ロッパ(古川緑波とも)が、『古川ロッパ昭和日記』(1987年晶文社版)の中で次のように記している。
「清川(虹子)は世わたりのうまい奴で、シボレーの一九五〇年を買って乗りまはし、京都へも持って行くといふ一流ぶり。全く俺は金まうけの下手さに自ら嫌になる。清川は自動車、笠置は家を建てた。笠置に追ひつく貧乏なしと、洒落はすぐ出るが、つくづく俺は金が無い。二人の稼ぎ女王と話してて、全く悲観する」
『古川ロッパ昭和日記』(1987年晶文社)
実際、笠置は一時「カセギスルコ」などと言われるほどの売れっ子だったそうで、主演映画『生き残った弁天様』の撮影時には、共演者のロッパや森繁久彌、星十郎らに「私の車で銀座へ何卒」と言ったにもかかわらず、世田谷の自宅に案内したという。「ここで一休みして、まァ家を見て下さい」と笠置に言われたときのことを、ロッパは1951年1月25日の日記でこう綴っている。
世田谷に建てたハリウッド風の一軒家でパーティーも開いた
「なるほど立派な家、門から庭、玄関とハリウッド風。得意で、見てくれ見てくれと、方々の部屋を案内する。わずか三、四十万円の離れ一つ、それも借金だらけで漸っとこ建てた俺なんてものは、何をしとる、全くいやになる」
『古川ロッパ昭和日記』(1987年晶文社)
笠置は1951年6月、ヱイ子の誕生日に招待客200人余りの盛大なガーデンパーティーを開き、以後数年にわたって毎年パーティーを開いており、その豪華さについてもロッパは日記で触れている。
今では考えられないことだが、先述の『映画ファン』の例からもわかるように、かつては芸能人の家が、外観も表札もはっきりわかる状態で雑誌などのメディアで写真付きで紹介され、その家族の顔や豊かな暮らしぶりなども大っぴらにメディアで公開されていた。
始めに脅迫状、その後、電話で脅してきたのはドラマと同じ
「オレ達の結社で金が要るから天神橋下に六万円置け。さもないと一人娘=ゑい子ちゃん(七才)を殺すぞ」
朝日新聞1954年4月9日
という脅迫状を、3月31日に受け取った笠置。その後、電話を含めて合計9回の脅しがあったという。実際に娘がさらわれたわけではなかったが、「殺すぞ」というメッセージは、母親にとっては身も凍るような言葉だったであろう。ましてや笠置は、こういうとき頼れる夫のいないシングルマザーである。
笠置は世田谷署の協力を求め、4月8日朝に犯人の電話をテープレコーダーに録音。最後に指定されたように「自由ケ丘駅表出口、公衆電話で金を渡す」約束をした。笠置宅の事務員男性(柴田正彦)が言われるままに左手にハンカチを巻いて立っていると、午後3時半頃、一人の男が近づき、中身が空の紙包を受け取ったことで、近くに張り込んでいた世田谷署員が飛び出して、逮捕。男は無職の横田武夫(30)といい、「六月結婚することになっていたのに失業、金に困って思いついた」と自供したという。
現在なら200万円相当の身代金を要求してきた無職の犯人
当時サラリーマンの1カ月の平均収入が約1万円だったというから、要求金額の6万円は約200万円相当か。金目当てにしては少額の印象もあるが、笠置にしてみれば、愛する人・エイスケを病で失い、女手一つで育ててきた愛娘まで奪われそうになったのだから、その恐怖は筆舌に尽くしがたいものだったはずだ。
にもかかわらず、この記事には、テープレコーダーで犯人の声を聞く笠置と事務員の様子、さらに約束通り現れた犯人に事務員がニセの札束を取り出そうとする様子まで写真を添えて掲載されている。緊迫した誘拐未遂事件だったはずなのに、現代人のわれわれが見ると、まるで映画の1シーンにも見えてしまう不思議な記事だ。
ちなみに、犯人とのやりとりにあたった事務員の男性の名前も「柴田正彦君」とフルネームで記されており、無防備な印象を与える。ただ、当時は誘拐事件における報道協定など、まだなかったのだ。
録音テープの謎、誘拐未遂の犯人には共犯者がいたか
ドラマでは現金を受け渡す役割になったのは、若きマネージャーの柴本タケシ(三浦りょう太)だった。苗字からしても、やはり実在した笠置の付き人、柴田が柴本のモデルらしい。
記事には笠置と、この「柴田君」それぞれのコメントが添えられている。
笠置「母親の一番の弱味をついてこられたので、家に閉じこもったままおびえていました」
柴田君「新聞紙包みを渡したら『すまん、たしかに受取った』としまおうとした。そのとき駅前のテレビで野球を見るふりをしていた刑事四人が手錠をかけた」
朝日新聞1954年4月9日付
これで一件落着かとも思われるが、脅迫電話を録音したテープには二人の声が入っていたので、警察では共犯者がいる可能性も追っていたという。しかし、共犯者が捕まったという報道はないようだ。
ところで、笠置の場合は未遂で済んだからまだ救いはあるというものだが、1950年代~70年代頃まで、芸能人が巻き込まれた誘拐や襲撃事件は時折起こっている。
昭和中期に頻発した芸能人の子女の誘拐・殺傷事件
例えば、1955年7月15日にトニー谷の長男が下校途中に誘拐された事件。この時の身代金は200万円で、自宅に速達で脅迫状が届いた。トニー谷もまた、子どもの写真を雑誌に掲載していたことで、犯人に長男の顔が知られていたために起こった事件だった。ちなみに、犯人は長野県の雑誌編集者で「トニー谷の、人を小バカにした芸風に腹が立った」と語っていたという。
さらに凄惨だったのは、1964年に高島忠夫・寿美花代夫妻の生後5カ月の長男が家政婦によって殺害された事件。あまりにむごい事件であるため、詳細は控えたい。
また、1974年8月15日に起こった津川雅彦の長女誘拐事件では、犯人は津川と朝丘雪路夫婦の自宅に侵入、生後5カ月の長女を連れ去った。犯人は電話で身代金400万円を要求したが、銀行の新システムで犯人が現金を引き出したことが検知され、警官が犯人を取り押さえることに成功。この犯人も雑誌に住所や間取りまで掲載されていたことで津川・朝丘をターゲットにしたことがわかっている。
美空ひばりを襲ったファンによる塩酸攻撃事件
ちなみに、楽曲許可をめぐり、笠置とトラブルがあった美空ひばりも、恐ろしい事件を体験している。1957年1月13日、浅草国際劇場で大川橋蔵と『花吹雪おしどり絵巻』の共演中、最後のほうにその事件は起こる。『ひばり自伝 わたしと影』(草思社)から一部引用しよう。
最後のリクエストの演奏をしているときでした。わたしがふと耳にしたのは「ええい」という女の子の声です。そのとき冷たいものが顔にかかりました。見ると花道に腰かけていた女の子の一人がわたしにむかって何かしたのがわかりました。「水鉄砲かな」わたしは、呑気にそんなことを考えていました。するとまた「ええい」という声がきこえました。とたん、ふいにフラッシュをたいたように、あたりがあかるくなったのです。それと同時に顔中が熱くなってきました。これはただごとではありません。わたしは走って、自分の化粧鏡の前に行って姿を見ました。思わず「ああ」といったら口の中から煙が出て来ました。その時はもう顔半面がやけつくようで、とてもたまりませんでした。
美空ひばり『ひばり自伝 わたしと影』(草思社)
自宅住所まで公開していた当時の有名人たちの無防備さ
それは塩酸だった。しかも、犯人はまだ18歳の、ひばりのファンだった。体の傷は幸い消えていったが、恐怖は心に付きまとって離れなかったとひばりだが、さらに意地の悪いファンは「おい、ひばり。また塩酸ぶっかけるぞ」などと、公演会場の二階か三階から野次ってうれしがったというから実に悪質である。
驚くべきは、豪邸を建てて優雅に暮らし、私生活もメディアに披露していた当時の芸能人たちの無防備さと、そうした芸能人をターゲットにした犯罪の数々。そこには今では考えられないほどの芸能界の光と闇があった。さらに、こうした凄惨な事件を一つのエンタメのように報じたメディアの数々と、それを「有名税」くらいにとらえていた一般の人々の感覚にも時代の変化を感じざるを得ない。