「知り合いに案内に行ってはダメだよ」
「いいんじゃない。やったら? だけど、俺の知り合いのところへは、絶対に案内に行ってはダメだよ」
堀野智子さんが、化粧品大手「ポーラ」のセールスをやりたいと夫に告げた時、開口一番に言われたことだ。
夫は県庁職員、同僚や部下の妻たちなら、いい顧客になるはずだ。実際に周囲には、親戚への案内から始める人が多かったが……。
「主人がそういうので、私は家からなるべく離れたところまで歩いていって、飛び込むことにしたの。事務所に行く途中に県営住宅があったから、初めはそこを狙って。結構、契約を取ったんだよ」
堀野さんは体当たりに、見ず知らずの女性たちの懐に飛び込んで行った。
「ごめんください。奥さんでいらっしゃいますか? このお花、奥さんが生けたのですか? 上手だわ」
ポーラで働く前、知人に頼まれ、保険の飛び込み営業を一定期間していた経験も役立った。
「いろいろ話しているうちに、いい雰囲気になるんだね。『ちょっと、入ったら?』と言われて、『実は、こんな化粧品をやってんだけど』って話をして。当時は、誰も化粧水とか塗っていなかったから、話すと、みんな喜んでくれてね。飛び込みも案外、楽しかったね。いろんな人に会えて」
かつて私も一軒一軒、ピンポンをして話を聞く「飛び込み」での取材をしたが、正直相手に嫌がられた記憶しかない。それでも話してくれる可能性がゼロでない以上、ピンポンを続けるしかなかったのだが、それを堀野さんは、楽しいと言い切る。
堀野さんの「飛び込み」は、すっと相手の心に入っていくものなのだ。堀野さんの天性の明るさ、陽気さがもたらすものなのか。
全国大会で新人賞を受賞
一年目の新人で、堀野さんは500万円の売り上げを達成して、東北地区の大会で表彰を受けた。新人で表彰を受けるのは、なかなかないことだと言う。
東京で行われた表彰式に出席し、堀野さんは心に誓った。
「私は絶対に、一生懸命にポーラをやる」
堀野さんの手元には、60冊以上の古いノートがある。お客にいつ、何を売ったのか、明細書の添付とともに記録された年ごとのノートだ。一人のお客につき、1ページ。ある年の顧客名簿は、53人に及ぶ。達筆な文字で、日々きちっと、顧客管理がなされていた。
「女学校の時、帳簿のつけ方を教えてもらったから、きちっとしているの。忘れないためというより、記録しておきたい。誰が、何を買ってくれたかを」
堀野さんにとって、セールスに譲れないものはあるのだろうか。
「大事にするのは、お客さんの身になること。シワ取りの新製品が出て、あのお客さんにいいなあと思ったけれど、その前に頼まれていた商品があって、それを売って、またシワ取りも……となると支払いが重なってかわいそうだから次にするとか。そういう、思いやりもないとダメ。売ればいいというんじゃないの」
ハイヒールで営業していたワケ
堀野さんは当時、「ハイヒールの人」と異名を取るほど、高いハイヒールを履いてセールスを続けていた。きっかけは、夫の一言だった。
「あんたはお尻が大きいから、ズボンが合わない。ハイヒールにスカートにしなさい」
この一言から堀野さんは、極寒の地・福島で、いくら寒くてもスカートを履き続けた。ストッキングがもったいないから、家に帰れば脱いで素足にスカートで過ごす。
「隣の奥さんは、わたしを見て『よく、素足でいられること』ってびっくりしてた。ズボンを履くようになったのは、主人が亡くなってからですね」
ストッキングといえば、と堀野さんは旦那さんとの思い出をひとつ語ってくれた。当時、堀野さんは大好きな編み物をしたいと思ったが、家計に毛糸を買う余裕がなかった。それで、ダメになったパンティストッキングを切って、伸ばして、輪っかにし、それをゴム繋ぎで繋いで、編み物を楽しんでいたという。
「それで、夫の筆入れも編んだの。これは、うちの人が死ぬまで使ってたものね」
「仕事をやめて、お茶をやりたい」
自由人である夫は、55歳で早期退職した。長年続けた職業安定所の所長の職に、簡単に見切りをつけたのだ。
「58歳までいられるのに、習い物とか、やりたいことがあるって言うの。『僕は仕事を辞めて、お茶をやりたい』って言うのね」
たっぷり稼いでいた堀野さんは、「お好きにどうぞ」と答えた。堀野さんはとうに「この人に頼ってはダメだ」と振り切っていたのだ。
ただ一度、夫が退職後に、夫が留守のタイミングで元上司が家に訪ねてきたことがあった。夫が家にいると思い、顔を出したのだという。上司は堀野さんにこう語った。
「旦那さんには、本当に感謝してます。彼は事務作業の改革をしたんです。この事務は要らないなどと、いいものだけを残して整理していただき、役所に貢献してくださいました」
仕事人としては優秀だったことを、堀野さんはその言葉で初めて知った。
毎日病院へ足を運んだ2年間
夫が病に倒れたのは、80歳を過ぎた頃だ。東京に住む息子が、福島市内の病院ではなく、東大病院での治療を勧めた。
「息子が、『このままだと、お父さんが死んでしまうから、東大病院に連れていく』って。それで、そのまま入院したの。それからは私も息子が住んでいる中野区にしばらくの間移って、東大病院まで、毎日見舞いに通ったね」
バスに乗って中野駅まで出て、中央線に乗ってお茶の水駅で降りて、聖橋から東大病院のシャトルバスに乗って――。83歳の堀野さんが毎日その行き来をするのは体力的に簡単なことではなかった。
「うちの息子は『土日くらい、休んだら』って言うんだけど、行かないとダメなの。私が見舞いを休んだら、大変。寂しがって『福島に帰る!』って騒いじゃう。本当に、ボンボンなんだから。少しでも行くのが遅いと、催促の電話をしてくるの。あれ、買ってきて、これ、買ってきてって言われて、売店で買っていって」
この間、お客には事業所の電話番号を伝え、滞りなく商品を手にすることができるよう、遠隔で営業活動を行っていた。
2006年に、夫は82歳で亡くなった。
一人暮らしは全然寂しくない
ひとり暮らしになって寂しくないですかと尋ねると、「ううん、肩の荷が下りた感じ」と、堀野さんは確認するように言った。
慣れない東京で毎日、病院までの往復をこなした、83歳の堀野さん。「本当にボンボンだったんだから!」と改めて、亡き夫のことを話す堀野さんの顔には、ふっと幸せそうな笑顔が浮かぶ。
「ポーラで男性用の紬を売った時、私はその紬をうちの人に買ってやったんだよ。高いのを。あの頃は化粧品がたくさん売れて、収入がいっぱいあったから。それが、あの人ったら一回も着ないでよ」
一人になって、寂しいとは思わない。言う人がいないから、今は毎日ズボンを履く。
「うちの主人は、何から何まで私にやってもらった人。だから、一人暮らしは気楽ですごくいいね」
夫の世話をとことんやり切った堀野さんは今、83歳から始まった一人暮らしを好きなように楽しんでいる。
三食自炊でお風呂は9時半、寝る前には「報道ステーション」
「編み物が好きで、家にいる時はずっとやってんの」
椅子に座ってこたつに入る堀野さんの前には編みかけの編み物と毛糸、お茶のセットとポットなどが置かれている。
「朝は必ず、6時半に起きるの。手を洗い、入れ歯を洗って、うがいをする。それから顔を洗うんだけど、すすぐのは10回。これは、お客さんにも言ってんの。そしたら、こたつに道具を出して、ここで化粧をする。毎日、必ず。いつ誰が来るかわからないから」
わが身を省みて、誰にも会う予定がない時はほぼノーメイクの自分が恥ずかしい。
「次は、ご飯の支度。おみおつけ(味噌汁)は大概、作ってあるの。一回では食べきれないから、残ったのを温めて。ご飯は、測ってんの。もっと食べられるけど、太んないように150グラムって、決めてるのね」
3食とも自炊で、1日のサイクルを乱さないことも健康の秘訣だと言う。
「ご飯を食べ終わって薬を飲んだら、それから編み物。昼を食べたらポーラの仕事をして、3時からまた編み物。6時半にご飯を食べた後も、9時過ぎまで編み物だね」
長い時で、1日に10時間も編み続けることもあると言う。とにかく編み物が好きなのだ。
「夜の10時までは、お客さんから電話があるかもしれないから、居間で過ごすの。電話をくれたのに、出られないと悪いから。そこからお風呂に入って、湯船で足首の上げ下げ、肩甲骨を広げる動き、両手をあげて30秒! 毎日かかさずストレッチをする」
お風呂での洗顔は入念に、洗顔クリームで肩やデコルテまで洗う。
「お風呂から上がったら、『報道ステーション』を必ず観るの。1日のことがわかるから。野球が好きで、取材で、大谷翔平がホームラン44本で終わったとか、ヌートバーの話とかをすると、『よく、分かってるんですね』なんて言われてね。誰とでも、それで話ができるの。それで最後にみんな、お辞儀をするでしょ。背中まで平らにしてお辞儀するから、それが面白くて私もお辞儀するの(笑)。そのあと、すぐに寝るんだ」
話しながらお茶も淹れてくれた。ストーブの上にかけられた、湯気の立つ重そうなやかんを持って大丈夫かとハラハラしたが、堀野さんは何のその。腕の筋力が衰えていないさまを目の当たりにさせられた。
これが私の生活
まさに、“老後無き人生”まっしぐらだ。最後に、堀野さんにとって、仕事とはどんなものか聞いた。
「特別に“仕事”というんじゃなくて、それも全部ふくめて私の生活なの。朝起きてごはんを食べて編み物をして、お客さんと話してっていう全部がね。それに、お客さんのところに行って、困ったこととか話すとお客さん、胸がスーッとするでしょう。昔からの知り合いでもないし、わたしみたいな距離感は話しやすいみたい。人に喜んでもらえると、わたしも幸せに思うから、これは天職よね。よく、『100歳まで頑張ります』と言う人がいるけど、そんなふうに思ったことはないね。仕事をつらく感じたこともない。ただ、これが私の生活なの」
100歳に、大した意味はない。何の気負いもなく、堀野さんは「今」を生きる。