ドラマ「ブギウギ」(NHK)ではスズ子(笠置シヅ子)が「買物ブギー」でヒットを飛ばす人気絶頂期が展開したが、舞台裏では信頼していたマネージャーが突然リタイア。当時の記録を調べたライターの田幸和歌子さんは「実際は、マネージャーの山内が笠置の稼ぎを使い込み、クビになった。笠置と山内は同居するなど家族同然の仲だっただけに、笠置も彼の裏切りに深く傷ついたのではないか」という――。
笠置シヅ子
笠置シヅ子(写真=朝日新聞社『アサヒグラフ』1953年4月29日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

ドラマでは円満に描かれたマネージャーの交代劇だが……

「ブギウギ」(NHK)第22週では、家政婦・大野(木野花)が歌手・福来スズ子(趣里)の家にやって来て半年、幼い娘の愛子(小野美音)はすっかりなつき、家の中が安定している一方、スズ子はこれまで以上のヒットを求められるように。

そんな中、喜劇俳優のタナケンこと棚橋健二(生瀬勝久)は足の激痛で公演を中止。また、スズ子にとっては亡き恋人・愛助(水上恒司)の母親であるトミ(小雪)が亡くなったという連絡が入り、スズ子と愛子、山下(近藤芳正)は大阪へ行って葬儀に参加するが、東京へ戻ると山下はマネージャーを辞めたいと切り出す。愛助に続いてトミも亡くなったことで、心の糸が切れたという山下は、自身の後任候補として、マネージャー未経験であるおいのタケシ(三浦りょう太)を連れて来る。

しかし、タケシは何かと要領を得ず、現場で居眠りしたり、遅刻したり。スズ子はそんなタケシを叱咤しった激励するが、本番直前にクビ覚悟で謝りに来たタケシを受け入れ、最高のパフォーマンスを見せる。そして、自分がこれまでいろいろな人から教えてもらったことを、今度は自分が教える番だと伝えるのだった。

ドラマではマネージャーの交代劇が、スズ子の立ち位置の変化や世代交代の気配と共に描かれていた。山下はスズ子にとって、仕事はもちろん、愛助が死ぬ前後の辛い時期があった私生活でも二人三脚で支えてくれてきた温かくも頼もしいマネージャーだった。

笠置は山下のモデル・山内義富を肉親のように頼りにしていた

しかし、スズ子のモデルとなった笠置シヅ子の史実を様々な資料で読んでいくと、山下のモデルとなったマネージャー・山内義富のとらえにくい人物像が浮かんでくる。

山内は、笠置と同じ大阪出身で、海外から来朝した音楽家の世話をしたり、その後コロムビアレコードに勤務したりしてきた経歴があり、笠置シヅ子は自伝『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)で次のよう記している。

「山内さんは癖の多い私を親身になって世話してくれ、単に仕事上のマネージャーにとどまらず、私の人生の参謀になっております。いいえ、もう私の兄さんか叔父さんみたいな関係かもしれません」
笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)

ドラマでは愛助が療養で帰阪する前、笠置と2人で箱根旅行に行くが、史実では愛助のモデル・吉本エイスケと笠置の箱根旅行にもマネージャーの山内がついて行っていた。また、笠置の妊娠がわかった際には、慎重に事を運ぶよう助言したり、手紙では要領を得ないからと、直接会って相談することを勧めたりもしていた。

吉本興業の御曹司が亡くなった際、弱い立場の笠置を支えた

年の瀬に名古屋に地方興行に行った際には、元日だけは一人でお雑煮を祝うのも寂しいだろうということで「今日だけは僕がエイスケさんの身替りを勤めましょう(原文ママ)」と山内が言い、笠置が「えらいとうの立ったエイスケさんやな」と笑ったという記述もある。また、エイスケが亡くなったとき、吉本家からの見舞金を納めておいたほうが良いと勧め、「しかし今後、物質的援助は謝絶し、あくまで自立の覚悟で奮発すべきだ。ただ、お見舞金の封筒は吉本家との関係を証明するものだから大事にしまって置いた方がよい(原文ママ)」と進言したのも、山内だった。

笠置の自伝への寄稿「歌姫の構図(笠置シヅ子を語る)」の中で、演劇評論家・旗一兵は山内の存在についてこう記している。

「山内氏はエイスケ君の信望によって笠置君を預けられた人だがエイスケ君の死によって一層その関係は深められ、今は単なるマネージャーではない。血縁者に近い存在であり、笠置君に対する人生の保護者と忠告者を兼ねている。最初のうちはお互いにぴったりしたものがなかったかも知れないが、住宅事情からここ二、三年間同じ家に住んでいるのも二人の気脈を通じさせ、真ッ裸で取り組んだ歌手対庇護者の人間模様が捨小舟すておぶねの母子の生活を温めている」
笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)

「歌手と庇護者」の関係だったが、昭和25年に関係が破綻

一緒に暮らしていた時期も含め、史実ではドラマ以上に近しい間柄であったことがわかる。しかし、笠置に「兄さんか叔父さんみたいな関係」と信頼されていた山内には、意外な“裏の顔”があった。

タナケンのモデル・エノケン(榎本健一)と「エノケン・ロッパ」と並び称されて人気を競った喜劇役者「ロッパ」こと古川ロッパ(古川緑波とも)は、笠置とも親しかったが、『古川ロッパ昭和日記』(1987年に晶文社より復刊)の「昭和二十五年五月十五日(月)」の日記中には、こんな記述が見られる。

「そこから、藤田(編集部註:脚本家、劇作家、映画プロデューサーの藤田潤一)と共に、数奇屋茶屋へ行く。今日は、メムバーの皆で飲まうぢゃないかと、約束したので。ところが呆れたのは、山内義富が数奇屋の奥で又やってゐるのだ。彼は、三日目の筈である。彼、笠置のマネージャーをクビになり(二百五十万円、笠置の金をつかひ込みし由)、雀の他何ものもなしの状態らしい」
古川ロッパ『古川ロッパ昭和日記 戦後篇』(晶文社)
古川緑波
古川緑波(写真=晶文社ウェブサイト/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

5000万円相当の大金を使い込んだ山内は解雇される

ところで、笠置が羽鳥善一(草彅剛)のモデル・服部良一と4カ月のアメリカ公演に旅立つのが、昭和25年6月。なんと山内は、笠置の渡米直前の大事な時期に笠置の金を使い込んで、マネージャーをクビになったわけだ。250万円という金額は、現在なら5000万円以上に相当すると思われる。これは山内を家族のように思い、信頼していた笠置にとって、相当にショックなことだっただろう。

にもかかわらず、当の山内自身は、クビになった直後に少なくとも3日間も茶屋通いをしていた。その後も、ロッパの6月21日の日記にも登場。ロッパの家を早朝に訪れ、7月8、9日の2日間、スポーツセンターでの催しにエノケンと一緒に出てくれと依頼をし、その催しが無事行われたことが7月8日の日記からわかる。

つまり、山内は笠置のマネージャーをクビになり、そのことが周囲に知られている中で、笠置が渡米して不在の間に笠置の「女優業」のパートナー・エノケンやその仲間でありライバルのロッパと仕事を普通にしているわけだから、面の皮の厚さはなかなかのものだろう。

「笠置シヅ子の世界 ~東京ブギウギ~『買物ブギー』」℗ Nippon Columbia Co., Ltd./NIPPONOPHONE

実際はドラマのように誠実な男だったとは思えない

一方、この少し前から笠置は高額納税者として名を連ねるほどのスターになっていた。『サンデー毎日』(2015年1月18日)「一億人の戦後史『サンデー毎日』が伝えた『終戦の情景』 ブギの女王笠置シヅ子を悩ませた税金と愛娘の子育て」では、こんな記述がある。

「税務署に『お前さんの年収はもっと多いはずだ』と詰め寄られ、年収が申告より多いとされれば追加納税――人気者ほど税務署相手に苦戦を強いられていたようだ。1948年(昭和23年)5月2日号の『人気者と税金』では、戦後初のベストセラー小説『肉体の門』の作家・田村泰次郎や人気役者・長谷川一夫に交じって、歌手の笠置シヅ子がこう語っている。『女手一つで子を養うてるわてに、今度の税金はあんまり高うて、たまげてしもうた、ようはらえんワ』 そして取材中、急にむずかり出した愛娘に乳房をふくませた、とある」

笠置の苦労を誰よりも間近で見続けて来た山内が、その金を使い込んだことを思うと、よけいにその人間性に疑問がわいてくるところではある。ドラマの中でずっとスズ子を支えると誓った山下が急にマネージャーを辞める展開になったのは、この史実を反映してのことだったのだろう。

エノケンも興行師に出演料を持ち逃げされた

ちなみに、笠置と映画や舞台で組んでいた喜劇王エノケンもまた、お金に苦労の多い人生だった。

自伝『榎本健一 喜劇こそわが命』(日本図書センター)では、息子のニセモノが軍隊を慰問したり、エノケンのせがれと名乗って金を借りて行ったりしたことで、ニセモノにだまされた人が何人も訪ねて来たエピソードが記されている。しかし、本来は利用され、巻き込まれたことに腹を立てる場面ながら、エノケンの以下の対応はあまりにお人よしだった。

「ニセモノにだまされたと知ってその人は、青い顔して、困った困ったと、しょげてしまった。あまり気の毒なので、それでは私がお払いしてあげましょうと、貸した金をそっくり差し上げたら、大変喜んで帰っていった」
榎本健一『榎本健一 喜劇こそわが命』(日本図書センター)

しだいにニセモノが悪質になって行ったことで、世間と、病弱な息子への影響を考え、警察に事情を説明して取り締まってもらうことにしたというが、その後、息子に先立たれてしまう。

さらに、エノケン自身、最期の巡業で得るはずだったギャラを興行師に持ち逃げされたことが、近代演劇研究者・笹山敬輔氏(内外薬品社長)の著書『昭和芸人 七人の最期』で記されている。

歌や芝居に命をかけ、ステージ上で輝く一方、情の厚さゆえに「お金」に群がる人々に利用され、苦労した笠置とエノケン――お金にまつわる話からも、二人の意外な共通点が見えてくるのだった。

映画『お染久松』(1949年)の榎本健一
写真=プレジデントオンライン編集部所有
映画『お染久松』(1949年)の榎本健一