「不適切にもほどがある!」の第3話に賛否両論の声
TBSの金曜ドラマ「不適切にもほどがある!」のワンシーンがネットで話題だ。問題の場面は2月9日に放送された。宮藤官九郎脚本のこのドラマ、通称「ふてほど」は、「令和 VS 昭和」のコンプライアンス・ギャップがテーマ。
主人公の市郎(阿部サダヲ)は、体罰上等の昭和の中学教師だ。顧問を務める野球部では「バテるんだよ水飲むと!」と、練習中の水分補給は禁止。ノックをしながら「男のくせにー!」「女の腐ったようなー!」「モヤシ野郎が、オイ、金玉ついてんのかオラァ!」と生徒に叫ぶ。とどめにウサギ跳びを命じ、連帯責任のケツバットが大好物だ。
大のヘビースモーカーでハイライトが切れたら手が震え、生徒の前でも平気でスパスパと喫煙。隠れて茶の間でAVビデオを観ては娘に軽蔑され、「チョメチョメ」「ニャンニャン」など現代では死語となった不適切ワードをまき散らす。そんな昭和のおじさんが、ある日突然、名作映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』よろしく、昭和61年(1986)から令和6年(2024)にタイムトリップする。
デロリアンの代わりに、隅田川を渡る錦糸町行き路線バス(!)で昭和から令和へ旅する「時をかけるおじさん」が、コンプラ、セクハラ、パワハラ、多様性、対話――というこの40年の価値観の変化に翻弄されるストーリーだ。彼は令和の女性達と出会い、娘と向き合い、はたして変わっていくのか、いかないのか――を描くドタバタコメディである。
令和6年のセクハラガイドラインをミュージカルで示した
このドラマ、毎回終盤に謎のミュージカルシーンが挿入される。ミュージカルのクオリティ自体は高く、演者も元タカラジェンヌや劇団四季出身者を起用するなど、こだわりが光る。
第3話のミュージカルの内容はこうだ。舞台は令和6年のテレビ局の生放送スタジオ。山本耕史演じるプロデューサーと代打MCの八嶋智人が、混乱極まり、歌い、踊り、叫ぶ。
「それもハラスメント(中略)だからテレビつまんない
誰が決めるハラスメント ガイドライン決めてくれーー‼」
そこに主人公の市郎が昭和61年から駆けつけ突然登場。「(女性は)みんな自分の娘だと思えばいいんじゃないかな?」のセリフで始まり、Queenばりにアンサーソングを朗々と歌い上げる。「アダルト女優も アイドルも 一般女性も お婆ちゃんも みんな娘だと思えばいい」「娘に言わないことは言わない」「娘にしないことはしない(中略)それが俺たちのガイドライン」
「娘にしないことはしない」がガイドラインでいいのか?
ドラマ放送後、この「娘にしないことはしない」が、クドカンによるセクハラガイドラインだ! とでもいうようなスクリーンショットや動画がX(旧ツイッター)で拡散された。「なるほど! そう考えたらいいのか」と感心した人も多いようだ。でも「娘にしないことはしない」という判断基準がこのように広がっていいのだろうか?
あまりの拡散ぶりを見てモヤモヤしたため、わたしも引用リポストしたところ、翌朝2.1万いいねがついており、この件への関心の高さがうかがえた。誤読だ、連続ドラマなので今後の展開を待て、こんな切り取りをされたらクリエイターは何も言えない、という批判もあった(それもわかる)。
それより驚いたのは、「自分も肉親(父親など)から嫌な目に遭ったことがあるから、この言い方じゃ性被害がなくならないのがよくわかる」という趣旨の、切実なコメントが数多く寄せられたことだった。彼女たちの体験をひとつずつ読みながら、悲痛に感じた。
日本の女性の40%が18歳までに性被害に遭っている
ここで「性被害」に関する数字を見てみよう。
なお、平成初期には「セクハラ」と呼ばれていたそれは、この40年近くを経て、ちょっとおどけたニュアンスも含む「セクハラ」ではなく、ようやく正しく「性加害」「性被害」や「性暴力」「性犯罪」と呼ばれるようになった。
昨年、故・ジャニー喜多川の性加害について告発が相次ぎ、栄華を極めたジャニーズ事務所が半年足らずで解体に至ったことは、みなさんも記憶に新しいだろう。いまはもう、「課長、それセクハラですよ〜」とやんわり指摘してもらえるような時代ではない。人事に通報されて一発アウトだ。
もしかすると男性ならこう思われるかもしれない。
でもさ、性被害って、そもそもそんなに多いの? 特殊なことなんじゃない? そもそも誰から誰に行われるの? 電車での痴漢? 通りすがりの犯行?
そうではない。性被害は日常にあふれている。2022年に内閣府が行った初の調査では、日本の16歳から24歳の若年層のうち、およそ4人に1人が「何らかの性暴力の被害に遭ったことがある」と回答している。男性を含めた調査でさえ、こうなのである。
日本では18歳までに、40%の女の子が痴漢や裸の写真撮影などを含む何らかの性被害を受けているというデータもある。世の多くの男性は、残念ながらこれほどまでに性被害が身近なものだということを、ご存じないのではないだろうか?
統計データには出てこない隠れた被害者も多い
ご想像がつくだろうが、性犯罪は「暗数」が多い。「被害を説明するのもつらい」と被害届を出すのをためらう人がほとんどだ。勇気を出して警察に行っても、セカンドレイプに近い取り調べを受けることもあるという。統計に表れる数字は氷山の一角でしかない。
法務省の「第5回犯罪被害実態(暗数)調査」(2019年)では、性的事件で警察に被害届を出す人はわずか14.3%とされている。つまり、8割もの被害者は、被害を認識しても被害届を出さずに我慢したり、もしくは勇気を出して被害届を出しても示談に終わったりしているということだ。
あなたの身近な人も、性被害に遭っているのかもしれない。ただ言わないだけなのだ。
わたしも女性であり、嫌な記憶はたくさんある。園児の頃から、小中高、大学生になっても、社会人になってもある。例えば、痴漢、盗撮、下着泥棒、卑猥な言葉をかけられる、いきなり車に乗せられそうになる――。
その場では頭が真っ白になり、起きていることを正確に理解できない。真っ昼間に、まさかこんなところで、という場でも起こる。幼少期は知識もないため、後で「あれはなんだったんだろう」と、とにかく嫌な気分になる。十数年経ってから意味を理解して、吐きそうになることもある。
未成年の性被害では、加害者が口止めすることも多い。また、周囲の大人に訴えても、反対に被害者が叱られることもある。「隙を見せた」「油断」「恥ずかしい」……訴えても大人からそうあしらわれる。そしてこんなことは誰にも言わないのが正しいのだ、と思い込まされる。
なお、被害者が悪いということは絶対にない。今は子ども用ホットライン、例えば法務局の「子どもの人権110番」や、LINE相談などもあるのでためらわずに相談してほしい。もちろん保護者用の窓口も警察、児童相談所、自治体など各所にある。
家庭内での性的虐待の40%が実の父親によるものという事実
では、どのような人からの加害が多いのか?
先ほどの内閣府の調査では、加害者の2割弱は身内などの「親密な人」、7割強が「顔見知り」と出ている。つまり見ず知らずの人間ではない。多くは家族や知り合いが加害しているのだ。また児童相談所の報告によると、家庭内での性的虐待の加害者の40%は「実父」なのである。
そこで、冒頭のドラマ内ミュージカル「娘にしないことはしない」に戻ろう。いま数字で挙げた現実をふまえて「娘にしないことはしない」は、はたしてセクハラのガイドラインたりえるだろうか?
そもそもセクハラをするような輩は、娘に対してもする。主人公の市郎も娘の純子に「お前、チョメチョメする気だなーっ、このヤロウ!」とすぐ怒鳴る。
このミュージカル、実はメッセージの主体が不明瞭なのだ。主人公・市郎の独唱ではなく、彼にあわせて女性3人が「Everybody Somebody’s Daughter(みんな誰かの娘)」とコーラスする。周回遅れの中年男性の「気づき」の表明ならまだしも、20代・30代の女性が彼を追認する仕立てだ。ここに主人公への「甘やかし」を感じてしまう。
「自分の娘」ではなく「社長の娘」にできるか? と自問する
では、「娘にしないことはしない」に代わるセクハラのガイドラインは何だろう?
セクハラ訴訟等に詳しい東京法律事務所の笹山尚人弁護士は、「同じことを社長や上司の息子や娘にできるかどうか。これを(セクハラの)基準とすればいい」とかねてより提案している。また、同様のことはSNSでも多くの女性がつぶやいてきた。
セクハラをする人間というのは、異性の人間を目下だと軽く見がちで、だからこそセクハラを働くのだ。もちろん娘や家族に対しても、自分の所有物だ(=好きに扱っても文句は言われない)という驕りがあり、それゆえに半ば無自覚に加害してしまう。
だからセクハラは、「娘にしないことはしない」では防げない。「社長や上司のお子さんにできるか?」と自問自答しなくては、セクハラ人間は自制できないだろう。
このドラマの脚本を手がける宮藤官九郎は、大河ドラマ「いだてん」の執筆中も毎日のようにお子さんの園の送迎をしていた。そんな人であれば「娘にしないことはしない」で十分なのだろうが……。
本当は人を「所有物」と見ている時点で間違っている
では、この「それ、社長や上司のお子さんにできますか?」が令和のファイナルアンサーなのだろうか? 実はそうではない。
そもそも誰かのことを「自分の娘」「上司の息子」などと考えている時点で、人間を「誰かの所有物」とみなしている。自分のモノや目下の人間なら傷つけてよい、偉い人の所有物は大切にする、という発想は、人権意識ではなく、家父長制に基づく選別だ。
いまはコンプライアンスの過渡期だ。だから仕方なく「それ、社長や上司のお子さんにできますか?」をまずは広めていくしかないのだろう。
しかし本来的には、誰であっても尊重されるべきだ。誰もが、誰もに、加害をしてはいけない。これは「我慢しろ」という意味ではない。あなただって大切にされるはずの一人の人間で、加害されるべきではない。それは子どもだって、おじさんだって同じだ。
そして同時に、他人に加害しないように努力するのだ。もしこれまでの自分のふるまいの中に加害性を見出したら、今日からやめればよい。ドラマ第3話の時点で、市郎はそれまでは娘の前で平気でおならをしていたのを、遠慮するようにと変化している。
ドラマには「自分を許してほしいおじさん」の甘えが見える
SNSで見ているとドラマ「ふてほど」は、アラウンド50の世代やお笑い好きからは評価を得ている。テンポはよく、キャストもさすがの芸達者揃い、小ネタも満載だ。例えば大河ドラマ出演中のロバート秋山に、烏帽子と直垂で登場させたのも気が利いていた。
その一方、90年代生まれ以降の若い層には「ちげーよ」「モヤる」というような違和感を抱かれているようだ。公式サイトに「意識低い系コメディ」「不適切発言が令和の停滞した空気をかき回す!」とあるように、「やっぱ、意識高い(笑)って息苦しいでしょ?」とでもいいたげな、テレビ局の上から目線が透けて見えるからではないか。
主人公・市郎のふるまいには「変われない自分を許してほしいおじさん」の甘えが凝縮されているし、令和6年から昭和にタイムスリップした14歳のキヨシが「昭和がいいんだ! 地上波でおっぱいが見たいんだ!」と叫ぶのも不自然だ。中高年の郷愁と欲望を、今を生きる中学生に代弁させるのは卑怯だろう。
吉田羊演じる「不適切です!」と言う役回りの女性もブレた
吉田羊が演じるヒステリックなフェミニスト社会学者・サカエというキャラ造形もステレオタイプだ。ミュージカル中、彼女は主人公の娘に「お父さんをガッカリさせないで」と歌う。だが父が「娘が悲しむことはしない」のと、子が親を「ガッカリさせない」のは別次元の話だ。親が子に加害しないのは、いい子でいることのご褒美ではない。ここでは対称性のないものが対句表現になっている。
サカエは令和からやってきて、昭和の中学校に「パワハラ!」「虐待!」と乗り込むような「不適切」を指摘する役割をドラマ内で担っている。その彼女が「娘が父の従属物」であるかのような価値観に基づく「不適切」なセリフを歌うのは、設定のブレなのか、作り手の確信犯的メッセージなのか。
主人公と仲里依紗のロマンスもかなり唐突だ。彼女が市郎に惹かれていく理由がよくわからず、ご都合主義のおじさん版少女漫画のような印象がある。「最近、話題になっていた、恋愛エピソードが無理やり挿入されるという例のアレ?」と邪推してしまう。
人権、対話、多様性。こういった新しいあたりまえを「はいはい、コンプラね」「またポリコレか」と内心小馬鹿にしながら時代に置いていかれるのか、それとも意識をアップデートさせていくのか。「娘にしないことはしない」程度のガイドラインのままでは、「ちげーよ」「モヤる」と思われながら肩身狭く生きていくことになりそうだ。
※参照:新版 教職員ワークショップ冊子