「あくまで昭和における個人の価値観です」
「あくまで昭和における個人の価値観です」
こんなテロップが出るたび、ドラマ視聴者たちはXで喝采、爆笑する。
TBS金曜ドラマ「不適切にもほどがある!」(金曜夜10時)が大人気だ。宮藤官九郎氏がオリジナル脚本、俳優の阿部サダヲが主演とくれば、久々の地上波で見せる鉄板タッグに「そりゃ面白くないわけがない」と事前の期待も大きかった。
大人になれない大人たちの名作「木更津キャッツアイ」や、耳に残って消えない厨二モラハラ迷曲「君にジュースを買ってあげる♥」を代表作とするパンクコミックバンド、グループ魂としての活動――そう、いうまでもないが劇団「大人計画」のコアメンバーたる2人である。
サダヲ演じる主人公の体育教師・小川市郎は、1986年(昭和61年)から2024年(令和6年)にタイムスリップしてしまう“昭和のダメおやじ”。彼の“不適切”な言動がコンプライアンスに縛られた令和の人々へ考えるヒントを与える、のだが――。
「昭和の当たり前は令和の不適切⁉︎」をキャッチコピーとするこのコメディードラマ、1月26日の初回放送以来、若者も中年も世代を超えてすっかり魅了されてしまっている。SNSやら実生活やら、あちこちでドラマの小ネタが引用され、「このドラマをどう面白がっているか」と互いの共通項を確かめ合っているようなのである。
“令和の適切”迷子が吸い寄せられるコメディー
コンプライアンスだ、ポリコレ(政治的正しさ)だ、MeTooだ、文春砲だ――。新しい言葉がどんどん攻め込んできて、まるで自分たちを採点し合否を宣告するように感じる、“令和の適切”に迷子の我々だ。
現代はもう、何を言ってもやっても「不適切! 昭和の感覚!」と糾弾される、コンプラ社会は息苦しいよどうしていいかわかんないよ、ああ昭和に帰りたい……なんて嘆きもあちこちで聞く。
だからこそ“昭和の不適切”をもう一度令和に再現して「ホラ、昭和育ちの僕らの目で見てもこれだけ“遠い昔のこと”なんですよ、今見ると笑っちゃうでしょ?」と見せるこのコメディーが秀逸なのだ。
「起きろブス! 盛りのついたメスゴリラ!」
80年代というシチュエーションを借りた“不適切”を切り取る絶妙なバランス感覚。なにせ、ドラマ初回の冒頭のセリフがいきなり「おい! 起きろブス! 盛りのついたメスゴリラ!」だ。
体育教師の市郎は自宅でも教室でも校長室でもバスの中でも、どこに行ってもタバコをふかし(したがってどこにでも灰皿があり)、野球部顧問として千本ノックで部員を大笑いしながらシゴき、「おい、水なんか飲むな! すぐバテるだろ!」と怒鳴り散らし、「連帯責任だ、並べ!」とケツバットをお見舞いする。
昭和の積み木くずしや、今じゃ恥ずかしいくらいのツッパリ文化。「テレビでおっぱいが見たいんだ!」「チョメチョメする気か!」「昭和に帰って“トゥナイト”見た~い」「10代のうちに遊びまくってクラリオンガールになるんだよ!」など、約40年前のノスタルジーをたっぷり含んでためらいなくシモに転ぶ、愛すべきセリフの数々。
視聴者は、クドカンがあえて切り取って見せる「80年代らしい無邪気」をこの2024年に目にして、「懐かしいな〜、こんな感じだったよな〜」と笑いながらも、一方でこれに「でもこれ、ドラマに上手に乗せるの大変だったよね」と一筋のヤバみを感じられるほどには令和ナイズされている自分を知るのである。
お断りテロップの中和作用
市郎が80年代体育教師の感覚で繰り出すセリフは、令和の現代においてはほぼ“不適切”。だがそんな劇中表現に備えてあらかじめ、冒頭でも紹介した注意喚起の「お断りテロップ」が表示されるのが、いわばツッコミの役割を果たしている。
「あくまで昭和における個人の価値観です」
わかっていてあえてやっているんです、言わせているんです。だからそれを楽しんで見てね。このテロップの存在によって、令和の人々が「おいおい、そんなこと言って(やって)大丈夫?」と目を丸くする劇中の言動が、ちゃんと笑える「ボケ」になる。昭和を直視できる。
そして、「昭和ってこんなことやってたんだなぁ」「ヤバいよね」「ナイわー」「いや、わりとアリなんじゃない?」と、昭和という時代がまるで100%悪というわけではないということもまた、話し合えるのだ。お断りテロップは、このドラマの優れた持ち味の中でも白眉である。
“昭和のダメおやじ”市郎が持つ「奇跡の柔軟性」
令和にタイムスリップした昭和の50歳おじさんが女子高生を見て「そんな短いスカート履いてたらパンツ見えちゃうぞ?」、白いイヤホンを見て「耳からうどん出てるよ?」と注意する。人々が手にして歩くスマホを見て、「あの薄くてツルッとしたやつ、みんな持ってるけど何なの⁉︎」と自分も欲しがる。
これをあくまでもコミカルに、愛すべきキャラクターの愛ある言動にするのが、怪優・阿部サダヲの緩急自在で秀逸な演技だ。
市郎は確かに“昭和のダメおやじ”設定だが、変化を受け入れられず拒否したり、驚きや当惑がすぐ怒りに変換されて周囲を攻撃したりするような思考停止した人ではない。38年後にタイムスリップしてもそれなりに生きていける市郎は、奇跡の柔軟性を備えているのだ。
本当にダメなおやじだったら、いやおやじじゃなくて私のようなおばさんでも、昭和の自分の状況にあぐらをかいて客観性や内省がなく、異なる環境に置かれた途端にただ不平不満をわめき散らすだろう。
わめくというのは一方的な怒りの発信であって、対話ではない。周囲で何が起こっているのかの観察力に欠け、したがって理解せず、自分から変化に適応していくことができず批判だけを繰り返し、周りの嫌悪感以外、何も生まないだろう。
ところが、38年後にタイムスリップしなくたって、まさにそういう「適応できない人」が現実の令和にいる。「昔はよかった」「昔は許されていたのに」を決まり文句に、自分の観察力や対話力、適応力が少々足りないようだということは棚に上げて、自分にとって新しいと思えることが出現し、広まっていくのを単純に嘆く。
女が黙って泣き寝入りしていただけ
この年初からなぜか持ち上がった「飲み会」「合意」の話もそうだ。昭和平成の性加害がどのような構造の中で起こるものだったのか、なぜそれがいま「加害」と呼ばれるのか、しかも連綿と続くことができてしまったのか、傷ついた人は誰で傷つけた人は誰なのか、欠けていた心とはどういうものだったのかというのが話の本質だ。
だが、変化に弱い人、変化を察知したり受け止めたりすることが苦手な人は、「小狡い女を相手に確実な合意なんてどうやって取れっての」「じゃあ王様ゲームやめればいいんでしょ?」「もう飲み会なんか怖くてできないよ」と、どこまでもことを矮小化して(しかも逆ギレして)語る。「昔は許されていたのに、何なんだよ今の世の中」と吐き捨てる。
許されていたんじゃない。誰も許してなんかいない。女が黙って泣き寝入りしていただけだ。
そもそも他者(女)に心があることを理解できないか、あるいは他者(女)を尊重することを知らないのだろう。尊重し合う人間(恋愛)関係を結んだことがないのだろう。寂しい話である。
今は灰皿はない
「ふてほど」が切り取った80年代の姿で80年代メイクやVHSのビデオプレーヤーやケツバットや幽霊自転車以上に衝撃的だったのは、市郎が乗ったバスの座席の背に、前にガコンと引き出すあの四角い灰皿があったことだった。
そういえば昔は電車のプラットホームにもベンチの横に灰皿が普通にあって、スモーカーたちがモクモクと白い煙を上げていたものだ。いまじゃ全廃、駅構内は全面禁煙なのが当たり前で、そんな灰皿が存在したことすら忘れていた。
「ふてほど」の本当のテーマ
人間社会は、時代によって細かいルールの修正を施して進んでいく。暮らす中で、誰もが知らぬうちに多かれ少なかれ「常識」をアップデートされて生きている。昔、(特に長距離)バス座席の背には灰皿があったが、いまはない。
「タバコね、体に良くないんですよ」「私はあの煙を吸わされるのが嫌なんです」と声を上げた人がいて、「それは困りますよね、どうしたらいいですかね」と話し合って、「本当はスパッとやめる方がいいんですけどね」「じゃあ、吸いたい人は専用のスペースを設けますから、そこでお願いします」と社会のルールが変わったからだ。
バスの背に灰皿があった頃はバスの中で大っぴらに喫煙することが許されており、そっちが「常識」だった。だがいまは分煙社会であり、皆それを受け入れて暮らしている。
それと同じ「ルール修正」が、現代人同士のコミュニケーションの中に起こっているのだ。男女関係の「力学差を利用した暴力」の話だけじゃない。嗜好品を大っぴらに摂取することを見直すという文脈でいくなら、もしかしたら、私の大好きな酒類にも同じようなことが起こるかもしれない。コーヒーもよろしくない、エナドリも刺激が強いので年齢制限を、という話になってくるかもしれない。
大売れに売れた書籍『ファクトフルネス』でも紹介されていた通り、「昔は良かった」は統計学的に否定されている。経済も、技術も、社会のありようも、長い目で見れば人類社会では確実に、昔よりも現代の方が(人間の)幸福度は全体的に底上げされている。歴史的にも、人類は何かあれば「それはいかんよね」「もう少しいい方法はないかね」と、額を寄せ合って知恵を出してきたからだ。
「もう少しいい方法」を考えることに参加貢献せず、「昔は良かった」と新しいルールの醸成そのものを拒否することを思考停止と呼ぶ。
ドラマ「不適切にもほどがある!」は、「話し合おう」がテーマなのだという。毎回の放送のミュージカルパートはまさに対話シーンであり、ディベートを歌に乗せたメタファーで優しくユーモラスに届けるという、気の利いた演出が大成功している。ユーモアに包んだ昭和の直視と、実はゴリゴリの対話。プロの手によるそういう前向きで上向きな「企み」、機知に富んだエンタメを、現代の私たちは必要としているのかもしれない。