戦後間もない激動の時代とはいえ、笠置シヅ子の出産は過酷だった。笠置の自伝などを読んだライターの田幸和歌子さんは「ドラマ『ブギウギ』ではスズ子がお産の後に恋人の死を知ったが、実際には出産10日前に知らされ、死に目に会えなかった。また、恋人である吉本興業の御曹司は母親の吉本せいに、笠置との入籍を直談判したわけではなかったようだ」という――。

舞台「ジャズカルメン」の幕が開き、妊娠6カ月で出演

朝ドラ「ブギウギ」(NHK)第18週「あんたと一緒に生きるで」では、妊娠中の歌手・スズ子(趣里)が、作曲家の羽鳥善一(草彅剛)と共に「ジャズカルメン」の稽古を開始する。

稽古が順調に進む中、大阪の病院に入院している村山愛助(水上恒司)と会えない日々が続く。そんな中、スズ子は雑誌記者に、妊娠6カ月であることを暴かれ、「父親はいったい誰⁉」とスクープされてしまう。

だが、スズ子はそれを気にも留めず、稽古を続行。一方、大阪で入院中の愛助は、スズ子への手紙で、公演中に必ず東京に戻るつもりであること、入籍を村山興業の社長である母に認めさせること、「お腹の子を絶対に父なし子にはしません」という決意を手紙で綴る。

それでも母トミ(小雪)は2人の結婚を頑なに認めようとせず、愛助と口論に。愛助は怒りと絶望に打ちひしがれつつも、スズ子には公演中に必ず戻るつもりであること、必ずトミを説得することを手紙に記し、「何も心配しないでください」と添える。そして、本番当日。スズ子は舞台を見事に成功させ、観客は「妊婦のカルメン」に大いに沸く。

実際は舞台に出るたび「冷や冷や」していた笠置シヅ子

ドラマでは産科の医師や看護師がサポートする中、「ジャズカルメン」の公演があっさり成功したが、史実ではどうだったのか。

笠置シヅ子の伝記『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)によると、笠置シヅ子は「スイング・カルメン」を「妊娠六カ月の太鼓腹をカルメンのスカートとショールと扇でカムフラージュして」「毎回冷や冷や」「固唾を呑んだまま」という状態で乗り切ったことが記されている。笠置シヅ子の歌、そして舞台に対する強い情熱と度胸の良さ、大胆さ、そしてドラマのように医師も付き添っていて、見守る人々のあたたかい支えが目に浮かぶようである。

羽鳥善一のモデルとなった服部良一の自伝『ぼくの音楽人生 エピソードでつづる和製ジャズ・ソング史』(日本文芸社)では、当時についてこんな記述もある。

「そのころ、笠置君は、吉本興行(本文ママ)の社長の子息で早稲田の学生だった吉本穎右えいすけ君と相思相愛の仲になっていた。先方の親の反対で正式結婚は難行していたが、状況は好転していた。結婚を前にして、最後の舞台では、はなばなしくカルメンを演じたいという彼女の懇望に、ついにハラボテ・カルメンとなって日劇に現われたわけである」
服部良一
服部良一(毎日新聞社「毎日グラフ」1950年5月10日号より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

ドラマでは出産後に恋人の死を知ったが、史実では出産前

ドラマでは無事公演を成功させた後、スズ子のお腹の子が順調に育って行く一方、愛助の病状は刻々と悪化。そして、ついに危篤となり、スズ子に知らせるべきか、マネージャーの山下(近藤芳正)や村山興業の坂口(黒田有)が悩む中、スズ子の陣痛が始まり、スズ子は愛助の着ていた丹前を握りしめて分娩室に入った。同じ頃、大阪では愛助が最期の力を振り絞ってスズ子への手紙を書いていた。

そしてスズ子が無事出産した2日後、愛助の死が告げられる。大阪からやって来た村山興業の社長秘書室長・矢崎(三浦誠己)は、愛助から預かった預金通帳と最期の手紙をスズ子に渡すのだった。

ドラマでは愛助の病状が不安でいてもたってもいられないスズ子が、善一の妻・麻里(市川実和子)に励まされ、自身の出産と向き合う様が描かれた。また、愛助が生きているかどうか分からない状態でスズ子は出産する。

しかし、笠置の自伝によると、エイスケが亡くなったのは笠置の出産直前。

「いよいよ動けなくなった。大阪医大へ入院させる」という手紙が届いた(おそらく大阪吉本の営業部長・前田米一から)ことで、大阪に行くと泣きながら訴えた笠置に、医師が「今となっては途中で生まれるか。向う(本文ママ)に着いてすぐ生まれるかのどっちかです」と言い、大阪行きを思いとどまったとある。このとき5月3日。5月15日の出産予定日まで、残り10日余りになっていた。

ラジオの世界では昭和26年9月から民間放送がスタート、番組も一気に多様化した。ヒット曲「東京ブギウギ」を歌う笠置シヅ子(=1951年12月・東京都)
写真=毎日新聞社/時事通信フォト
ラジオの世界では昭和26年9月から民間放送がスタート、番組も一気に多様化した。ヒット曲「東京ブギウギ」を歌う笠置シヅ子(=1951年12月・東京都)

危篤の知らせに臨月の身で大阪に行こうとしたが…

そして危篤の報せを受けたのが、18日。その翌日、5月19日にエイスケは25歳の若さで息を引き取る。死因は奔馬性結核による急性肺炎だった。

笠置が訃報を聞いたのは、20日のお昼ごろ。山下のモデルであるマネージャーの山内は、「いつまでも隠し終わせるものではない。なまじ下手な言い方で脇の者から漏れたら影響も悪いし、これほどのことを何故知らせてくれなかったかと感情を害すかもしれない。またこれが産後にわかると血が上るということもある」(自伝)として、出産予定日を過ぎ、いつ生まれてもおかしくない笠置に訃報を知らせたのだ。

病院の応接間で、極度に緊張した顔の山内が伝えたのは、こんな言葉だった。

「あんたも万一を想像していただろうが、その万一が来ました。詳しいことは、これからお話しますが、あなたは今こそ子供を立派に生んで、エイスケさんの遺志に背かぬ人に育てる決意を固めるべきですよ」
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』1948年、北斗出版社)

出産10日前に最愛の人が亡くなったことを知らされる

それを聞いて、笠置はその場で泣き伏したというが、泣きたいだけ泣いた後にはこんなことも言っている。

「いちばんお可哀かあいそうなのは御寮さん(編集部註:吉本せいのこと)でッしゃろう。いろいろの夢をつないでいた一人息子に先立たれはって……」
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』1948年、北斗出版社)
吉本せい
吉本せい(写真=朝日新聞社『アサヒグラフ』1948年10月27日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

ドラマでは病気の養母・ツヤ(水川あさみ)と長く離れていたものの、かろうじて死に目には会えたが、笠置は会えなかった。さらに、史実ではエイスケの死に目にも会えなかった上に、出産間近に訃報を聞かされたのだから、現実はドラマの何倍も残酷だったのである。

自伝にはエイスケの死を知った20日からの「日記」がある。23日分では、ドラマと同じく預金通帳が矢崎のモデル・前田から手渡されるくだりが記されている。通帳の名義は吉本静男となっており、もし生まれてきた子が男だったらそう名づけるというのが遺言だったという。

前田は使用人全員を枕元に呼んで礼を言ったことなどを語ったが、続く言葉には若干の違和感を覚えなくもない。

「笠置はんのことは本家(編集部註:吉本せいのこと)に何もいやはらしまへんでした。なんせ、几帳面なお人やよって、親の許さぬ恋として、喉元までせきくる言葉を押し戻しはったんだっせ。本家もそれと察して、なんか、もういい残すことあらへんのか、と何度も何度も声を強めはりました。ぼんは静かに眼をつぶってはったが、その何度目かに薄目を開けられて、たったひとこと、ほかのことはみな前田にまかしてあるよって、よろしうお願いします……」
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』1948年、北斗出版社)

エイスケの寝間着を抱きしめながら一人で出産した笠置

ドラマでは、愛助はトミにスズ子との結婚を認めてもらうよう何度も懇願し続け、村山興業を捨てるとも言った。しかし、笠置の自伝を現代に生きる我々の価値観で読む限り、史実のエイスケは最期まで笠置の夫や、そのお腹の子の父である前に「吉本興業の御曹司」だったという印象が拭えない。

しかし、自伝にそうした恨み言は全く登場しない。

笠置が女児を分娩したのは、6月1日。自伝にはこんな記述がある。

「お産も軽かった。三十歳過ぎての初産は苦労するといわれていたが左程でもなかった。あれこれ考えるとエイスケさんの霊が私たち母子を守ってくれているからだというような気がする。私は陣痛に襲われると、衣紋竹からエイスケさんの寝巻を外ずして(本文ママ)貰って、それをぐっと抱きしめてわが子を生んだのだ。エイスケさんの残り香が私の身体を包んで、決して一人ぼっちでお産をするような気がしなかった」
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)

義母の吉本せいは息子と笠置のことを「何も知らない」

親もきょうだいもいない笠置が、愛する人を出産間近に失い、本家に話もしてもらえないまま、よりどころなくたった一人で初めての出産に臨んだ心細さは、どれほどのものだったか。

ちなみに、史実では吉本せいが笠置に初めて会うのも、エイスケの死後。『新版 女興行師 吉本せい』(矢野誠一/ちくま文庫)では、筆者が『現代人物事典』(朝日新聞社)の「吉本せい」の項目を執筆する際、送られてきた出所不明の切り抜きからこんな記述を引用している。

「昨年五月亡くなった独り息子の穎右えいすけ氏と例のヴギウギ歌手笠置シヅ子さんとの問題については『何も知らない』と語らなかった」

かくして笠置は、妊娠を知ってなお籍を入れようとしなかったエイスケのことも、2人の結婚を反対し続けた吉本せいのことも、誰のことも恨むことなく、未婚のシングルマザーとして生きる道を選ぶ。

しかし、もしエイスケが健在であったら、笠置は結婚で引退することになり、名曲『東京ブギウギ』が生まれることも、笠置が「ブギの女王」として君臨することもなかったわけで、運命の皮肉を思わずにいられない。