宮内庁は1月22日、天皇・皇后両陛下の長女愛子さまが、大学卒業後の今年4月から、日本赤十字社で嘱託職員として勤務することが内定したと発表した。神道学者で皇室研究家の高森明勅さんは「敬宮殿下は学習院女子中等科1年の時に『看護師の愛子』というファンタジー短編小説を書いておられる。その中で表現されていた心の奥にある願いが、今回の日赤へのご勤務という形で結実したといえるのではないか」という――。
「講書始の儀」で講義を受けられる天皇、皇后両陛下の長女愛子さま。2024年1月11日、皇居・宮殿「松の間」[代表撮影]
写真=時事通信フォト
「講書始の儀」で講義を受けられる天皇、皇后両陛下の長女愛子さま。2024年1月11日、皇居・宮殿「松の間」[代表撮影]

愛子さまの選択

さる1月22日、天皇・皇后両陛下のご長女、敬宮としのみや(愛子内親王)殿下が学習院大学ご卒業後、皇室とのゆかりが深い日本赤十字社の嘱託職員として勤務されることが内定した、との報道があった。

このニュースに多くの国民が祝福の声を上げた。

ただし祝福しながらも、ご進路の選び方にやや意外な印象を持った人も、専門家を含めて少なくなかったようだ。

これまで、内親王や女王の方々が大学院に進学されたり、海外に留学されたりする例は、珍しくなかったからだ。

大学生活で、敬宮殿下が勉学に熱心に打ち込んでおられるご様子がしばしば伝えられていた、という事情もある。

さらに、皇族という何かと窮屈なお立場にあって、比較的自由な空気に触れることができる貴重な学生生活の多くの時間が、コロナ禍のためにさまざまな制約の中に置かれてしまわれた。だから、何らかの形でもう少し学生として青春の日々を楽しまれてはいかがか、と願う国民もいたはずだ。

しかし、敬宮殿下はきっぱりと、日赤での嘱託勤務という進路を自ら主体的に選ばれた。

「人々や社会のお役に立つことができれば」

このような選択をされたご自身のお気持ちについては、宮内庁から以下のような発表があった。

「本年4月より日本赤十字社の嘱託職員として勤務することの内定をいただき、ありがたく思っております。日頃から関心を寄せている日赤の仕事に携われることを嬉しく思うと同時に、身の引き締まる思いがいたします。これからも様々な学びを続け、一社会人としての自覚をもって仕事に励むことで、微力ではございますが、少しでも人々や社会のお役に立つことができればと考えております」

ここにある「少しでも人々や社会のお役に立つことができれば」というお気持ちこそ、大学院への進学とか海外への留学という、より自由な環境が期待できる選択肢を除外された、最大の動機だろう。言い換えると、個人的な学問上の志望などよりも、早く人々や社会に貢献したいという、公共へのご献身を優先された結果にほかならない。

小説「看護師の愛子」で描かれた“初志”

しかも、ここで見落としてはならない事実がある。それは学習院女子中等科1年の時(平成27年[2015年])に「看護師の愛子」というファンタジー短編小説を書いておられたことだ。

この小説は「私は看護師の愛子」という一文から始まる。そして、主人公の「愛子」が海に浮かんだ診療所で1人、けがをしたカモメやペンギンなど海の生き物たちに対して「精一杯の看護をし」、やがて「海の生き物たちの生きる活力となっていった」物語を描く。なつかしいメルヘンの趣きがある作品だ。

この小説には、傷つき苦しむいとしい命に、救いの手を差し伸べようとされる敬宮殿下の心の奥にある願いが、優しく美しく表現されていた。

その願いが約10年ほどの歳月を経て、今回の日赤へのご勤務という形で結実したともいえるのではないだろうか。

その意味では、敬宮殿下は初志を貫かれたと言えるだろう。

浜辺にいるペンギンとカモメ
写真=iStock.com/Wirestock
※写真はイメージです

両陛下のお気持ち

この度の敬宮殿下のご選択に対する天皇・皇后両陛下のお気持ちも発表されている。

「愛子が日本赤十字社の嘱託職員として受け入れていただくことになったことをありがたく思います。この春から日赤の一員として仕事に従事することにより、多くの人のお役に立てるよう、努力を続けるとともに社会人の一人として成長していってくれることを願っています」

両陛下は共にイギリスの名門オックスフォード大学に留学され、天皇陛下は学習院大学の大学院でも学ばれている。

しかし、そのようなご自身らのご経験にこだわることなく、あくまで敬宮殿下ご本人のご意思を尊重しておられる。

皇室と日赤のつながり

改めて言うまでもなく、皇后陛下は日本赤十字社の名誉総裁であられる。

さらに、多くの皇族方が名誉副総裁に就任しておられる。具体的には秋篠宮妃・紀子殿下をはじめ、常陸宮殿下、同妃・華子殿下、三笠宮妃・百合子殿下、寛仁親王妃・信子殿下、高円宮妃・久子殿下だ。すべての宮家の方々が、名誉副総裁というお立場で日赤に関わっておられることになる。

皇室と日赤のつながりはそれほど深い。

そのつながりの始まりは、日赤が設立された明治時代にまでさかのぼる。

明治時代における皇室と日赤とのつながりについては、次のような事実が知られている。

明治10年(1877年)、博愛・人道の精神を旗印とする赤十字社の活動に感銘を受けた佐野常民つねたみらは「博愛社」を設立し、当時、西南戦争で戦った政府側の兵たちと西郷隆盛側の兵たちの両方の傷病者に、救護を行った。

その6年後、明治天皇の皇后、昭憲皇太后から博愛社への寄付がなされるようになり、以後も継続された。

明治20年(1887年)には「日本赤十字社」と名称を改める。日赤は皇室の全面的な保護・支援を受けるようになる。

世界最古の国際人道基金

明治21年(1888年)8月の福島県磐梯山ばんだいさん噴火を契機として、昭憲皇太后の思召おぼしめしにより日赤は戦時のみならず平時の災害救護活動も行うようになった。

明治24年(1891年)、皇室から寄付された東京渋谷村の南豊島みなみとしま御料地に日赤中央病院が完成した。その建設資金の10万円も皇室から与えられていた。

翌年6月の開院式には昭憲皇太后の行啓ぎょうけいを仰いでいる。

明治45年(1912年)5月、アメリカのワシントンで開かれた赤十字国際会議に際して、平時の救護事業を奨励するため、昭憲皇太后から10万円が寄付された。現在の貨幣価値に換算すると、約3億5000万円にも達する。

昭憲皇太后から寄付された資金をもとに「昭憲皇太后基金」が創設され、毎年のご命日(4月11日)には今も基金の利息が世界各国の赤十字社へ配分されている。

これは世界最古の国際人道基金とされ、現在に至るまで、171の国と地域の災害対策、保健衛生、血液事業などに約23億円相当が役立てられているという。

日赤を選ばれたことの深い必然性

このように、日赤はその設立当初から皇室の大きな庇護の下に活動を続けてきている。

そのほか、三笠宮家のご長女・甯子やすこさまのご結婚相手だった近衛忠煇ただてる氏が日赤の名誉社長であったとか、寛仁親王家のご次女の瑤子女王殿下が日赤で嘱託ながら常勤で6年ほど勤務されていたような関わりもあった。

そうした経緯を振り返ると、「人を敬い、人からも敬われ、人を愛し、人からも愛される、そのように育ってほしい」(平成14年[2002年]のお誕生日に際しての今上陛下の記者会見)という両陛下の願いを背負ってこられた敬宮殿下が、「博愛」の理念を掲げ災害救護や医療・福祉などに取り組む、日赤での勤務という進路を選ばれたことは、深い必然性があったと言えるだろう。

災害ボランティアへの関心

そもそも、敬宮殿下は成年を迎えられた際の記者会見で以下のように述べておられた。

「国内外の関心事につきましては、近年自然災害が増え、また、その規模も徐々に大きくなってきていることを心配しています。そのような中で、ボランティアとして被災地で活躍されている方々の様子をテレビなどの報道で目にしまして、自分の住んでいる街であるとかないとか関係なく、人の役に立とうと懸命に活動されている姿に非常に感銘を受けました。……私自身、災害ボランティアなどのボランティアにも関心を持っております」と。

このようなご関心の在り方は、もちろん日赤の活動に真っ直ぐつながる。

両陛下と日赤を訪問

昨年の出来事を振り返ると、5月15日、天皇・皇后両陛下と敬宮殿下は、日赤の清家篤社長と鈴木俊彦副社長を御所に招かれ、全国赤十字大会およびこれまで1年間の活動状況について、説明を聴いておられた。

さらに同年10月2日には両陛下と敬宮殿下がおそろいで、わざわざ港区の日赤本社にまでお出ましになっている。その時は、殉職した救護員の慰霊碑に白いユリの花束を手向けられ、関東大震災100年を記念した企画展「温故備震おんこびしんふるきをたずね明日に備える」をご覧になっておられた。

敬宮殿下のお気持ちは早くから定まっておられた可能性がある。

「国民の中に入っていく皇室」

上皇陛下から天皇陛下が受け継いでおられる「象徴天皇」像の発展的な継承という観点からも、今回のご選択によって、人々により近い場所で、具体的に国民に寄り添われるご経験を持たれることは、とても望ましいことではないだろうか。

天皇陛下がまだ浩宮ひろのみや殿下と呼ばれていた頃に、次のようにおっしゃっていた。

「(目指すべきは)国民とともに歩む皇室、国民の中に入っていく皇室だと思います。そのためにはいろんな機会をとらえて、1人でも多くの人と接していくことが大切だと思います」(昭和61年[1986年]7月23日)

この度の敬宮殿下のご選択は、天皇陛下のこのようなお考えを深く受け継がれるものと言える。

「嘱託勤務」の意味

日赤での勤務が「嘱託」という形になっているのは、もちろん皇族としてのご公務を重視されているからにほかならない。

敬宮殿下の皇族としてのお心構えについては、先の記者会見でご自身のお考えを明確に示しておられた。

「一つ一つのお務めを大切にしながら、少しでも両陛下や他の皇族方のお力になれますよう、私のできる限り、精一杯務めさせていただきたいと考えております」

「皇室は、国民の幸福を常に願い、国民と苦楽を共にしながら務めを果たす、ということが基本であり、最も大切にすべき精神であると、私は認識しております」

皇族としてのご公務の一方で、他ならぬ日本赤十字社に嘱託として勤務されるという敬宮殿下のご選択は、「国民と苦楽を共にする」皇室の精神をより深く体現されるプロセスとして極めて貴重なものだろう。

小説のエンディングが示唆するもの

政治の場では、長年の懸案だった皇位継承問題が、中途半端なものにとどまりそうな気配が強いものの、近く一応の決着を迎える可能性が見えてきた。それによって皇室典範のこれまでのルールが改まり、内親王・女王殿下方が望まれるならば、ご結婚後も皇族の身分を引き続き保持されることになるはずだ。

それをもう一歩進めて、世界の普通の立憲君主国がどこも女性君主を認めているのと同じように、わが国でも「女性天皇」を可能にするところまで行き着くかどうか。今のところ残念ながらまだ不透明だ。

先に紹介した、中学1年生当時の敬宮殿下のファンタジー小説の締めくくりは、次のようになっていた。

「私は海の生き物たちの生きる活力となっていったのである。……今日も愛子はどんどんやって来る患者を精一杯看病し、沢山の勇気と希望を与えていることだろう」

じつに示唆的であり、将来の女性天皇の実現に向けて、何やら予言めいた一節ではあるまいか。