1月2日に予定されていた新年一般参賀は、前日に起きた能登半島地震の被害を考慮して中止された。神道学者で皇室研究家の高森明勅さんは「一般には知られていないが、正月の皇室では、新年一般参賀以外にも多くの重要な行事が行われる。それは、元日早朝の真っ暗闇で極寒の中、屋外で行われる」という――。
皇居前広場から正門を通り宮殿までの濠にかかる二重橋
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皇室が行う多くの正月行事

正月は皇室の大切な行事がめじろ押しだ。それらはそれぞれ皇室の役割、立場を映し出している。

おもな行事は、3種類に分けることができる。「皇室祭祀さいし」と「国事行為」、それから「象徴としての公的行為」だ。

まず皇室祭祀では元日の「四方拝しほうはい歳旦祭さいたんさい」。これに続くのが国事行為の「新年祝賀の儀」。さらに例年2日に行われてきた「新年一般参賀」は象徴としての公的行為にあたる。ただし新年一般参賀は今年、コロナ禍後に初めて通常の形で行われる予定だったが、能登半島地震の被害への配慮から取りやめになった。

これらのうち、四方拝・歳旦祭は、神話に由来する皇室の祖先神・天照大神以来の皇統の正当な「世襲」継承者というお立場で行われる、1年で最初の祭祀だ。内閣の助言と承認による国事行為や、同じく内閣が大きく責任を負う公的行為ではなく、おもに皇室の伝統と天皇陛下ご自身のお気持ちによって行われる。

新年祝賀の儀は憲法に定める多くの国事行為(13種類)のうち、恒例の「儀式」としては“唯一”の行事だ。それだけ重い意味を持つ。

のちに詳しく述べるように、じつは天皇が憲法上、国家の統治の仕組みにおいて“頂点”=「日本国の象徴」という立場に位置づけられていることを「見える化」する行事なのだが、その事実が一般にはほとんど気づかれていないのではないだろうか。

新年一般参賀は戦後に新しく始まった行事だ。その起こりやこれまでの変遷などについては以前、この連載で簡単に紹介したことがある(令和4年[2022年]12月23日公開)。

新年祝賀の儀が“上下の序列”=タテ軸による行事なのに対して、こちらは「国民平等」の理念を踏まえてヨコ軸を基調とする。まさに「国民統合の象徴」という立場にふさわしい行事だろう。

それぞれについて、もう少し踏み込んで見てみよう。

極寒の中で行われる四方拝

まず、四方拝・歳旦祭について。

この行事の由来は古く平安時代にさかのぼる。嵯峨天皇または宇多天皇の頃(9世紀)に始まったと見られているので、千年以上の歳月を経た行事ということになる。もちろん、その間にはさまざまな変遷もあった。

1月1日、午前4時ごろから準備が始まる。まだ真っ暗闇で、真冬なので寒さも厳しい。

皇居の中で最も神聖な空間とされる宮中三殿。中央に天照大神をまつ賢所かしこどころ、向かってその左側に皇室の代々の祖先の御霊を祀る皇霊殿こうれいでん、右側に日本国内の八百万やおよろずの神々を祀る神殿という3つの殿舎が建てられている。

その三殿と同じ区画のさらに左側に神嘉殿しんかでんという、天皇陛下にとって最も大切な祭祀である新嘗祭にいなめさいを行う建物がある。その神嘉殿の前庭が四方拝を行う場所になっている。寒い盛りの行事なのに、殿内ではなく、吹き抜けの簡素な仮屋で行われる。

天皇陛下におかれては準備が始まる頃には起き出され、かかり湯で身を清められて、モーニングコートで御所を出発される。

天皇だけがかぶることができる冠

お車で宮中三殿を含む区画に到着されると、黄櫨染御袍こうろぜんのごほうという天皇しかお召しになれない特別な装束に着替えられる。冠も後ろのえいと呼ばれる飾りがピンと真っ直ぐに立った立纓りゅうえいで、これも天皇だけかぶることができる。一般の冠は纓が垂れている垂纓すいえいだ。

ちなみに3月3日のひな祭りに飾る内裏びなは、天皇がモデルなので冠が立纓になっている。

定刻の近くになると、お手水の後、仮屋の中に向かい合わせに立てられている二双の屏風びょうぶの中に入られる。そこには拝座となる厚畳あつじょうが置かれている。

屏風は天照大神を祀る伊勢神宮の方向に当たる南西の方角だけ開けた形で立てられる。午前5時半から四方拝が始まる。まず伊勢神宮、それから東、南、西、北という順番で、それぞれの方角の神々に対して「両段再拝りょうだんさいはい」という特別な作法で拝礼をされる。

最も丁重な拝礼「起拝」

その作法は身体全体を使う「起拝きはい」という最も丁重で、身体的な負担も大きい拝礼を繰り返す。起拝は、正座の姿勢からしゃく(古式の装束を身に着ける時に右手に持つ細長い板)を持たれたまま右足から立ち上がり、両足をそろえ、身体の前で笏に両手を添えて姿勢を正し、そのまま笏頭しゃくとう(笏の上側の先端)をいったん目の高さまで上げ、それを下げながら腰を折り、上体を前に傾け左足をりつつ後ろに引き、膝を畳につけ、両膝をそろえてそのままうつ伏せられる。そこから再び正座にもどり、同じ拝礼を2回繰り返し、正座にもどった姿勢で頭を深く下げて(深揖しんゆう)祈りを込められる。その後、さらに2回起拝を繰り返される。前段と後段に、深揖をはさんでそれぞれ再拝(2回の起拝)をされるので、両段再拝と呼ばれる。

一般の神社の神職の作法は、立った姿勢で行う立礼りゅうれいか、座った姿勢で行う座礼ざれいで、二礼二拍手一礼が普通だ。それらに比べて、天皇陛下の作法がはるかに恭しく丁重であることが分かる。これは四方拝だけでなく、他の三殿内での祭祀でも同じように行われる。足腰への負担はかなり大きいはずだ。天皇陛下の新年は、このような極寒の中での伊勢神宮および四方の神々への遙拝ようはい(離れた場所からの拝礼)から始まる。

平安時代から続く「御鈴の儀」

四方拝に続いて行われるのが三殿での歳旦祭。

年始の祭典である歳旦祭は「小祭しょうさい」という位置づけなので、天皇陛下のほかは現在「皇嗣」というお立場にある秋篠宮殿下だけしか参列されない。

天皇陛下がまず賢所の内陣ないじんに進まれて、御玉串をお持ちになり、両段再拝のご作法にて拝礼をされる。その後、「御鈴の儀」。

神体しんたいを納める内々陣ないないじんに控える祭祀の女性奉仕者・内掌典ないしょうてんが多数の鈴につながる太綱を引いて合計91回、鈴を鳴らす。涼やかな音色が神の声のように響くという。時間として10分ほど鳴り続け、その間、天皇陛下はひれ伏された姿勢のまま。

祭祀中でも最も神秘な時間だ。

この御鈴の儀があるのは三殿でも賢所だけ。御鈴の儀については、平安時代の大江匡房おおえのまさふさの『江家次第ごうけしだい』や鎌倉時代の兼好法師の『徒然草』にも書かれていて、由緒の古さを知ることができる。

天皇陛下が賢所、皇霊殿、神殿の順番で拝礼を済まされた後、秋篠宮殿下がご拝礼。秋篠宮殿下は、黄丹袍おうにのほうという本来は皇太子がお召しになる装束で、祭祀に臨んでおられる。ただし「御鈴の儀」はない。

天皇陛下が無言のうちに身にまとっておられる“オーラ”は、心を澄まして人間を超えた何ものかに向き合う厳粛な体験を、いくども繰り返しておられる事実によるところが少なくないだろう。

ティアラを着けた愛子さまも

歳旦祭の後に行われるのが新年祝賀の儀だ。

これは古代の「朝賀ちょうが」に由来する国家にとって最高のハレの年間行事といえる。

朝賀は元日に天皇が朝廷の正殿にお出ましになり、文武百官から祝賀を受ける行事だった。

大化2年(646年)に行われたことが『日本書紀』に見えているのが文献上、初めての例とされる。

新年祝賀の儀は皇居・宮殿において午前10時から行われる。この時、天皇陛下は燕尾服に「大勲位菊花章頸飾だいくんいきっかしょうけいしょく」という最高位の首飾り型の勲章を身につけておられる。

ロングドレス姿の女性皇族方は、これまでコロナ禍に配慮してティアラの着用を控えてこられたが、今年は4年ぶりに着用された。

コロナ禍のさなかに成年を迎えられた天皇・皇后両陛下のご長女、敬宮としのみや(愛子内親王)殿下が正月行事でティアラを着けられたのは今年が初めて。

ただお一人だけ、ご自分用のものではなく、叔母にあたる黒田清子さやこ様からお借りしたティアラだ。しかし、これまで新調を控えてこられた奥ゆかしいお心遣いを思うと、借り物のティアラがより輝いて見えた国民も少なくなかったのではないだろうか。

この儀式では、天皇・皇后両陛下がまず正殿「松の間」で成年の皇族方から祝賀をお受けになる。

「新年祝賀の儀」でティアラを着用された天皇、皇后両陛下の長女愛子さま(左端)。女性皇族方は4年ぶりにティアラを着用した。2024年1月1日午前、皇居・宮殿「松の間」[代表撮影]
写真=時事通信フォト
「新年祝賀の儀」でティアラを着用された天皇、皇后両陛下の長女愛子さま(左端)。女性皇族方は4年ぶりにティアラを着用した。2024年1月1日午前、皇居・宮殿「松の間」[代表撮影]

三権の長から祝賀

次に「梅の間」で首相や閣僚など政府の中枢メンバーから祝賀を受けられる。それから再び「松の間」にもどられ、衆参両院の正副議長、国会議員など国会関係者から祝賀を受けられる。ついで「竹の間」において最高裁の長官や判事など司法関係者から祝賀を受けられる。その後、またもや「松の間」で人事院人事官、公正取引委員長などの認証官や都道府県知事・同議長(毎年交代で一部が指定を受ける)などからも、祝賀を受けられる。

これらはおもに憲法上、「天皇」という地位が立法・行政・司法という国家の統治にあたる三権を担う機関より“上位”にあることを、目に見える形で毎年、確認する行事といえる。

憲法の規定では、立法をつかさどり国権の最高機関とされる国会を「召集」されるのは天皇であり、行政の長である首相と司法の長である最高裁長官を「任命」されるのも天皇だ。

日本国の象徴を「見える化」する儀式

以上が午前の行事。

午後2時半からは民族衣装などで正装した128の国や地域の駐日大使らから祝賀を受けられた。こちらは、天皇という地位が国際社会に向けて、形式上、わが国を代表する立場にあることを同じく可視化する行事といえる。

国内の公式な序列においてに三権の長より上位にあり、他国に対してわが国を儀礼的に代表するというのは、普通には元首の役割であり、憲法の規定では「日本国の象徴」にあたる。

毎年行われている新年祝賀の儀は、天皇という地位が統治の仕組みの頂点に位置づけられ、「日本国の象徴」という重大な役割を負っている事実を、儀式として「見える化」する意味を持っている。

誰もが参加できる一般参賀

では、1月2日の新年一般参賀はどうか。

新年祝賀の儀の場合は参列者が三権の関係者などに厳しく制限されているのとは対照的に、誰でも自由に参加できる開放性が特徴だ。しかも、参賀者は皆、同じように扱われ、特定の人たちが社会的地位などを理由に特別な待遇を受けることがない。

参賀者は皇居正門から入って鉄橋てつばし(いわゆる二重橋)をわたり、宮殿の東庭とうていで「長和殿ちょうわでん」のベランダに天皇・皇后両陛下をはじめ皇室の方々がお出ましになるのを待つ。皇室の方々がお出ましになると、人々は手に持った日の丸の小旗を振ったり、万歳を唱えたりして祝賀の気持ちを表す。

その後、天皇陛下から新年を祝う「おことば」がある。

皇室の方々が奥におもどりになると参賀者も退出する――という流れだ。

前日の新年祝賀の儀が、タテ軸における国家の公的秩序の頂点=「日本国の象徴」としての天皇の立場、役割を示しているのに対して、この日の新年一般参賀は「国民統合の象徴」という立場、役割に基づいて誰も排除されず、人々のゆるやかな連帯感と平等性を表示するヨコ軸の行事といえるだろう。

能登半島地震被害で中止に

令和2年(2020年)に令和になって初めての新年一般参賀が行われた。この時の参賀者の数は6万8710人だった。

しかしそれ以降、コロナ禍によって天皇誕生日の一般参賀も含め、しばらく実施が見合わせられてきた。昨年は実施されたものの、感染対策のために参賀者を絞る必要から抽選を行った。

今年からやっと普通の姿にもどるはずだった。

しかしすでに述べた通り、前日に能登半島地震が起き、深刻な被害を生じた。そのため、急に取りやめとなった。

天皇陛下は毎年、阪神淡路大震災が起こった「1月17日」と東日本大震災が起こった「3月11日」に、皇后陛下、敬宮殿下とご一緒に黙祷を捧げておられる。3月11日はまだ皇太子でいらした震災の翌年の平成24年(2012年)から、1月17日は即位後の令和2年(2020年)以来、黙祷を続けておられる。

震災によって亡くなられた人々を悼み、多くを失った人々の悲しみに寄り添おうとされている。そのような天皇陛下のお気持ちを拝察すると、今回の参賀中止は自然な決定だろう。

来る2月23日の「天皇誕生日」には一般参賀が晴れやかに行われることを祈る。