女優としての笠置シヅ子はエノケンとの出会いから始まった
『ブギウギ』1月15日からの第16週では、小夜(富田望生)が付き人を辞めると言って姿を消し、愛助(水上恒司)は大学を卒業。スズ子(趣里)はマネージャーの山下(近藤芳正)から、喜劇王・タナケンこと棚橋健二(生瀬勝久)が演出・主演する舞台に出てみないかと提案される。
タナケンがスズ子に会いたいと言っているという話を、最初は「芝居の経験はないから」と断ったスズ子だが、山下の説得により会うことになる。「女優・福来スズ子」の始まりだ。
タナケンのモデルとなったのはご存じ、喜劇王・エノケンこと榎本健一。スズ子のモデル・笠置シヅ子のサクセスストーリーには2人のメンターがいたことが知られているが、1人は羽鳥善一(草彅剛)のモデルである作曲家の服部良一で、もう1人がエノケンだった。
とはいえ、エンタメの世界の闇が続々と噴出している昨今、「男性のメンター」と書くと、妙な勘繰りをする人もいるだろう。では、2人と笠置の関係性、その評価や人物像はどうだったのか。
あくまで師匠、先輩として笠置を導いた2人のメンター
笠置シヅ子の伝記『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)に掲載された榎本健一、服部良一両氏の寄稿を見てみよう。
まず服部は冒頭でこう表現している。
また、「一皮むくと、からッきしだらしのない古風な女」「本来、涙ぐましい女」「自意識過剰の歌手」「義理堅くて古くさい」「歌に対する執念、恋人に対する執念、友人に対する執念、そして近ごろはわが子に対する執念――思い詰めるとトコトンまで行かないと承知しない」と言い、『東京ブギウギ』を「現代の浪花節」と分析している。
そこでも「歌そのものからいえば、もっとうまい人がいくらでもいる」と記していたように、服部が笠置を買っていた最大の理由は歌唱力自体よりも、むしろ唯一無二の面白さや人情深さ、人間味の部分であり、それが大衆の心をつかむと考えていたことがわかる。
一方、ドラマでは無口で何も言わず、スズ子が「(私の芝居は)どうでっか」と聞いても、スズ子の顔を見て「どうだろうね」と真顔で言うばかり、響いている様子がなかなか見えないタナケンだが、エノケンの笠置評はどうだったのか。
笠置がなついてくるから「照れてしまう」と書いたエノケン
笠置の自伝に寄せた「生一本の熱燗」というタイトルの文では「生一本」という言葉を連発、「舞台と楽屋の裏表がない」とほめ、こう記している。
「今まで私がつき合った女優さんや歌手の多くは、女優らしさという、ある気どりを持って舞台へ立つので、どうも嘘の姿になって、こっちとしっくり合わない。ところが笠置君はそうではない。生一本でぶつかってくる。だから私も生一本で取り組むことが出来る」
「私にとっていちばんつき合いよい女優さんといえば、日本中で彼女をおいて他にない」
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』1948年、北斗出版社)
また、「謙譲で苦労人肌」「義理堅くて几帳面」「気のよくまわる女性」とし、「歳末の忙しいさなかにミカンの箱を抱えてお歳暮廻りをしていた」エピソードまで紹介しているように、服部と同じく笠置の人間性を好み、大いに評価していたことがわかる。
「『榎本先生、榎本先生』といって、大いになついてくれているが、先生なんていうスタアは笠置君ひとりだ。こっちの方で照れてしまう」(寄稿より)という一節からわかるように、二人は名コンビであり、役者としては師匠と弟子、そして互いに尊敬しあっていた仲だった。
苦労人の喜劇王・榎本健一の生い立ちとは…
エノケンが生まれたのは、明治37年(1904)。大正3年(1914)生まれの笠置より10歳上で、ギョロッとした大きな目、ガラガラ声を特徴とし、古川ロッパと並ぶ昭和を代表する喜劇役者として知られる。
自伝『喜劇こそわが命』(日本図書センター)によると、小学校を卒業後、父が入学手続きした中学には一度も通わず、家業の煎餅屋を手伝うなどしていたが、尾上松之助の活動写真にあこがれ、弟子入り志願で大阪へ。しかし、そこで尾上松之助には居留守を使われ、弟子入り失敗。東京に戻ると親に勘当されるが、父の死後には一時家業の煎餅屋を継ぐ。
それでも俳優になりたいという思いから、オペラの根岸歌劇団幹部・柳田貞一に弟子入り。当初はコーラス部員を務めていたが、大正12年(1923)、柳田作曲による「猿蟹合戦」の子猿役で評判となったのが、喜劇役者としての第一歩だった。
しかし、同年の関東大震災で浅草の興行街は全滅。オペラブームが終わった後に、サイレント映画俳優となる。さらに軽演劇集団カジノフォーリーに所属、歌と踊りを駆使した部隊が人気を博し、昭和18年(1943)にエノケン一座を設立。一躍、人気喜劇俳優の道を歩んで行く。
戦後すぐ、笠置はエノケン一座の公演に特別出演した
そんなエノケンと笠置が初共演を果たしたのは、昭和21年(1946)。エノケン一座に笠置が特別出演した菊田一夫作『舞台は廻る』で、音楽を提供しているのが服部だった。『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(輪島裕介、NHK出版新書)によると、これはフリッツ・ラング監督の映画で知られる戯曲を翻訳した『エノケンのリリオム』との2部構成で、そこで笠置が歌うために服部が作詞作曲したのが「コペカチータ」で、レコード発売された際のB面が「セコハン娘」だったとある。
この舞台をはじめ、2人の共演については、実は笠置の自伝にもエノケンの自伝にも記述がない。しかし、2人のニアミスにも近い接点は、共演を果たす前にもあったようだ。
笠置の自伝によると、前年の東京大空襲で家が戦災したとき、笠置の父親が郷里の四国に帰るまで、焼け残った新東宝プロデューサーの自宅に身を寄せた際、一緒にいた仲間にエノケン劇団文芸部の藤田潤一などの家族がいたという記述があるのだ。
笠置とエノケンは名コンビとなり激動の時代を共に
その翌年に初共演した後は、映画『歌うエノケン捕物帳』(1948年)や『エノケン・笠置のお染久松』『エノケン・笠置の極楽夫婦』(1949年)で次々に共演、デュエット曲『ハリウッドブギ』(1949年)を歌ったり、エノケンが設立した日本喜劇人協会(1955年)に参加したりもした。
女優・笠置シヅ子と喜劇王・エノケンの共演は一見華やかだが、実は2人の人生においては激動の時期でもあった。
笠置とエノケンが初共演した1946年、愛助のモデル・吉本エイスケが帰阪し、笠置の妊娠が発覚。その後、エイスケの死、出産という「人生哀歓の極致」(笠置の自伝より)をわずか10日で体験することとなる。
一方、エノケン劇団はインフレのあおりを受け、1952年に解散。劇団員たちの退職金を捻出するため、地方巡業を始めるが、エノケンの足の病気がその頃から発症。自伝にはこんな痛々しくも責任感の強さを感じさせる記述が見られる。
「この時の興行は、劇場ではなく、広島、山口方面の大きな製鉄会社の、工場の従業員とその家族に観せるものだった。これで座員一同の退職金手当を出すことができるので、多少体の具合が悪くても、どうしても出かけなければならない」
「ところが、直った(本文ママ)と思っていた右足が、汽車の中で猛烈に痛み出した。油汗(本文ママ)を流しながら我慢して、やっと最初の目的地広島に着いたが、もうどうにも歩くことができない。だが、今回の巡業は、普通の興行ではない。座員の退職金を捻出しなければならないのと、すでに工場では、従業員とその家族が朝から詰めかけていて、僕のことを待っていてくれる。動けない、などとはいっていられない」
(榎本健一『喜劇こそわが命』日本図書センター)
激しい足の痛みに耐えながら解散公演を行ったエノケン
しかし、次の岩国の興行では靴も履けず、意識を失いかける状態で、やむなく中止に。この病気は「特発性脱疽」と診断され、入院治療しても激痛が治まらず、足の切断を勧められ、絶望して自殺を試みたことも自伝で生々しく綴られている。
病状は、右足のつま先の腐った部分を切断することでいったん収まり、義足を工夫して駆け出すまでになるが、その頃、最愛の息子を亡くし、さらに再発した足の病気で右足を切断。しかも、療養中に滞納した税金を払うため、「関係方面に迷惑をかけては」と考え、自宅も処分する。
日本中の人々を笑わせ、笠置を喜劇女優の道に導いた喜劇王は、大病に苦しみながらも責任を全うしようとする、律儀で真面目で義理人情の人だった。自伝の最後の項が「礼儀を守ろう」で締められているのも、そんな人柄を象徴している。
笠置の自伝への寄稿では、そんな自身と重ね合わせていたのではないかと想像される、こんな文章が綴られている。
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』1948年、北斗出版社)