「笑いの王」に放たれた文春砲
昨年のM-1グランプリが新たなチャンピオンを生み出すのを全国が見届けた、ほんの2日後の12月26日。文春オンラインはM-1の審査委員長席に座っていたダウンタウン・松本人志氏の8年前の性的ハラスメントを告発する、週刊文春の発売前先見せ記事を公開した。
90年代以来、日本の一大お笑いブームを牽引し続けたレジェンド芸人であり、多くの芸人やお笑いファンから崇敬の念を一身に集める松本氏は、いまや誰もが疑いなく認める「笑いの王」だ。次の年のお笑いスターを決めるのは松本氏の表情や言葉次第。ダウンタウンに憧れて芸人を目指した若者たちがプロ芸人になり、「松本さん」の承認のかけらを拾うことで生き延びてきた。
松本人志、彼が現代のお笑いの正義でありルールだった。
現代のお笑いを左右する舵を手中に握ってきた松本氏に向かって放たれた文春砲に、私は虚をつかれた思いだった。昨年末にこの連載コラム原稿にも書いていた通り「さて来年は、私たちが『そういうものだ』と信じきっているものの中から、何が壊れるのだろう」、そのままの心境でいた矢先。
そうか、時代は、次はそこに引導を渡すのか。まさに私も「そういうものだ」と大きな疑問を持たずにいた芸人の遊び方が、価値観を塗り替える時代の俎上に載せられたのだ。
それはきわどいのではなく“アウト”だった
ライブに通って「出待ち」をするなど、積極的に芸人と近づこうとするお笑いファンの女性たちの中では、芸人たちが頻繁に素人ファンと行う合コンや、SNSのDMを使ってフォロワーのファンを誘い出す手法などは経験的常識。先輩芸人の飲み会のために後輩芸人が女性を集めて呼ぶ、そういった遊び方の中で生まれる大小のきわどい話が、さまざまな芸人のエピソードトークにも顔を出し、お笑いの世界では(一部の、しかし主流の)芸人の遊びとはそういう派手できわどいものとの認識があった。
だが、そこで行われていたことの解像度をグッと上げた文春記事を読んで、それはきわどいのではなく“アウト”であったことを悟った。
もう、笑えない
その後、私はどうしたことか突然に襲ってきた心理状態、全ての年末年始お笑い特番に興味を失い拒否するという「笑い鬱」の中で新年を迎え、自分でも戸惑うばかりだった。
ライブに行き、劇場に通い、劇場の楽屋で芸人さんをインタビューして記事にすることもあった、これだけお笑いの好きな私が。彼らが綿密に練り上げ磨き上げたネタで操る、計算され尽くした言葉に芸術性を感じてメモに書き留め、大学のライティング授業で「お笑いは精密な言葉のアートだから積極的に見て学ぶべし」と一席ぶつ私が。コメンテーターのくせに地上波テレビでニュースはほぼ見ず、最優先でお笑い番組を見る私が。
年末年始は例年通り、視聴率と笑いの質を確実に保証する笑いの偶像と崇められた松本人志氏がMCを務める、多くのお笑い特番が用意されていた。だが文春の記事に対し、松本氏の所属事務所である吉本興業が「当該事実は一切なく」としたコメントは、私の目には収録済みの全正月特番を支障なく放送し、損害を生まないための時間稼ぎのように映った。
お笑いファンとして、あの話題を保留にしたまま、それに与するのは違う気がした。
見るに耐えなかった。家族がつけたテレビから漏れてくる華やかな出囃子や強く張った声で畳み掛けるボケとツッコミ、客席でドカンと弾ける笑い声、MCたちの軽妙なイジり。みんな、何を無邪気に笑っているんだろう。いったい何が面白いんだろう。お笑い番組が聞こえてくると、ヘッドホンをして海外映画に見入ったり、別の部屋へ移って本を読んだ。彼らの笑いが、笑えなくなっていた。
「とうとう出たね。。。」
そして1月5日、文春記事中で事実を否定した以外は公的に沈黙を守っていた松本氏が、週刊女性PRIMEのネット記事を紹介する形で「とうとう出たね。。。」とXを更新。
文春側告発者であるA子さんが「性加害があった」とする合コン後に松本氏の後輩芸人へ送ったとされるLINEメッセージの画面を報じた記事で、その流出画面にはA子さんの「幻みたいに稀少な会をありがとうございました。会えて嬉しかったです」「松本さんも本当に本当に素敵で」「最後までとても優しくて」とするお礼メッセージがあった。
「とうとう出たね。。。」という投稿に松本氏が込めた文意は、松本氏を擁護する人々にもそうでない人々にも、「A子さんの告発は事実ではなく、合コンに喜んで参加していた。このLINE画面がその証拠である」と読まれた。そしてさまざまな反応を呼んだ。
繰り返される告発女性への中傷
SNSでは、松本氏を支持する強固なファン層、特に男性からは「松ちゃん、とんでもない女に引っかかってかわいそう」「合コンではノリノリで奢られといて、あとで性加害と告発。女が卑怯」などとA子さんを中傷する言葉が躍った。文春で報じられたような合コン開催の存在自体を既婚者である松本氏が言外に認めていることに対しても、擁護の声は決して弱くはなかった。
「だって松本さんだから仕方ない」
「天才は何したっていい」
「英雄色を好むというじゃないか」
「むしろありがたいと思え」
だが、A子さんたち告発者に対するそれらの中傷こそが、ハラスメントや性加害事件が明るみに出るたびに日本社会がひと通り繰り返すサイクルの典型だ。
被害者が事後にへりくだったお礼メッセージを送る、そこに現れた二者の力学差がすでに被害加害関係のフラグであると、なぜわからない。
性加害はいじめと同じ力学差を利用した構造である。告発者が何を「嫌だった」と訴えているのか、なぜそれが「ハラスメント」なのか、何が問題なのか、本質が見えていない。
声を上げた側を「何か裏があるんだろう」と疑い、「そんなところに行くのが愚か」「わかってて行ったはず」と断罪し、被害者の側に非がある、自業自得だと結論して退けようとする。
同じことが、ジャーナリスト伊藤詩織さんの性被害裁判の時も、元少年たちが告発したジャニー喜多川氏の性加害報道の時にも繰り返されていた。前ジャニーズ事務所の一連の報道の間には、証言者の1人であった元少年がSNSでの誹謗中傷を苦に命を絶った。
無責任なつぶやきを垂れ流す傍観者たちによるセカンドレイプ。いったい何度同じことを繰り返せば、日本社会は学習するのだろう。
そこに存在していた力関係
「女性がその場はノリノリでも、あとで手のひら返して『嫌だった』と言えば男性側は終わり」「もう合コンなんかできない」「そんなことじゃもうこの日本で恋愛なんかできやしない」という、わりと典型的な男性意見がある。
そもそもの定義として合コンイコール性加害ではないし、本当は嫌だったと言われる可能性のあるきわどい合コンなどしてしまう時点で、この時代にはだいぶリスキーな行動パターンだとも感じるが、それはさておき「女性がその場はノリノリでも、あとで手のひらを返す」と映っていること、それが女性側との大きな認識の齟齬なのだ。
例えば有名人との豪華な合コン。もちろんノリノリの女性も間違いなくいるだろう。なんら後悔などなく「楽しかったーあ! 有名人とあんなことしちゃったー!」と言いふらす人だっているだろう。
けれど人によっては「自分は全くそう望んでいないけれどその場はノリノリになってみせざるを得ない力学差、力関係」が、これまでの時代の男女間、男女関係には大いにあったのではないか、ということを、男女ともに一度見直してみていいタイミングなのではないだろうか。
それは“恋愛”だったのか
「そんな世の中じゃもう恋愛なんかできない」と言う向きには、「ではそもそも、今まで通りを許される価値観でなければ“恋愛”ができないとこぼすあなたは、これまで本当にお互いフェアな地平に立つ“恋愛”をしてこられたのでしょうか」と聞いてみたい。男性のゲームの中に女性を「賞品」のように招き入れて、男同士で戦利品を自慢し合うような、内輪受けの争奪ゲームを繰り広げてはいなかったですか、と。
ルールはその場を設けた男性側のもの。奢る、仕掛けを張るなど力学差を利用し、女性側が断れない図式にして、合意も不合意も曖昧なままセックスへ追いこむ。それの何が「恋愛」なのだ?
あの告発は、男性のゲームで賞品にされた女性たちが理不尽をのみ込もうと葛藤する8年を経て、今ようやく「ずっと自分がバカだった、自分が悪かったんだと思うようにしてきたけれど、そうじゃないですよね」と整理のついた言葉なのだろう、私はそう感じた。
「お礼LINE」が表すものは何か
「性加害はいじめと同じ力学差を利用した構造である」と、先述した。
A子さんのものとされるLINEのお礼メッセージを見た有識者たちは、一斉にあのメッセージが被害者ならではの自己防衛による迎合である可能性を看破した。相手の感情を害さないよう、自分に言い聞かせるように、もしかしたら震える手で、「ありがとうございました」「あんなにいい思いをさせていただいたのに、理解できない私が失礼なことをして申し訳ありませんでした」「反省しています」「今後ともどうぞよろしくお願いいたします」と携帯に礼儀正しく打ち込む、それは傷を受けた側が自分を必死に守り平常を取り戻そうとする行動である。
その心理を理解する男性が、ふと言った。「いじめられっ子がボコボコにされたあと、いじめた側に一瞬『へへっ』と見せるへつらい笑いと同じものですよね。やっと終わった、もうしないでね、と、その場をしのぐために見せる、そういう笑いってありますよね。だからって『お前も楽しんでいただろ、だからいじめじゃない』って話じゃないですよね」
「笑いの王」に感じた失望
A子さんの「お礼メッセージ」を見せて、「だから俺は悪くない。嘘をついているのはあっちだ」と言わんがばかりの笑いの王の姿に、私は打ちのめされるような失望を感じたのだ。誰よりも人間の心の機微に敏感で、言葉を操ることに長けていてほしかった笑いの王の、そんな姿に。
このコラムでは香川照之氏のセクハラが問題となった時にも書いたことだが、ハラスメントの本質はいじめである。パワハラでもセクハラでもモラハラでも、力(権力)の傾斜があるところにハラスメントは生まれる。ハラスメントが常態化している業界は、本質的にいじめ体質なのである。
そこに疑問のない業界、疑問を持たない人たちから生まれたような「表現」「笑い」を私はもう無邪気に笑うことができない、と気づいてしまったのだ。
松本人志氏が活動休止を表明したことを受けて、まさにここに書いたような内容を発言した1月9日(火)のABEMAPrime放送後、私のもとにはさまざまな連絡が絶え間なくやってくる。ネットではコメントも賛否両論かまびすしい。
「私も、芸人さんとの合コンで嫌な思いをしたけれど人に言えず、あれは自分のせいだったんだと自分自身を責めて気持ち悪さを飲み込もうとしてきました」と過去の体験を告白してくれる女性たちから連絡がくる。その一方で、「松本人志は天才だ。遊びは芸の肥やしだ。調子よく奢ってもらいながら8年前のことを今さら蒸し返すような女が言う『性加害』なんて信用できるわけもないのに、お前のように笑いもわからない素人女が松本を非難するなんておこがましい、不愉快だ」という男性からのコメントもやってくる。
「松本人志という権力」が、裁判に専念するため活動休止するという。あれだけ好きだったお笑い。だがもう無邪気には笑えないと気づいてしまった今、「もうそういうお笑いは見なくてもいいかな」、そう思ってしまっている自分がいる。