笠置シヅ子と恋人のエイスケは6人で共同生活を送っていた
朝ドラことNHK連続テレビ小説「ブギウギ」の舞台は戦後に入り、第15週では終戦間もない混乱期の生活が描かれた。
笠置シヅ子をモデルにした主人公・スズ子(趣里)は、巡業先の富山で玉音放送を聞く。そのとき、淡谷のり子がモデルの茨田りつ子(菊地凛子)は慰問先の鹿児島で敗戦を知り、作曲家の服部良一に当たる羽鳥善一(草彅剛)は中国の上海で日本に戻れるかわからない不安にさいなまれていた。
その後、終戦から3カ月が経過した日本では、混乱状態が続いており、スズ子たちは戦中と変わらず公演ができないでいたが、結核の症状が落ち着いてきたスズ子の恋人・愛助(水上恒司)は大学に復学。食糧を闇市で調達し、スズ子の付き人である小夜(富田望生)が米兵に片言の英語で「ギブミーチョコレート」とねだるという、昔からさんざん“こすられてきた”戦後描写も盛り込まれた。
「チョコレートなんて久しぶりやわ」とスズ子は言う。おそらく愛助との恋愛に夢中のスズ子の頭には、かつて一方的に思いを寄せたフランス帰りの演出家・松永(新納慎也)から口中に放り込まれる「チョコレート、あーん」の甘い思い出などよみがえってくることはないのだろう。
常に他人がいて「二人だけで落ちつくなんてことは到底望めず」
ところで、ドラマではスズ子の献身的な看病に心を動かされたエイスケの母の部下・坂口(黒田有)の計らいにより、東京郊外である三鷹の一軒家を借りていたスズ子らだが、自伝『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年発行、北斗出版社)によると、実際には荻窪のフランス人の留守宅に住んでいたという。
また、ドラマではラブラブの二人におじゃま虫的に小夜が割り込んでいるシーンが多いが、小夜は同居せず近くに下宿している設定のため、恋人同士の時間は確保されていると思われる。しかし、実際には二人だけの時間は全くなかったらしい。
自伝によると、多くの人が空襲で家を失っていた終戦直後、笠置は坂口のモデルとなった吉本興業の林弘高常務の親戚らと5人で8畳の茶室で寝起きし、恋人である吉本興業の御曹司エイスケ(愛助のモデル)は2階の洋室に住むという奇妙な同居生活を送っていたとある。当時の心境について、笠置は自伝でこう記している。
笠置の自伝によると、エイスケは遊び慣れたボンボンだったか
また、自伝を読むと、笠置とエイスケの人物像や恋愛関係も少々違った印象に映る。
例えば、この奇妙な同居生活について、笠置は「でも衆人環視の中で愛情の火花を散らすのも、焦れッたい反面、また刺戟的なものでした。私たちは絶えず眼で物を言い合いました」と惚気ているのだ。
ドラマの第11週では、スズ子と小夜が都心にあった愛助の部屋を訪れ、強引に掃除する場面があった。ここでは、スズ子関連の資料など“オタグッズ”が部屋に散乱する愛助のオタクぶりと、「男の趣味を理解しない女」「出会ったばかりの男の部屋を掃除する女」が描かれ、一部視聴者から批判の声もあがっていた。
しかし、自伝では、こんな記述がある。
世間にも吉本興業の人間にも交際を秘密にしていた
スズ子が潔癖症できれい好きという印象はドラマではあまり感じられないうえ、二人の関係も「世話焼きの姉さん女房×年下オタク」の構図に見える。しかし、エイスケという人物はなかなかどうして世慣れた人物であったようだ。
ドラマでは坂口が二人の仲を知りつつ応援しているが、史実では二人の交際は秘密になっていた。エイスケの実姉も東京に住んでいたが、その姉にも隠し通していたようだ。しかし、さすがに林常務にはバレてきたことから、「正式に話を持ち出すまでは控え目にした方がよいと思ったから」という理由で、終戦の翌年、1946年1月に西荻窪の服部良一邸に笠置だけが引っ越しをする。これで、荻窪での同居生活も終わりを告げる。
しかし、笠置は服部やその妻ががスター歌手だからと細やかな気遣いをしてくれるのに、かえって気が引けてしまい、そこから、洗足池のほとりにある知り合いの婦人宅の2階に引っ越しをする。エイスケはたびたび遊びに来ていたようだが、一緒に電車に乗っている姿を新聞や雑誌の記者に見つけられたときには、余裕の対応をしていたらしい。
いつ誰に見られるかわからない状況で9歳差の恋に燃えた
ドラマの中の純粋でオタクで真っすぐな愛助とは違い、エイスケは遊び慣れたお坊ちゃんという印象だ。しかし、笠置もまた、こうした秘密の恋に夢中だったようで、自伝では戦中の思い出としてこう記している。
さて、二人の恋が盛り上がる中、ドラマの中でも終戦後、娯楽産業が動き始める。
劇場が再開することになり、久しぶりの公演に向けて、楽団員たちは曲順を話し合う。一曲目はもちろん戦争中には歌えなかったスズ子の出世曲「ラッパと娘」だ。しかし、スズ子は本番に向けて、不安を抱えていた。一方、同じ公演に立つりつ子も慰問先での出来事が忘れられず、心に傷を負っていた。そんな中、公演当日、スズ子の楽屋をりつ子が訪ねる。
ライバル歌手の淡谷のり子にも戦中のドラマがあった
りつ子は特攻隊員たちに言われた「晴れ晴れと逝けます」「思い残すことはありません」の声が耳から離れないと語る。自分の歌に背中を押されて彼らが死んで行ったかもしれないことへの悔しさとともに、りつ子は怒りをぶちまける。
「歌は人を生かすために歌うもんでしょう。戦争なんてクソ食らえよ!」
すると、りつ子の言葉によって、不安や迷いを断ち切ることができたスズ子は強い思いを口にする。
「ほんなら、これからはワテらの歌で生かさな。今がどん底やったら、後は良くなるだけですもんね」「うまくやれるかやなんて、いったん置くわ。ワテは好きに歌う。そんで、お客さん全員片っ端から元気にしたる!」
その言葉はまた、りつ子の背中を押し、りつ子はステージへ。特攻隊員たちのリクエストで歌った、かつて彼らを死地に送ってしまったかもしれない「別れのブルース」を、今度は人々を生かすために思いを込めて歌う。
ちなみに、特攻隊の慰問のシーンは、史実と少々異なる。ドラマでは特攻隊員たちが口々に戦地へ向かう覚悟を口にしていたが、「徹子の部屋~戦後60年、終戦記念日特番~」(テレビ朝日、2022年8月15日放送)に出演した際、淡谷のり子が当時を語った様子は、こうだ。
慰問で淡谷が歌う最中も特攻隊員は出撃していった
「(まだ15~16歳ぐらいの兵隊たちを目の前にして)だから私、係の人に聞いたんです。そしたら『はい、特攻隊員で平均年齢16歳です。命令がくれば飛びますよ』って。『もし歌っている最中に命令が下されたら、行かなければなりませんから、ごめんなさいね。悪く思わないで下さい』って。命令がこなけりゃ良いなあと思いながら歌っていたら……やっぱりきたの、命令が。サッと立ち上がって、私の方を向いてみんなニコニコ笑いながら、こうやって(敬礼をして)行くんです。もう、泣けて泣けて、声が出なくなりましたよ、悲しくて」
ある意味、笑顔で黙って敬礼して去っていく「現実」のほうが、ドラマよりはるかに残酷だろう。
ドラマでは、りつ子に続いてステージに立ったスズ子が、これまでの鬱憤を晴らすかのようにステージ中を駆け回りながら「ラッパと娘」を歌い、踊り、観客は大盛り上がり。そして、客席には、上海から命からがら戻って来た羽鳥の姿があった。りつ子とスズ子は公演後、羽鳥との再会を喜ぶ。
終戦で歌手活動は再開するが、恋人との別れが待っていた
一方、愛助はスズ子の公演に刺激を受け、勉強に精を出し、スズ子には公演依頼が殺到。休みなく歌う日々が続いていた。しかし、楽団員たちの大変さを知ったスズ子は、楽団の解散を決意する。
史実では敗戦後、笠置と服部良一のコンビは、東京・日本劇場と東宝系の劇場を拠点に活躍。東宝舞踊隊改め東宝舞踊団(TDA)による日劇での戦後初公演となる「ハイライト」に特別出演する。さらに、復員した服部の戦後最初の仕事は、エノケン劇団の終戦翌年(1946年)正月公演「踊る竜宮城」だったという。自伝ではそう書かれているが、『東宝50年映画・演劇・テレビ作品』リストには服部の名前がないことから、「一部の景(編集部註:場面のこと)の音楽を担当しただけだったのかもしれない」と、『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(輪島祐介著、NHK出版新書)では記されている。
一方、私生活においては、この後、エイスケが早稲田大学を中退。吉本興業で働くようになって、せっかく良くなった体調が悪化し、母親の吉本せいが待つ関西に帰っていってしまう。同時に、笠置の妊娠が発覚する。
終戦後に手に入れた自由。しかし、ドラマの第1話冒頭で描かれたように、未婚の母、シングルマザーとして生きた笠置にとって、本当の戦いはここから始まったのかもしれない。