宝塚歌劇団に所属する女性が9月に亡くなったことをきっかけに、同劇団の過重労働やパワハラの疑いが問題化している。コラムニストの河崎環さんは「これは伝統という名の下に温存されてきた構造問題だ。振り返ると今年は、男性アイドル、歌舞伎、高校野球、宝塚、大学体育会など、今の時代に取り残された、伝統的な精神論をエンジンに回るジャンルが次々と制度疲労を起こして壊れていった。これまで許されてきた行為やもの言い、『わかっていても黙っているのが大人』とされたことや分野にメスが入っている」という――。
2021年の東京五輪閉会式に登場した宝塚歌劇団
写真=AFP/時事通信フォト
2021年の東京五輪閉会式に登場した宝塚歌劇団(東京・国立競技場)、2021年8月8日

80年代「ある女子教育」の現場

「どーこー見てんだよー、ゴラァーー‼」
「何度も言わせんな、バカだね!」
「できないなら帰りな!」
「あんたみたいな(不美人の)女の子が、せめてお勉強くらいできなくてどうやって生きていくってのよ」
「あなたはいいのよ〜? どうせおバカさんなんだから、とにかくかわいければいいの」

小学校のとき、教室には魔女がいた。

私立小で、高学年になると男女別クラスに分かれ、それぞれ難関中学受験を目指す。冒頭の言葉は、女子クラスを担任していた女教師が日常的に口にし、女子を叱咤しったし鼓舞していたものだ。

11歳や12歳で、大人から胸をえぐられるような言葉を聞かされ、厳しい中学受験塾と並行して学校の大量の宿題と補習と「でき帰り(問題が正解したら帰宅できるというもの)」をこなす。

毎日ほぼ徹夜、クタクタの身体を引きずって学校に来ていた女子たちの中には、全員の前で立たされ、魔女に叱咤されている途中で恐怖から気を失って倒れたり、授業中トイレに行きたいと手を挙げることすら怖くて間に合わなかったり、卒業してからも何度も夢に見て叫びながら飛び起きたりする子もいた。

2年間の「指導」の末、成績が伸びても伸びなくても。第一志望に合格してもしなくても。今の言葉で言うなら教師のパワハラによって、生徒がそれぞれに「優秀でなければ叱られる」「できなければバカの烙印らくいんを押され人格否定される」というトラウマをよわい12歳で負ったのだ。

競争せよ、そして勝て、と。

競争に勝つことの意味

団塊ジュニアど真ん中の私の学年では、同級生は女子だけで100万人超、男女で約200万人。言い方が良くないのを承知で言うなら、子ども一人の価値は200万人分の1だった。ライバルが多い時代の子どもは、競争に勝たないと自分の「価値」を証明することができず、生き残れない。そのままのあなたでいいのよと、生きているだけで愛してもらえるとかいう、平和で恵まれた社会の「無条件の愛」なんて素敵なものは知らない。

魔女に限らない。「いい子でいなさい」「可愛くいなさい」「賢くいなさい」と、いい子リストの上位順で大人たちから条件付きの愛情を受けて(あるいは受けられずに)育った、そんな子ども時代の記憶を引きずる人は少なくないはずだ。

戦前戦中なんかじゃない、80年代半ばの話である。

当時の魔女の年齢をとうに過ぎた今の私は、彼女も合格数アップという命題を担任一人で背負わされ、仕事に一生懸命だったのだとわかる。あの時代の価値観でギリギリ許されるアプローチを取ることで女子軍のように生徒を統率し、期待だけは大きい保護者を黙らせ、学力レベルもバラバラのクラスの底上げと個々人の学力増強を図ったのだ。

結果は開校以来の合格者数と合格校の内容。自分の想像以上の難関校に進んだ生徒がたくさんいた。記憶の範囲では、さすがにブスだのデブだの直接的な言葉を言わなかっただけ、手を上げなかっただけ、あの先生はまだ正気だったのかもしれないと思う。

だが、深い心の傷はそれぞれの子どもの中に残った。

その頃からだ。私には何か自分が失敗したり恥と感じたりすることがあると、内側から突然噴き上げるようにして「死んだ方がいいな」という自己否定の言葉が口をついて出てくる癖がある。

“女の園”で育まれた過剰な完璧主義

その後進んだ女子校にて、私は女子だけの演劇部で宝塚的な男役に選ばれてしまうなどしながら、女の園ならではの風景や感情のあり方を見聞きし、学習した。その女子校は学力ハイレベル中のハイレベルであったために、暴力的なもの言いなどはまったく出現しないが、優秀な女子、競争で選ばれる女子というものは、そもそものありようとして度を越して完璧主義なのである。

英語で「オーバーアチーバー」と呼ばれるもので、やりすぎるくらいのレベルまで到達して初めて自分に満足する、一種の過剰適応である。競争に勝つ男子同様に、競争に勝つ女子もまた、高い理想を抱き、自分で自分を追い詰め、達成する精神力と能力と体力があるから競争に勝っているわけだ。すると、育成や指導の上で「私にはできることが、なぜあなたにはできないのか」という苛立ちが生まれることもあるだろう。

宝塚で受け継がれてきたもの

女の世界をよく知っている者ならば、宝塚歌劇団と、その下の育成組織である宝塚音楽学校という場所には、それと同じメンタリティーが、さらにパフォーマンスアートというジャンル特有の価値観をもう一枚まとって脈々と受け継がれてきていただろうと容易に想像できるのではないだろうか。優れた女子伝統校における上級生と下級生間のスキル伝承に、体育会的な上下関係と一種の粗野さを交え、しかも歌劇であるゆえに容姿にもプレッシャーがある。

「(これまでの伝統に忠実で)清く」「(技術的に完璧で)正しく」「(容姿も当然)美しく」というモットーの通りに、あれほどの大組織で競争を続け、会社が組む猛烈な興行と稽古をこなす心身の負荷の中にパワハラやいじめと呼ばれる厳しさが生まれないことの方が不思議だし、そういった厳しい指導のさまもまた「芸ごとならではの美しい世界」との精神論で許されて、いやむしろ崇められてきたのではないかと感じるのだ。

兵庫県の宝塚劇場
写真=iStock.com/winhorse
※写真はイメージです

女性の頑張りと女性ファンの支持の上に成立する男性のビジネス

今年9月末、宝塚歌劇団員女性の自死が明るみに出、その理由が上級生によるいじめであったとの遺族の主張が伝えられ、宝塚における伝統的な過重労働とパワハラ体質が問題視されている。これは伝統という名の下に温存されてきた構造問題であり、改善が必要であると指摘され続けた結果、ついに阪急阪神HD会長の角和夫氏が宝塚音楽学校の理事長を12月1日付で辞任。今後は組織風土改革が着手されるとみられている。

よくよく考えれば、宝塚とは女性の世界ならではの精密で完璧で自己犠牲的な努力主義に基づくパフォーマンスと、全国の女性ファンの熱狂的な支持に支えられた、男性が意思決定するビジネスなのである。キリキリ頑張るのは女、意思決定は男というねじれた全体構造は、決して清くも正しくも美しくもないように感じるのだが。

出血は一向に止まらない

2023年を振り返るだけでも、男性アイドル、歌舞伎、高校野球、宝塚、大学体育会など、今の時代に取り残された、伝統的な精神論をエンジンに回るジャンルは次々と制度疲労を起こし、それぞれに大きくまたは小さく壊れていった。昨年は吉野家のマーケティング責任者による「生娘をシャブ漬け」発言などもあったが、これまで許されてきた行為やもの言い、「わかっていても黙っているのが大人」とされたことや分野にメスが入っている。

これまでも、何かにメスが入ると出血するものはあったが、最近はその出血が一向に止まらず、2020年代は、組織自体が動きを止めてしまうほどの大きな事態へ至るのが特徴だ。

出血など、そんなものはすぐに絆創膏でも当てれば止まったものだったのに、2020年の古い組織に出血を止める力はもうない、ということに気がつくのだ。それは組織の老化であり、制度疲労である。私たちはビジネスの組織論や、工場システムの話ならすぐ気がつくのに、自分たちが日常を送る「社会」の制度疲労に関しては、その姿が当たり前だと思ってすっかり見逃している。

「河崎さん、次は何が堕とされるのでしょうね?」

最近、アンテナの高い編集者の皆さんにはそういう聞き方をされる。当たり前が当たり前じゃなくなる、それだけ2023年は大変化が起こった年だった。さて来年は、私たちが「そういうものだ」と信じきっているものの中から、何が壊れるのだろう。

そうそう、失敗する自分に「死んだ方がいいな」と口走る長年の癖に悩まされてきた私だが、親にそんなことを言われて育ったわけでもないのに……とずっと内省し、残酷な言葉を自分に向ける自己否定の根が「そうか、あの中学受験の日々にあったのだ」と気がついたのは、だいぶ大人になってからだった。

今では「死んだ方がいいな」とうっかり口走ったあと、「いやそれほどのことでもないって」と自分で言い返せるようになった。それなりに無駄に長く生きたので、おばさんの賢者力がついたのである。

頑張り屋の完璧主義女子たちよ、自分で自分を許すと、生き易くなるよ。