女性初の執行役員ならこの人しかいない
「これはえらいことになった」――オフィス空間設計・家具製造のイトーキ初の女性執行役員である八木佳子さん(52)。同社の湊宏司社長から直々に執行役員の任命を受けた際、彼女はこのように思った。
創業130年超の日本の老舗企業であるイトーキの女性管理職は、わずか10%ほど。女性の課長や部長ですら極めて少ない中での抜擢だったが、「女性初の執行役員なら八木さんだよね」と応援の声は多かったそう。
しかし、ここに至るまでに順風満帆にきたわけではない。研究者として日の当たらない長い苦渋の期間があり、転職も考えたこともあったそうだ。それをどんなふうに乗り越えてきたのか。まずは八木さんのこれまでのキャリアを振り返ってみたい。
開発した技術が8年間も不採用続き、転職を考える
八木さんは、大阪市立大学大学院生活科学研究科で人間工学を学んだ。人間工学の専門家でもある。空間に置くプロダクト、特に椅子に興味があったそうで、卒論のテーマは「姿勢」にした。その研究を社会人になっても続けたくて、1998年にイトーキクレビオ(当時)の中央研究所に入社。家具の要素技術の研究開発をしていた。
家具の要素技術とは、製品をつくるための基本的な技術のこと。八木さんが入社して初めて担当したテーマは、高さが自由に変えられる机の機構開発だった。開発した要素技術は新製品に採用されれば日の目を見るが、八木さんが開発した要素技術はなかなか採用にならなかった。
当時の研究所にはテクニカルデザインレビューという審査があり、その審査に合格してはじめて製品に採用される。八木さんの担当テーマは審査では合格にはなるものの、製品に採用されない。結果、つくった試作品を産業廃棄物として処分して一年が終わることの繰り返し。その“ボツ”だらけの時代は、2006年まで8年もの間続く。周囲の社員は男性ばかりだったが、特に性差別は受けなかったし、大事なプロジェクトにアサインされないということもなかった。では、なぜ採用されないのか……。
「そこまで不採用が続くと、プレゼンの仕方が悪かったのかなとさすがに意気消沈しましたが、自分の開発自体が悪いとは思ってなかったんです(苦笑)。これは会社との相性が良くないのだと判断して、次もボツになったら、転職しようと密かに決めていました」
のちに、エンドユーザーの実態の把握ができていないことが不採用の主な理由だとわかった。たとえば、この椅子に座ると体の負担が軽減されるなどの実証実験はしていたが、実際に顧客が製品を使っている現場の観察はできていなかった。しかも当時のイトーキは、製造と販売の会社が別だったので、エンドユーザーまでたどり着くことができなかった背景もある。
女性用のオフィス用椅子が成功。それが転機に
しかし転機は訪れた。「これでダメなら転職だ……」と八木さんが意を決して挑んだ研究開発の成果が、業界初の働く女性向けの椅子「カシコチェア」に採用された。というのも当時の多くのオフィス用の椅子は男性好みの仕様になっているものが多く、女性の体に合わず長時間座っていると疲れるため、自分で持ってきた座布団を敷いて座る女性が少なくなかった。研究者たちも漠然とではあるが、従来のオフィス用の椅子は女性にはフィットしにくいのでは、と思っていた。
そこで、慶應義塾大学の教授らと共同で、女性のための椅子を開発することになる。大学で好みの形、握力、背骨の形といった身体計測や実証実験を行うのと平行して、社内の女性社員で編成したチームでエンドユーザーへのヒアリングやアンケート調査を行った。それらをもとに、4年もの期間を費やして製品化にこぎつけた。実際、これがイトーキでの最後の研究開発になるかもしれないという切迫感もあった。
「今までのように何に使われるかわからない技術ではなく、着地点が明確だったのが良かったのでしょう。自分も含め周りの女性も『こんな椅子だったら欲しいよね』という希望もはっきりしていましたしね」と八木さんは当時を回想する。
たとえば、カシコチェアだと座った時の女性の姿勢がキレイに見える、自然と膝がそろう、座った時の張り地が心地よい、足のむくみが軽減されるなど、女性の“欲しい”にとことん寄り添った製品だったので、リリース後多くのメディアにも取り上げられた。
中古市場で大人気! 復活を望む声も多いカシコチェア
現在カシコチェアは廃盤になったが、X(旧ツイッター)では、カシコチェアについて以下のような投稿が散見される。
「廃盤になっているけど、中古市場で人気です」
「カシコチェアを諦めきれなくて、中古で買いました」など。
実際にオフィス用の椅子の中古市場をネットで検索すると、カシコチェアはほとんどがSOLD OUTになっていて、人気の高さがうかがえる。
カシコチェア復活の声を望む声が多いが「今は“女性向け”とか“キレイに見える”など、使用者を限定する表現はあまり受け入れられません。長時間座っていてもむくまない椅子とか、機能をうたってリニューアルすることはできるかもしれませんが……」と八木さんは分析する。
家具の技術開発から空間デザインに開発領域が変わる
現在では“何に使うかわからない”技術を研究者が粛々と開発するといったことはなく、企画の時点から営業が参加し、部門横断で一緒に製品を開発していく体制に変わっている。つまりユーザーニーズを起点に逆算していくやり方だ。
八木さんの興味の対象も、個別の製品から空間全体やそこでの働きく人そのものへと変わっていった。2012年には八木さんの所属部署ごと、東京オフィスに異動。Ud&Eco(ユニバーサルデザイン&エコデザイン)研究開発室長として大阪から転勤となった。ユニバーサルデザインは誰でも使いやすいもの、エコデザインは環境に配慮したものという意味。
「そこからは家具単体の要素技術ではなく、椅子や机の配置、音、照明など、環境を変えると社内のコミュニケーションがいかに活性化するかというような空間と働き方との関連を調査する研究に変わりました。」
どうしたら社員が働きやすいオフィス環境をつくることができるか、より健康になったりパフォーマンスが上がったりするのか、といった点に注力していくのだ。
イトーキ自体もオフィスで立ち作業をしたり、ストレッチしたりするスペースを設けるなどの健康経営を進める。社員のウェルビーイング(健康・幸せ)を高めるといった新時代のオフィスづくりのありかたを模索していたのだ。それに連動し、八木さんのチームが主体となって「ワークサイズ」(work=働く、exercise=エクササイズの造語)を発案。働きながら健康に良い行動をすることでパフォーマンスが数値的にも向上することを実証し、高い評価を受けた。
八木さんはその後R&D戦略企画部長等を経て、2020年から商品開発本部ソリューション開発部長として、SaaSのサーベイシステム等データに関わるサービスの開発を担当。
そして2023年にソリューション開発統括部長に就任すると同時に執行役員に任命された。
2023年6月、政府は2030年度までに、プライム市場上場企業の女性役員の比率を30%以上に引き上げることを数値目標にする「女性版骨太の方針」を策定。これ以前にも、実力はさておきその数字目標を達成するため、女性というだけで神輿に担ぎ上げられる役員も存在するが、八木さんの場合は違う。研究と商品開発ひとすじに業務に邁進し、実績を出してきた功績が認めらたからだ。
執行役員の任命には本人への意思確認はなし
今回の任命では事前の本人への意思確認はなく、任命されたからにはYesと言って腹をくくるしかなかった。冒頭のように“えらいことになった”と、八木さんは頭を抱えた。
「業務としては変わらずにデータを活用したサービスの開発を進めるのですが、執行役員ともなると経営層のひとりとなり周囲の期待値がグンと上がります。それに開発するサービスをビジネスとしてちゃんと収益化しないといけないので、責任は桁違いに大きくなります。さらには、私が統括部長になるタイミングで商品開発本部に本部長と副本部長を外から迎えることになっており、新しい上司たちと新しい本部を作るという役割もありました。だから心底、えらいことになった、大ごとだと感じました」
中身は「大阪のおっちゃん」を支えるのは、家事・育児を担う夫の存在
八木さんは論理的・戦略的思考の持ち主で、一見非常に冷静沈着に見える。しかし実際の気質は、“大阪のおっちゃん”だという声も社内にはあるようだ。
「仕事上で不条理な場面に遭遇すると、たまにブチっと切れてしまうことはあるようですが、基本的には温厚な性格です。しかも半分関西人なので、笑いの要素も忘れません。ときどき『あんなこと言われてムカッとしないのかな?』と不思議に思いますが、いい意味でのスルー力、鈍感力に優れています(笑)。それに余計なこと、嫌なことはすぐ忘れてしまうみたいで。これは八木の一つの才能だと思うし、後から養おうと思っていてもなかなかできることではありません」と、八木さんに近い社員が評する。
そんなコメントを聞いても、八木さん本人は淡々としたもの。「悪いことの裏には、良いこともあります。たとえば、若い頃は女性だけにお茶汲み当番がありました。でも男性研究者の中に混じっていても、女性だからかすぐに顔を覚えてもらえたこともありました。もしイヤなことがあったとしても、『結局はプラマイゼロ』と思うようにしています」とのこと。そう、いたってマイペースなのである。
八木さんは大学院在籍時に結婚、そして出産。27歳の息子の母でもある。家庭では夫が「主夫」として、育児、家事全般を引き受けてくれるので、仕事に注力できたのは夫のおかげだと感謝する。東京に転勤になった時は、息子が中学3年生だったので、単身赴任生活を選んだ。その後大学進学にともない、夫と息子が上京。また家族三人で生活することになった。
「だから私が女性社員のロールモデルになるには特殊すぎます」と八木さんはいうが、今後こんな女性が増えていきそうな気もする。
趣味は近所の単館映画館での映画鑑賞。そして自宅の庭の草むしりをして、ひたすら作業に集中して頭をスッキリさせる。どこまでもマイペースな執行役員だ。