デジタルパスポートの試験運用を開始
マイナンバーをめぐるトラブルが後を絶たない。健康保険証と一体化した「マイナ保険証」に他人の情報が登録されていたり、マイナンバーと紐づけた公金受取口座が他人や家族名義だったり、さらには個人情報が漏洩したというケースもある。開始から2年たった今も、マイナ保険証の利用率は5%以下と、低迷したままだ。
ただ、日本でこうしてトラブルが相次ぎ、デジタル化への不信感や不安感が広がっている間にも、他国のデジタル化は急速に進んでいる。
8月末、世界で初めて、パスポートの代わりにスマートフォンに登録したデジタルパスポートで旅行者の出入国を管理する試験プログラムが、フィンランドで始まった。
これは、2024年2月末まで、フィンランドのフラッグキャリアのフィンランド航空、空港運営会社のフィナヴィア、フィンランド警察が共同で試験運用するものだ。ヘルシンキ空港とイギリスの3空港を結ぶフィンエアー便のフィンランド人乗客は、任意で取得した「デジタル旅行認証(DTC)」を利用し、列に並ぶことなくスムーズに入国できるという。
EUは全域で単一のデジタルIDフレームワークを構築することを目標に掲げ、2030年までに加盟27カ国の国民80%への普及を目指している。今回のデジタルパスポートの試験運用も、その目標に向かった一つの動きだ。
その中でもデジタルIDの活用が進んでいるのはフィンランドで、2022年のEU加盟国のデジタル化の進捗状況を表す指数であるEUデジタル経済社会指数(DESI)でも1位だった。この国では、92%のインターネットユーザーは、オンラインで行政手続きができる電子政府サービスを利用していて、EU平均の65%と比べてもかなり高い数字だ。
全ての手続きがオンラインで完結する国
「この国にいる限りは、個人を証明するための書類は必要ありません。紙の証明書が必要なのは、他のEUの国に行くときぐらいですね」と笑いながら語ったのは、フィンランドのデジタル・人口データサービス庁のチーフ・シニア・スペシャリスト、ヤニ・ルースカネン氏だ。
今年5月にフィンランドを訪問した時、日本に参考になるのではないかと考え、同庁に、政府のデジタル化について話を聞いた。デジタルIDが普及しているというが、一体どんなことができるのか? 人々はどの程度利便性を感じているのか? 高齢者も活用できているのか? 私の頭の中に次々と浮かんだ疑問に答えてもらった。
すべての行政サービスを1カ所に集約
フィンランドのデジタル化の柱は、個人を特定できるID(個人識別番号)と、それを使って電子的に本人確認(e-identification)ができるシステムの存在だ。また、日本では自治体ごとに異なる行政サービスのホームページが展開されているが、フィンランドでは、さまざまな行政サービスが一元化された、政府のsuomi.fiというサービスプラットフォームがある。
2022年時点で、フィンランドの成人人口約454万のうち、実に92%にあたる420万人が電子本人確認システムを使っているというから、今や国民にはなくてはならないサービスだと言ってよいだろう。
この本人確認システムと、政府のプラットフォームはリンクされているので、わざわざ役所に行かなくてもオンライン上でさまざまな手続きが行える。まだまだ多くの手続きで、本人確認のために、マイナンバーカードの写しや紙の住民票、運転免許証の写しなどの書類が必要とされる日本とは大違いだ。
1960年代からIDナンバーで情報管理
フィンランドでIDナンバーが付与され始めたのは1960年代。最初は年金を受け取るための番号として使われていたが、1971年にはこのIDを活用して、初の人口調査記録(日本の戸籍や住民票のようなもの)がデジタルで登録された。
ただ、この国の人口記録の歴史は17世紀にさかのぼるそうで、その頃は教会単位で人々の誕生、結婚、死亡の情報が登録されていた。この記録は、ヨーロッパでは一番古い。フィンランドではこの時代から、国民の情報を登録して活用するための素地が築かれていたのだろう。
多くの国の国政調査では、調査員がそれぞれの家を個別に回って情報を収集している。日本も同様だ。フィンランドでは、1989年からオンラインで最新の情報がアップデートされている。これだけでも、フィンランドのデジタル化がどれだけ前から始まっていたかがわかる。
フィンランドで登録される情報は、たとえば住所や生年月日などの基本情報だ。子どもが生まれたら、病院がすぐに登録を行う。また、ルースカネン氏によると、このシステムには、人の情報だけではなく、ビルやアパートなどの情報も記録されているという。
免許の更新やパスポートの発行も
政府のサービスプラットフォームであるsuomi.fiには、日本の住民票にあるような、個人の基本的な情報以外に、不動産情報、今までに受けてきた教育の情報など、多岐にわたる情報が登録されていて、年金情報へのリンクもある。安全性の高い技術を使い、異なるデータベースやシステム上に保存されたデータを統合できる仕組みが作られているという。
政府のプラットフォームにログインする際は、銀行ID、証明書カード、モバイル証明書を使うことができる。銀行とも連携しているため、多くのフィンランド人が、銀行のIDとパスワードを使っているという。
運転免許証やパスポートの発行や更新は、公的機関に一度も行かずにオンラインだけで手続きを済ませることができる。必要な証明写真は、写真スタジオで撮影すると、直接発行元の公的機関に送られるという。また、国内の引っ越し手続き、車を購入した時の車両登録、車両税などの手続きや免税手続きなどもオンラインで完結する。所有権・位置情報・面積などが記載された不動産登記簿や住宅ローン登記簿なども、オンラインで確認できる。
医療記録や処方箋もオンライン管理
また、フィンランドでは、公的、民間、全ての医療機関がデータを共有しており、個人の医療記録システムは誰でも利用できるという。
Kanta Serviceと呼ばれるこの電子ヘルスケアサービスには、国民と医療従事者が同じデータにアクセスでき、医療記録や処方箋を閲覧できる。だから、たとえ旅行先で病気になり、現地の医療機関にかかったとしても、患者の過去の医療データが共有され、医者はそれを基に治療できる。同意書、リビング・ウィルや臓器提供の遺言書なども保存されている。
フィンランド国営放送の記者で、先日日本を訪れていたジェニー・マティカイネン記者は、「例えば、自分の処方箋を確認する時に政府のサービスサイトに行きますが、私は銀行のログインシステムを使ってログインしています。政府のサイトには自分のページがあって、今までの医療記録、レントゲン検査の結果などを見ることができます」とスマホの画面を見せてくれた。
日本政府のデジタル化に比べると随分進んでいるように思えたが、彼女は、上海に2013年から2014年に学生として、北京には2017年から2020年に特派員として滞在していた経験があり、全てがデジタル化されたキャッシュレス社会の中国に比べると、「フィンランドは数年遅れていると感じた」という。
オンラインが使えない人を支援する仕組み
ただ、中高年の人まで問題なく、こうしたオンラインシステムを使いこなしているのだろうか。そんな疑問をマティカイネン記者にぶつけてみると、「政府のシステムは使いやすいし、私の母は68歳ですが、彼女の世代は問題なく使えています。ただ、私の祖母の世代となるとさすがに厳しいので、助けが必要になることはよくあります」という答えが返ってきた。
フィンランドでは高齢者のための支援策も手厚く、自分でオンライン手続きができない人は、ほかの人に手続きを委託できる制度がある。息子や娘に1日から1週間までの間、自分の代わりに手続きができる権利を付与したり、それをキャンセルしたりすることもできるという。
「われわれは、アクセシビリティ(アクセスのしやすさ、使いやすさ)を大事にしてきました。すべてのフィンランド人が電子行政サービスを使えるようにしなければなりませんから。私も母親の代わりにオンラインで処方箋を受け取り、薬局に薬をもらいに行くなど、さまざまな手続きを代行しています」とルースカネン氏は言う。
こうしたオンライン手続きの普及は、コロナ禍で対面でのやり取りが制限される中、非常に役立ったそうだ。
「デジタル化の肝は『信頼』」
日本では、マイナンバーの公金受取口座に誤って別の人の口座が登録されるミスが相次ぎ、個人情報が漏洩した問題で9月20日、個人情報保護委員会がデジタル庁に対し、行政指導を行った。登録ミスについてデジタル庁に報告があったにもかかわらず、その情報が担当者と管理職で留め置かれて庁内で共有されず、公表が1年近く後になるなど、対応が遅れたことが指導対象となった。
相次ぐ口座の誤登録や、その対応の遅れは、既に低かった政府のデジタル化に対する信頼度を、さらに落とすことになった。
フィンランドのルースカネン氏は「政府の、情報管理に対する信頼はデジタル化政策の一番の肝」だという。「ただし、いきなり信頼しろといっても無理です。フィンランドでは、情報管理の透明性を高める取り組みについては、歴史的な積み重ねがあります」
こうした取り組みの一つが、アクティビティヒストリーだ。国民は、オンライン上で自分が行ったり閲覧したりした行政手続きの履歴を、すべて見ることができる。また、システム側では、誰がどのデータにアクセスできるかが明確に定義されており、それ以外の人は見ることができない。
システムによって若干の違いはあるが、医療関係のデータベースなどは、オンライン上の自分の個人情報について、自分が認めていないアクセスがあった場合に確認できるので、「知らないところで、勝手に個人情報を見られたり、操作されたりしていないか」を監視できるという。また、自分のパーソナルデータを確認し、間違えがあれば直してもらうよう申請できる。もし日本でも、このように自分で確認できる仕組みがあれば、自分のマイナカードやマイナ保険証に誤った情報が登録された場合、すぐに発見できたのではないだろうか。
デジタルリテラシーはEUで1位
そして、忘れてはならないのが、国民のデジタルに関する知識だ。フィンランドのデジタル化がここまで進んだ背景には、フィンランド人のデジタルリテラシーがEUの平均を大きく上回っていることもあるのではないだろうか。
前述のDECIのリポートによると、フィンランド国民のデジタルリテラシー(デジタル関連の人的資本)はEU27カ国中1位である。
例えば、国民の79%が少なくとも基本的なデジタルスキルを持ち、「EUデジタルの10年」の目標である80%に近づいている。そして、48%の人が、基礎以上のデジタルスキルを持っているという。
AIの無料講座を110万人が受講
また、今年世界中でAIが大きな話題となったが、フィンランドではすでに2018年から「Elements of AI」と呼ばれるAIの無料オンライン講座が国民に提供されていた。AIは既に、工場における不良品の識別やアレクサなどのスマートスピーカー、自動車の自動運転など、社会のあらゆるところに使われている。そのため、AIの基礎的知識を一般の人にもつけてもらい、テクノロジーの専門家たちが推進することに受け身で適応するのではなく、能動的に社会の変革に参加してほしいという狙いがある。
この講座は、ヘルシンキ大学と運営会社のミンナラーンというヘルシンキの企業が提供していて、AIが社会でどのように活用されているかを知る基礎的な講座から、プログラミングを教える上級のコースまでがそろっている。ミンナラーンよると、今までに110万人以上が受講し、受講者の40パーセントは女性、25パーセント以上が45歳以上だという。受講者の最高年齢は80歳代だというから驚きだ。
以前は技術者になるためのコースだけで、一般の人向けのコースはなかったため、一般の人向けに講座を作ったのだという。
このプログラムは、政治家が受講したり、企業が従業員に受講させたりしたことで広まっていった。フィンランドのサウリ・ニーニスト前大統領もこの講座を修了した人の一人だ。
日本ではこの手の話は、ごく一部の議員に任せっきりになっているように見える。デジタル化を進めた先にどんな社会が待っているかを国民に伝える必要があるのと同時に、それができなかった場合には、どんな日本の未来が待っているのか。そこまで考えて伝えるべきではないだろうか。
国民の信頼を得て、国全体のデジタルリテラシーを底上げしながら進んでいるデジタル先進国フィンランドからは、学ぶことはたくさんありそうだ。