「用水の一滴が血の一滴」
今は昔、農家が田んぼや畑に水をやるため、用水を奪い合って流血覚悟の争いに発展したこともあったと聞きます。画像1はその悲しい過去の伝聞を刻んだ石碑です。
この石碑は、現在この地域の田んぼや畑を潤している、大規模農業用堰の傍らに建立されています。石碑の文字の中に「用水の一滴が血の一滴」の一節を見ることができます。「用水さえ皆に届けば、争いなく皆が生きていける」。それを願いに、地元の農家の総意の下で堰の建設実現に一致団結した様子がうかがえます。
時代は令和となり、皆が安心してごはんや野菜を食べられるようになりました。今でこそ流血覚悟の水争いは表立ってはなくなりましたが、いまだに残っているのが、ため池や用水路などの農業水利施設に落ちて溺れる人の事故。その犠牲者数は、毎年全国でおおよそ100人ほどになります。
その中には中学生以下の子どもたちも少なからず含まれています。水をためれば、そこに人が集まり、そして水難事故が発生するものです。とはいえ血を流さなくて済むようになった代償として、毎年100人の犠牲者数は、数として重すぎないでしょうか。
筆者ら水難学会は「ため池で子どもが溺れた」というニュースが飛び込むたびに、現場に事故調査に赴きます。
そうやって全国を巡ると、自然と全国のため池を目の当たりにすることになります。「ため池って、文化風習の具現だな」いつの間にかそんなふうに考えるようになりました。厳しい自然の中で明日の食糧を確保するために、自然そのものとそこに住む人々の性格とが合致融合し、独特の水文化を形成しているように思います。
例えば平野に生活する人々は「皿池」を作りましたし、山の裾野に生活する人々は「谷池」を作りました。
小学生3人が亡くなった「皿池」
皿池は、瀬戸内海に面した地域に多く見られます。平地に盛り土をすることで皿のような窪地を作り、そこに水を溜めます。ため池数全国1位を誇る兵庫県。その明石市にある多くの皿池のうちのひとつを画像2に示します。
フェンスで囲まれたため池の対岸にはマンションが見えます。ここは、ごく普通の住宅地にあるため池です。目の前のフェンスを越えるとすぐ、草で覆われた岸があって、その向こうにため池の水が迫っています。
ここは、2012年7月に小学生3人が溺れた現場です。フェンスの手前に花が手向けられていますから、ここから3人が池に入ったのでしょう。
池の深さが急に変わる
3人は岸から50メートルほど離れた池の中で発見されました。発見された場所では、池の深さが50センチくらいから120センチくらいに急に変わるので、これが溺れた原因だったと考えられます。
この池には、無数の亀が泳いでいます。岸に人が来ると、亀が頭を水の上に出して、一斉に人を見ます。「人懐っこい亀だな」と近づくと、亀はそのままバックするように器用に泳いでいきます。後ずさりするわけです。
水の中に入ると、大人のせいぜい膝の下の深さなので、歩くことができます。水の中を歩きながら亀に近づこうとすると、やはり亀は後ずさりして、歩いてくる人とは一定の距離を保とうとします。「浦島太郎の気分だ。まさか子どもたちはこうやって亀を追いかけたのか?」と想像した瞬間でした。
複数の子どもが溺れる「後追い沈水」
複数の子どもが水の事故で犠牲になる時、ほとんどが「後追い沈水」という現象であの世に連れていかれてしまいます。
この明石市の池で、何が起きたか推測してみたいと思います。
画像3に示すように、岸から50メートルほど離れたところで、まず1人目の子どもが120センチほどの深みにはまります。深みにはまれば、一瞬にして水に沈んで姿が消えます。
それを見た次の子どもが1人目の姿を追って深みに近づき、やはり沈みます。さらにもう1人も同じように沈みます。これを見ていた4人目の子どもは「危ない」と感じて、池から上がり、近くの家にお兄ちゃんたちの緊急を伝えにいったのでしょう。
岸から急に深くなる「谷池」
谷池は、全国的に山沿いで見られる池です。山間の谷の地形を上手に使って、谷の下流に土を盛ることで堤体を作り、水を堰き止めたため池です。皿池と違って、どちらかというと住宅街からは離れたところにあるため池です。
皿池と違い、岸から急に深くなる特徴を持ちます。例えば堤体の部分には急な斜面があって、さらに漏水を防止するために遮水ゴムシートがかぶせてあったりします。
このゴムシートが厄介で、乾燥していると滑らないのですが、雨が降った後など濡れていると簡単に滑ります。そしてここからしばしば人が滑落し、溺れるのです。
画像4をご覧ください。ここでは2021年5月に親子が釣りをしている時に落水し、溺れて亡くなりました。
上の写真(a)は、池が満水時の様子です。黒いゴムシート上の、黄色の丸のあたりで釣りをしていたと思われます。
下の写真(b)は「かいぼり」の際の池の様子です。
どうでしょうか。上の写真(a)ではそんなに深い池のように見えないのですが、下の写真(b)ではゴムシートの部分がほんの一部分で、その深さからまさに「底なし沼」の様相だということがわかります。
もともとこんなに深いとわかっていたら、親子はここに近づかなかったかもしれません。
足がつくのに上がれない「底なし沼」
画像5は、なぜ谷池で溺れるのかを説明した図です。釣った魚を入れるために、ため池でバケツに水を汲もうと水際に近づくと、吸い込まれるようにため池に落ちます。
実は落ちたとしても、顔がちょうど出る程度のところで立つと、安定して立つことができます。そのままゆっくりと歩いて斜面を上がると、腰までの深さのところまでは上がれます。
ところがそれ以上そこから上がろうとすると、足が滑って前のめりに転倒します。そのまま後ずさりすれば全身が沈んでしまい、溺れます。あるいは陸にもう1人がいて、落ちた人の手をつかんで引き揚げようとすると、池の中の人が転倒したはずみでその人も引かれて、ため池の中に滑落します。こうなると2人目の犠牲者がでることになりかねません。
フェンスがないのに事故が少ない理由
香川県のため池数は、全国で3番目にランクインします。瀬戸内特有の気候のため、瀬戸内海の対岸である兵庫県と同じように、ため池を作って農業用水を確保しています。「讃岐の水は一滴たりとも瀬戸内海に流さない」と言われるほど、河川の上流から下流にわたって大小さまざまなため池がひしめき合っています。香川県の地図をインターネットで見ると、ため池の数に圧倒されるほどです。
それほどの数がひしめき合っているにもかかわらず、多くのため池では池を囲うようなフェンスが設置されていません。それにもかかわらず、香川県ではため池の数ほどは水難事故が発生していません。地元の人になぜかを聞いてみると「そもそもため池には近づかない」という言葉が返ってきました。
ため池のそばにはため池の管理者のお宅があり、子どもがため池の付近で遊んでいるとそのお宅から「カミナリが落ちる」そうです。そういう安全文化が昔からあるからこそ事故を防いできた地域なのですが、2021年の事故で亡くなった方は、事故の直前に近所に引っ越してきた方だったそうです。
多数のため池が全国に作られたため、農家は血を流さずに豊作を迎えられるようになりました。でもそのため池で人が溺れるようでは、「三方よし」の農業とは言い難いかと思います。
「妖怪」で危険性を子どもに伝えた
ため池を代表とする農業水利施設での水難事故は、今に始まった話ではありません。昔の話を探るのであれば、国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースを使うといいでしょう。妖怪が蠢く面白いデータベースで、ここで「底なし沼」と検索すると、次のような昔話に出合うことができます。
昔、北方の大田河囲に姉取り沼という沼があった。底なし沼といわれ、得体の知れない主が棲んでいたという。そのほとりに住む美しい姉妹が、ある時沼に洗濯に行って,姉の方が沼の主に攫われ,亡骸さえ上がらなかった。それから「あね取り沼」というようになった。ここの上手の山沢を「化け物沢」といい,昔から怪異の事があったという。
これを現代風に解釈すると、ため池に滑り落ちて、上がれずに沈んでいった女の子がほんとうにいたのかもしれません。「沼の主」という妖怪を物語上に設定することで、子どもたちにわかりやすく池の水難事故を教えたのでしょう。
でも、この令和の時代、昔だったら怪異現象と呼ばれて人々に恐れられていたものが次々と科学で説明できるようになってしまい、現代っ子が妖怪を怖がってため池に近づかないようにできるかというと、それはさすがに期待薄です。
ならば、徹底的に科学的に、現実を目の当たりにすることで安全対策をすべきでしょう。
「ため池」を地域の人たちに伝える
最近、全国の自治体が「ため池サポートセンター」という組織を作り、ため池の必要性や事故防止策について地域の人たちに伝える取り組みが始まりました。
画像6は、その研修会の様子です。実際のため池を使い、斜面を歩くと簡単に滑落すること、一度滑落したら這い上がることができなくなることを、集まった近所の小学生たちの目の前で実演しています。
同様の実演は、ため池を管理する農家の皆さんに対しても行っています。画像7は、ため池に落ちた人を救助しようと陸から手を差し出して引き揚げようとしたら、逆に池に落ちてしまう瞬間をとらえています。さらに、このようにして水に落ちたらどのように背浮きになったらよいか、背浮きの状態でどうやって体力を温存するか、具体的な方法を伝授します。希望者がいれば、実際に入水して体験してもらいます。
フェンスだけでは足りない
ハード対策としては、まずフェンスが挙げられます。池の周囲をフェンスでしっかり囲って、人を入れないことが大事です。ただ、現実にはこのフェンスを越えてまで内側に入り、ため池で釣りをしている最中に滑落する事故が後を絶ちません。
確かに、立入禁止の内部にフェンスを越えて立ち入ったわけですから、立ち入った人が悪いと言えばそれまでです。でも、血を流さずに豊作、それに加えて溺水なしの「三方よし」を目指すなら、フェンスは立ち入りを制限するための設備であって、溺れないようにするための設備ではないことに気付くはずです。
そこで、ため池での溺水事故を防ぐためのハード対策として、ため池の斜面に這い上がり設備を設置する事業が、全国で急速に進んでいます。
滑落しても這い上がれるようにする
画像8にある樹脂製ネットの設置は、比較的安価にできる工事です。ため池の堤体の斜面に樹脂製のネットを這わせます。こうすることによって、何かの拍子にため池に滑落したとしても、ネットに手の指をかけて、つま先をかけることにより、容易に水中から陸上に這い上がることができます。ため池などの設備の維持管理に対して交付される「多面的機能支払交付金」で設置することができるほど、手軽な工事です。
画像9は、もう少し金額のはる工事です。ため池の堤体にコンクリート張りブロックを這わせます。こうすることによって、斜面で草刈りなどの作業をしていても、ため池滑落を防止することができます。また、万が一落水したとしても、ため池の水の中から歩いて上がることも可能です。農村地域防災減災事業など少し大きめの事業で設置することになります。
「三方よし」の農業に
全国に10万カ所ほどあるため池は、主に農業用水の確保のために使われています。そのうち69%が江戸時代以前に作られたのではないかと言われるほど、古くから人々の生活の近くにありました。全国でため池数が最も多いのが兵庫県、次いで広島県、香川県です。
ため池の水難事故で亡くなる人は例年30人前後です。高齢者が全体の約半分を占めますが、子どもの犠牲者も毎年のように報告されています。
最近子どもの死亡事故が続いた宮城県では、2022年から2024年の3年間の計画で、県内のため池の緊急一斉点検と安全対策を進めています。その中には、立ち入りを制限するためのフェンスの設置499カ所、注意を促す看板の設置589カ所、這い上がり用のネットの設置56カ所が含まれています。
ただ、全国的にみると、まだ安全対策が行われていないため池が多く、集中的に予算措置して安全を確保しなければならない状況にあります。
これは、地域住民の安全ばかりでなく、ここで作業する農家の安全の問題でもあります。血を流さずに豊作、さらに溺水なしの「三方よし」の農業を早く実現したいものです。
ため池斜面に施工されるネットや張ブロックの事故防止に対する有効性については、水難学会農業水利施設安全技術調査委員会によって製品ごとに確認され、全国にその技術が広がっています。