話題のハザードマップができた経緯とは
江戸川区では、2019年5月に江戸川区水害ハザードマップを11年ぶりに改訂しました。水害時の危険性をより明確に伝えるため、表紙には「ここ(区内)にいてはダメです」という言葉を入れています。これがインパクト大だということで、多くのメディアに取り上げられ、今なおSNSなどで話題にしていただいているようです。
このハザードマップは多田正見前区長の下で改定されたもので、この言葉は前区長ご本人の発案だと聞いています。もともと、2018年発行の江東5区(江戸川区、墨田区、江東区、足立区、葛飾区)が共同で作成したハザードマップに「あなたの住まいや区内に居続けることはできません」という文言があり、これをよりわかりやすく伝えようということで現在の表現になったそうです。
基本的に、私たち行政が発信する言葉ってつまらないですよね(笑)。文書でもチラシでも、皆さんの目を引くようなインパクトのある言葉を使うことはほとんどありません。でも、どんなに一生懸命パンフレットをつくっても、見てもらえなかったら存在しないのと同じ。だからこそ前区長はあえて強烈なフレーズを採用したのだろうと思います。
「自分の区にいちゃダメって何だ」という批判的な意見が多数
私は、このハザードマップが発行された月に区長に就任しました。全戸への配布や町会単位での説明会を実施したところ、区民の皆さんからさまざまな意見が寄せられました。「心構えができた」といううれしい声もありましたが、ほとんどは批判的な意見です。
「自分の区にいちゃダメって何だ」「区外ってどこへ行けばいいんだ」「区外に逃げろだけでは区としての責任が果たせていないと思う」「『ここにいてはダメです』の表現にインパクトがありすぎて戸惑っており、引っ越しも考える」「不安だけあおっているようにしか思えない」──。
でも、批判が多いということは、それだけ見てもらえているということ。私たち行政にとっていちばん怖いのは“無関心”です。まずはそこをクリアできなければ、ハザードマップの本来の役割も果たせません。ですから、さらに多くの区民に自分ごととして考えるきっかけにしてもらおうと、いただいた意見は肯定的なものも批判的なものも含めて、区の広報誌の一面に掲載しました。
想定最大規模の水害ではマンションの3〜4階まで浸水する
江戸川区は荒川、江戸川、東京湾に三方を囲まれていて、区のおよそ7割が満潮時の水面よりも低い「海抜ゼロメートル地帯」です。国や都の想定最大規模の台風や大雨が発生すれば、区のほとんどは水没し、最も深いところではマンションの3〜4階に相当する10メートル以上の浸水が起こるだろうと予測されています。
浸水はなかなか引かず、最長で2週間以上続くとされており、もし区内にとどまれば長期間にわたってライフラインのない生活を強いられることになります。区の総人口は約70万人で、うち50万人弱がゼロメートル地帯に住んでいます。万が一、この50万人弱がひとりも避難できなかったら、その被害規模は想像を絶するものになるでしょう。
こうしたリスクを抱えているのは江戸川区だけではなく、墨田区、江東区、足立区、葛飾区も同様です。この江東5区ではほとんどの地域が水没し、総人口の9割以上に当たる約250万人が浸水被害を受けると予想されています。
想定最大規模の水害が起こるのは千年に一度程度だが…
ただし、これはあくまで最悪の事態をシミュレーションしたときの話です。これほどの巨大台風や大雨が発生するのは千年に一度程度と言われており、実際には1949年のキティ台風以降、堤防の外側を流れる河川から江戸川区内に水が入ってきたことはありません。
江戸川区周辺では、徳川家康の時代からおよそ400年間にわたって治水工事が行われてきました。隅田川の水害から町を守るためにつくられた荒川も、工事着手からすでに100年以上が経ちます。先人たちの努力と、その後の下水道整備や排水機能強化などによって、今の江戸川区は昔に比べれば水害に見舞われにくい都市になっています。
しかし、千年に一度の事態は今年起こるかもしれないし、明日起こるかもしれない。先人たちがそうしてきたように、我々もずっと、それこそ何百年も継続して水害対策に取り組んでいかなければいけないと思っています。
江戸川区役所の職員は皆、入区してすぐ水害リスクに関する研修を受けます。もちろん私もそうでした。ただ、知識としては知っていたものの、初めてこの問題に真正面からぶつかることになったのは、区長に就任して間もないころのことでした。
2019年10月、大型の台風19号が上陸し、私は江戸川区90年の歴史の中で初の避難勧告を出しました。あのときは、とにかく区民の命と財産を守るのが最優先だという思いでいっぱいで、結果的に、避難した区民は23区最多の約3万5000人にのぼりました。あれは正解だったのかと今も自問することはありますが、当時の状況で命を守るために自分に何ができたかと考えると、やはりあの判断をせざるを得なかったように思います。
災害発生予測の24時間前に広域避難指示が出たら区外へ
最悪の場合の被害想定を考えましたが、私たちとしては被害がそこまで広がらないようにさまざまな対策に取り組んでいます。気象予報の進化で台風や大雨の経路は事前にわかりますから、区民にはラジオやテレビ、Twitter(現・X)、LINE、防災アプリ、メールなどを通して72時間前、48時間前、24時間前、9時間前と段階的に避難を呼びかけます。
区外の避難先は親戚や知人宅を想定してはいますが、それができない人も当然いるでしょう。そこで、区外のホテルなどに避難した場合、宿泊代に対して補助金を交付する仕組みをつくりました。
また、高層の建物などを避難場所として整備する「高台まちづくり」を進めており、その一環として、水害にあっても防災機能を維持できる新庁舎を建設中です。水害対策にはそうしたハード面と、ハザードマップや避難支援などのソフト面の両方から取り組んでいく必要があると考えています。
ハザードマップ発行後の世論調査では、区民の約4割が「広域避難できる」と回答しました。一定の効果は見られていますが、残り6割の方々への対策もしっかり検討していかなければなりません。そのひとつとして、2023年4月に「災害要配慮者支援課」を立ち上げました。
高齢者や避難しにくい人たちを取り残さないという使命
水害対策の“一丁目一番地”は、人の命と財産を守ることです。その観点からも、災害時に自力で避難できない方や避難生活が困難な方の支援強化は必須です。高齢の方や障害がある方、妊娠中の方、乳幼児などへの支援は部署ごとの縦割り業務になってしまいがちですが、それでは迅速な対応はできません。そこで、自分はこの縦割りに真正面からぶつかっていこう、オール江戸川区で支援できるようにしようと思ったのです。
もう40年ほど前の話になりますが、私は福祉関係の仕事につきたいと思っていました。でも、当時、民間にそうした仕事はほとんどなかったのです。夢をかなえようと思ったら選択肢は公務員しかなく、それで江戸川区役所に入区しました。そうした福祉への思いは、先ほどの「災害要配慮者支援課」の立ち上げにもつながっています。
職員時代は、まさか自分が区長になるなんて思ってもいませんでした。出馬したのも、実は前任の区長に面と向かって「やれ」と言われたからなんです。私はとてもそんな器ではないので、最初は冗談かと思いました。何度かお断りしたのですが、最終的には「そこまで言っていただけるなら」「役所生活40年の経験が皆さんのお役に立つのなら」と手を挙げた次第です。
早稲田のラガーマンだったときに恩師から教えられたこと
生まれは足立区の北千住でして、親の仕事の都合で千葉県に住んだ後、江戸川区に移ってきました。早稲田で過ごした大学時代はラグビーに熱中し、部ではナンバーエイト(背番号8番でフォワードに指示を出すリーダー的なポジション)を務めていました。そんな学生で体ばかり鍛えていたもので、もうちょっと頭も鍛えておけばよかったなと今になって後悔しています(笑)。
ただ、大学のラグビー部では尊敬する指導者からたくさんのことを学びました。ラグビーは、ボールを持ったら蹴っても投げてもいい、走ってもいいと選択肢が多いスポーツです。あるとき、試合後に自分のプレーが正解だったのかどうか悩んで指導者に相談したら、「お前がそのとき正しいと思ったことが一番いいんだ」と言われたのです。
この言葉は非常に胸に残っていまして、今もよりどころにしています。区には優秀な職員がたくさんいて、施策などは彼らと話し合いながらつくっていくわけですが、決めるときはやはり自分がしっかり決めなければいけない。最終判断をする、最終責任を取る。それが自分の役割だと思っています。
水害リスクの話を聞いて、江戸川区に住むのは怖いと思った方もいるかもしれません。でも、豊かな水は区の魅力でもあります。1973年に日本で初めて親水公園をつくったのも江戸川区ですし、区民にどんなところが魅力かと聞くと「水と緑」と答える方はとても多いです。ですから、水のリスクと水の恵み、この両方を同じようにしっかりと伝えていきたいです。
水の恵みを享受しつつしっかりリスクを把握してほしい
2018年の西日本豪雨をはじめ、各地の水害による被害を見ていると、ハザードマップで3メートル浸水と色分けされたエリアはその高さまで浸水するなど、やはりハザードマップの通りになっています。このことからも、皆さんにハザードマップをしっかり見ておいてもらうことがいかに重要かわかります。この点は、行政から区民へ繰り返し伝え続けていかなければなりません。
それでも、地球温暖化の影響もある現在、もし国の被害想定を超える台風や大雨が発生したら、実際の避難状況や被害規模には未知数の部分があります。しかし、未知数だからこそ私たちは考えうる限りの手を打っていくつもりです。今後起こりうる水害について、皆さんもぜひ自分ごととして考えていただけたらと思います。