12年間で7人の子どもを出産
91歳で、現役心療内科医の藤井英子さんは、29歳から41歳までの12年間で男3人、女4人という7人の子どもを産んだ。
時は高度経済成長期、“夫婦に子ども2人”が「標準家庭」と言われ始めた時代だ。
漢方心療内科「藤井医院」で事務を担い、母を支える次男の親さん(59)は言う。
「周りから、7人というのは驚かれました。別に、嫌な思いはないです。ただ自分だけの部屋がないので、一人部屋は憧れでした。うちは、男部屋と女部屋しかなかったので」
1人だって2人だって、子育ては大変だ。英子さんはそれが、何と7人。どれだけ、大変だったのかと水を向けても、英子さんはキョトンとするばかり。
「子育てで、悩んだ記憶はないですねえ。みんな、好きなようにして、自立していきましたね。やっぱり、切磋琢磨するんと違います? たくさん、いると。上を見習って、やって行くんでしょう、きっと」
なぜ子育てに悩むことがなかったのか
まるで、他人事のようなのんびりしたものだ。産婦人科医として勤務していた第4子までは、実母が助けに来てくれたことはもちろん、大きかった。
「母親は、ものすごい量の買い物をしてくれましたよ。あれ食べて、これ食べてと、子どもにちゃんと言うといてくれますし。夕飯の下作りを、ちょっとしといてくれたりね。ほんまに助けてくれました。65歳の若さで他界してしまい、ちょっとラクさしてあげたらいいなと思っていたのに、全然でした」
上の子どもたちは実母の助けがあっての子育てだったが、英子さん自身、もともと、「こうしなければならないという、頓着がない」ということが、悩みの無さの根っこにあるように思える。
そもそも、「こうあらねばならない」という目標や、べき論を子育てに持ってしまうと、それにからめ捕られ、子育てとは往々そうはならないものである以上、目の前の現実を受け止めきれずに、悩みが始まるのかもしれない。
英子さんを見ていると、あらかじめ先回りして、あれこれと子どもに指図する母親とは、真逆の母親像が浮かぶ。得意はまさに、「頓着しないこと」。
「あんまり文句を言わなかったと思います。こうあらねばならぬ、と言うことはね。主義主張は、あんまり言わなかったと思います。みんな好きなように、自分の好きなことをやっていたと思います」
すぐ子どもたちを追い出す父親
英子さんのこうした気質と共に、夫の存在も藤井家の子育てに与えた影響は大きい。
歯科医院を開業していた夫は、長男と次男には比較的厳しかった。そもそも2人はよく喧嘩をしていた。
「何か言うこと聞かないと、夫が『外へ出ていけ!』と家からつまみ出す。長男は、そのまま出て行くので靴がない。次男は靴を持って出て行き、公園で遊んでいる。それで探す羽目になり、次男は大変なことになる。一方の長男は『ごめんなさい』言うて、謝って来るから、夫に内緒で『2階へ上がんなさい』って言って」
親さんもよく覚えている。
「何かあると叩かれたりするのではなく、とにかく放り出される。親父は放り出したら、後はもう勝手にって感じで、ほとぼりが覚めた頃に、母親が裏から家に入れてくれる」
テストの点数を見せたことがない
父親は学生時代、硬式テニスで国体に行ったほどのスポーツマンだったが、それを子どもに強制することはなかった。
「子どもは、好きなことをさせたらいい」
その鷹揚さは、妻に対しても同じだった。
「干渉は全然ないです。何かをして文句を言われたことは一度もないし、勉強するにしても何も相談しないし、試験を受けることも何も夫には言ってません。何時から何時まで留守にするとは言いますけど、許可を得て、何かをすることは全くなく、自分の好き放題。それは、気楽に過ごさせてもらいました」
夫は子ども好きではあったが、べったりではない。たまに、子どもと食事に行く程度。藤井家には、程よい距離感が流れていたことを、親さんは感じていた。
「きょうだいも仲がいいとか、誰が好きとかもないし、親もいつも2人でいて仲睦まじいとかもないし、適度な距離感ですね。だからお互い干渉もしないし、何も言わない。それで何か、悪さをするわけでもない」
子育てや生活全般について、夫と意見の相違はなかったと英子さん。親さんは、両親をこうみていた。
「子育てのポリシーとか、親からあまり感じなかったし、こうしないといけないとか、こうなりなさいとか、親から言われたことはなかったです。勉強しろと言われたこともない。だから、私自身も親に点数のことを報告しない。テストの点数なんか、見せたこともないし」
父も母も、子どもの成績にあまり「頓着はない」。
食事は大皿でどん!
何と、おおらかな家庭だろう。食事も大皿にどんと出て来るだけ。取り分けはしない。
「私、基本、大雑把なんですよ。なので、ボーンと出して、あとは食べなさいという感じ。食べられなかったら、もう、その日のご飯はない感じですね」
それは、子どもの側もガッテン承知。
「お皿がどーんと置かれるだけなので、それを自分でちゃんと食べなければ、その日の食事に在り付けない。みんな、やっぱり、生存するためにはどうするかという感じで。そこで、それぞれ強くなるんですかね」
それが、藤井家の暗黙のルールだった。
「何をしても、悪いことでなかったら、親としてはあまり言わなかったですね。習い事もそうです。いつの間にか柔道はやってましたね」
この柔道も強制されたものではないと、親さんは言う。
「母親が『見学に行くか?』となって、見学に行って、やるかやらないか聞かれるから、興味があればやると。これをやらないといけない、というわけではないんです」
適当で大雑把だが、ちゃんと見ている
「適当」、「大雑把」と言いながら、7人の子どもそれぞれの特徴はちゃんと見ている。
「それぞれに特徴がありますし、いいところも欠点もあります。だから、それをうまく利用して、いい点を褒めてやると喜んでやりますし、それはいいことやと思いますよ」
いいところをちゃんと見て、それを言葉で褒める。簡単なようで難しい。でもそれが一番、子どもにいいように思う。
誰が歯科医院を継ぐのか…子どもたちで話し合った
親から何も言われないから、自然と子どもたちで相談することになる。長女、長男、次男の3人が、父親の歯科医院の今後について話し合った。親さんはその話し合いを何となく覚えている。
「親父が跡を継げとも言わないので、じゃあ、誰がなるのかと。兄は『歯医者になるつもりはない』と言って、私も『歯医者は嫌だ』って言いました。姉は一番上で、下とは12も離れているし、いろんなことを目配せして考えるタイプだったので、責任を感じて、『じゃあ、私が歯医者にならないといけないのかな』って。親から言われると言うよりも、自分たちで話し合って決めるという感じでした」
借金は80代になっても残っていた
大学受験についても、どこを受けろと言われたことがない。
「どこを受けたか、後で報告です。それで、何か、言われたこともない。大学に行くのにお金がかかるんだったら、借金してでも払うのが親の務めだと思っているのか、何も言わないでお金を出してくれた。それで、どんだけ借金を背負ったのか……」
76歳で夫が他界してからは、英子さんは一人で返済したわけだが、80代になっても少なからず借金が残っており、90歳にして全額返し終えたという。
「全て、教育資金です」
80代で借金があったら、生きた心地がしない。なのに、英子さんには悲壮感も絶望もない。ただ、「働いて、せっせと返せばいいだけのこと」とサラリと話す。
「へこんだこと、失敗したことって、こんな性格なんで、感じてないんですよ」
この動じないおおらかさは、どこから来るのだろう。英子さんは「何やろ?」と笑う。
「何かしらに興味を持つことは、大切やと思いますね。それに費やす時間を持つことは、その人にとってプラスになると思いますね」
目の前のことに汲汲している日常に、気持ちのいい風が吹き込んだ。英子さんと対面している間、ずっと感じていたことだった。