91歳の現役医師
京都最古の神社の一つと言われる「下鴨神社」の近く、洛北エリアに目指す診療所はあった。
漢方心療内科「藤井医院」は、マンションの4階にあるこぢんまりとしたクリニックだ。91歳の現役医師である藤井英子さんが、2021年11月に89歳で開業。精神疾患の治療をメインに、産婦人科医としての経験も生かし、漢方薬を用いた治療を行う。受付にいるのは、次男の親さん(59)。会社を早期退職して医院の事務を担い、母をそばで支えている。
診察室の扉を開けると、あたたかで真っすぐなまなざしに迎えられた。そこには取材者への、ちょっとした好奇心も見てとれる。さらさらヘアーのボブカットに切り揃えた前髪、つややかな肌に白い歯と、目の前の女性が91歳なのかと改めて思わずにはいられない。白衣の姿は小柄ながら確かな存在感を放ち、眼鏡の奥の瞳は穏やかでやさしく、心がしんと落ち着いていくのを感じる。
91歳の現役医師というだけでも驚きだが、7人もの子どもを産み育てた母でもある。
自分はガリガリになっても食べさせてくれた母
英子さんは1931(昭和6)年、京都で生まれた。6歳で「支那事変=日中戦争」、10歳で「大東亜戦争=第2次世界大戦開戦」を経験、戦争真っ只中に子ども時代を送った。
「旗を立てて、小学校に通っていました。京都でも空襲警報はあって、焼夷弾も落とされました。お米は配給制でした。母が着物と交換するために農家に行き、お米を胴に巻いて買い出しに行ったんです。自分は痩せ衰えてガリガリになっても、私に食べさせてくれました。おかげで、健康優良児として全国表彰されたときの10人の学校代表の一人でした」
母子家庭で一人娘、母は必死に娘を守っていた。医者になりたいと思ったのは、10歳の頃。家の近くに医大生が住んでいて、何となく意識した。また、こんな出来事もあった。母が目眩を起こして倒れ、どうしたらいいかわからず、京大病院に電話をかけたところ、医師につないでくれた。
「先生がどんな具合か聞いてくれて、事情を話したら、『しばらくゆっくり休ませてあげなさい、そうしたら治ります』って言われて、それで安心しました」
夫との意外な出会い
14歳で終戦を迎え、2年後に新制高校2年に編入後、京都府立医科大学に入学、医師への道を歩み始めた。同級生80人中、女性はわずか12人。当時の医学部は大学2年で2度目の入試があり、関門を突破し、卒業後は大学院に進んだ。英文タイプができるという理由で病理学教室に「招集」され、その流れで病理学教室で大学院を修了することとなった。
英子さんはこの教室で、夫となる歯科医と出会う。
「研究生で来ていて、脳の中の神経を染めていて、それは新しい技術で、魅力があるなって見ていたんです。上手にきちんと染めるし」
まさか、神経を染める姿に胸キュンとは。英子さんは28歳で結婚、その後、産婦人科医として勤務しながら、出産もした。
29歳から41歳まで、妊娠・出産・授乳を切れ目なく
1960(昭和35)年に第1子、62(昭和37)年に第2子、63(昭和38)年に第3子、これが次男の親さんだ。66(昭和41)年に第4子、68(昭和43)年に第5子を出産。
第5子を出産した年、客員講師となった。しかしその後すぐ、世話になっていた教授が亡くなったのを機に勤務医から離れ、そこから14年、子育てに比重を置くこととなる。
2年後の1970(昭和45)年に第6子、72(昭和47)年に第7子を出産。英子さんは29歳から41歳までの12年間、妊娠・出産・授乳の日々をほぼ切れ目なく送るのだ。男が3人、女が4人、第1子と第7子は12年、年が離れている。
「子育ては母親がほとんど、手伝ってくれました。母が亡くなって、末っ子だけは私一人で育てたみたいなものですが、それまではよく手伝いに来てくれて、助けてくれました」
次男の親さんも、こう語る。
「どちらかと言えば、僕らはおばあちゃんにずっと育てられた感じです」
英子さんが、そうそうと笑う。
「だから、上の子どもはみんな真面目ですね。母がきちんと育ててくれたので」
親さんがつけ加える。
「なので、下の3人はどっちかと言えば、母親の関与する部分が多いので、性格が似てるんじゃないかな。どちらかと言うとやんちゃな子が多いかもしれないですね」
子育てをしながら漢方と栄養学を学ぶ
家にいる時間が増えたとはいえ、英子さんは専業主婦になったつもりもなかった。
「夫は歯科医院を開業していて、夫の稼ぎだけで子育てしていました。でも、専業主婦になったつもりはないんです。夫の診察の準備をしたり、産婦人科医として頼まれれば地方の病院に行き、入院患者の健康診断を担当したりと、家の用事だけしていたわけでもないんです」
四女が風邪を引き、漢方薬を与えたところ症状が悪化し、副作用で間質性肺炎になりかけたことがきっかけで漢方薬の勉強を本格的に始めた。
「日本では医師免許があれば漢方薬を処方できるので、私の判断で与えたら四女がしんどくなった。中国では、西洋医の先生は漢方を出すことができない。出せるのは、中医の先生だけです。そこで漢方医の先生に聞きながら、ちゃんと勉強しようと思いました」
子育てを通し、栄養学にも興味が出てきたため、女子栄養大学の通信過程で栄養学も学んだ。それは今も、診察に生きている。
「摂食障害の方とか食欲不振の方に、『スパゲティでもサバ缶とかブロッコリーとか入れたら、栄養あるものになりますよ』って話すと、『やってみました』っておっしゃる方もいます」
初めて給料をもらったのは53歳
新たな分野を勉強するために、勤務医に戻ろうと思ったのは51歳の時だ。上の3人はすでに大学生、末っ子は小学5年生になった。
「これで、『自分にも、勉強できる時間があるんちゃうか』と思って、脳神経学への興味から精神医学を勉強しようと、母校の精神科教室に入局しました」
再び勤務医に戻り、「第二北山病院」に精神科医として勤務した時に初めて、英子さんは医師としての報酬を手にした。
「初めて給料をもらったのは、53歳かその辺。産婦人科にいた頃は、副手だったから給料がない。当時は給料が出るのは、助手からだったので。給料ばかりか、ボーナスというものも出るんやちゅうて、初めてもらいましたね」
手にした給料やボーナスの行き先は決まっていた。
「子どもたちの授業料が要るし、別に自分のものを買うわけにもいかないし、お金というものに頓着はなかったですね」
89歳、初めて胃潰瘍を患った理由
子どもたちのうちの何人かは歯学部、医学部へ進んだ。「医者にも、歯医者にもならない」という次男の親さんも大学に進んだ。夫の稼ぎがあったとはいえ、全てが稼ぎだけで賄えるわけがない。
「医大とか歯科大って、高いですもん。授業料とか含めて、いろいろ借金して。夫が76歳で他界してからは、一人で返していました」
英子さんは第二北山病院に勤務後、「うずまさクリニック」の院長として治療の第一線に立ち続け、漢方専門医としても腕を振るった。
なぜ、89歳で開業したのか。
「ある方に『先生、もう90ですよ』って言われたんです。別に年齢のことは頓着なかったんですけど、初めて分かりました。だけど、『何で、年齢で切られないといけないの?』って」
90歳を前に下された、引退勧告だった。
今まで病気一つしないできた英子さんが、この時、89歳にして初めて胃潰瘍を患い、心労と胃痛に苦しむこととなった。親さんはじめ子どもたちは、母をそばで見守っていた。
きっかけは長男のひと言
親さんは言う。
「本人は医者を続けていきたいという意志があるわけですから、じゃあ、どうするか。新たな病院に、勤め直すというのは難しいねと」
整形外科医をしている長男が、ひと言言った。
「ここまで漢方を頑張ってきたのだから、漢方で心療内科や精神科というのはほとんどないのだから、開業して、やったら、どう?」
英子さんは、穏やかなまなざしでうなずく。
「ほんと自然に、こうなって。もう、ふうっと、運んでもらったという感じです」
7人の子どもを育てたからか、患者の症状を「型にはめる」ことはしない。子ども一人ひとりにそれぞれの個性があり、思いもかけぬことをやってくれることは重々経験済みだ。
「患者さんの感じることはいろいろですし、やっぱり聞き出すことが大切やと思います。その人で感じ方が違うから、考えてあげないかんのやなと思います」
何と、優しい診察室なのだろう。心の苦しみをうまく言葉にできない人は少なくない。「やりがいなんてないですが、自分がこうだと思って処方した薬が効いて、具合が良くなったと喜んでもらったら、うれしいですね」
今も週に6日働く
今もクリニックで週4日、京都府の嘱託医として週2日と、週に6日も働いている。通勤は、徒歩とバス。荷物も、自分で全て持つ。食事は同居する次女が、母の健康を考えて作ってくれる。
「いつまで続くかわかりませんが、もう少し、続けたいなあと思っています」
英子さんは患者の声に耳を澄まし、ありのままを受け止める。そこから始まる医師と患者との交流が、今日も診察室では行われている。