急速にユーザー数が増えたChatGPT。もはや学校の現場では生徒が宿題をChatGPTで書いてくるという問題が起こっている。東京都内の公立小学校の教師として20年近く勤務してきた庄子寛之さんは「現時点でChatGPTが書いてきた読書感想文は宿題として通用しない。しかし、使い方次第で、読書のハードルを下げることができる」という――。

ChatGPTが書いた読書感想文に先生はOKを出すのか

ChatGPTがローンチされ、数カ月が過ぎた。新年度に入ってから、急にChatGPTのニュースをよく見る。インパクトが強い一方、まだまだ多くの人は使ったことがないのが現状であろう。そんな中、私は毎日最低でも数分使うようにしている。そこで気付いたことと、これからの学校教育の在り方を考えていきたい。

ChatGPTに「走れメロス」の読書感想文を書かせてみた(WEB版ChatGPT3.5で作成)。

【質問】
私は小学5年生です。私の代わりに太宰治作「走れメロス」の読書感想文を作ってください。

【解答】
はい、承知しました。以下は、太宰治作「走れメロス」についての読書感想文です。

太宰治の「走れメロス」は、友情や信頼、そして人間の強さを描いた名作だと感じました。物語は、国の王様に陥れられた友人を救うために自ら身代わりとなり、死刑を受ける覚悟で走り続けるメロスの姿を描いています。

私たちが生きていく上で、友情や信頼はとても大切なものです。物語の中で、メロスとセリヌンティウスの友情は深まり、最後まで互いを信じ続けました。また、メロスは自分の信念を貫き、最後まで自分の行動に責任を持ち続けました。このような強さや信念を持つことが、人間として大切なことだと思います。

物語はまた、人間の心の闇や、人々の考え方にも触れています。国の王様や役人たちの冷酷さや、人々が陥る根深い偏見など、私たちが生きていく上で避けられない問題が描かれています。しかし、メロスの行動によって、それらの問題を乗り越えることができるという希望を感じました。

物語のラストシーンで、メロスが手に入れたものは、ただ友情や自己責任だけではありません。メロスは、自分自身が生きるために必要な、生きる勇気を手に入れたのです。この勇気は、誰もが持ち合わせているものではありませんが、物語を通して、自分自身に向き合い、強く生きるために必要なものを感じました。

以上が、「走れメロス」についての私の感想です。物語から学ぶことが多く、とても感銘を受けました。

小学生がこの感想文を出してきたら「自分で書いた?」と聞く

どう思われただろうか? 20年近く小学校教員をしてきた身としては、違和感でしかない。

まず、言葉が難しすぎる。小学校5年生は、こんな文章は書けないし、書かない。こんな読書感想文が提出されたら、その子を呼んで、本当に自分で書いたのか聞くであろう。

少女
写真=iStock.com/Hakase_
※写真はイメージです

次に、内容のずれである。「国の王様に陥れられた友人を救うために自ら身代わりとなり……」というのは、メロスではなくセリヌンティウスである。しかし、これは私がこの小説を最後まで読んだことがあるから分かることで、作成した本人はその間違いに気づくことはできない。つまり、書いた文章の整合性をとるためには、自分で正しく学習する必要があるのである。

「ChatGPTを使えば、宿題が早く終わる」とか、「ChatGPTがあれば、勉強しなくていい」というのは明らかに違うことが分かる。

小学校の教師はどう対策をしていけばいいのか?

現在ChatGPTは「12歳以下は使用不可、18歳未満は保護者の許可が必要」という年齢制限がされていて、小学生が自分のアカウントでは使うことができない。だからといって、小学校段階では今までと同じ授業をしていけばいいという訳では、もちろんない。

学習指導要領には、「生きる力をはぐくむ」とある。生きる力とはどういうことなのだろうか? 一人一台タブレット端末が支給されるなど、学校の学びがデジタルに変わる一方、読者のみなさんが何歳であっても、基本的にはみなさんの子供のころと同じ教育がいまだに行われているのが現状である。

つまり、まだまだ学びが「教科書の内容を理解する学び」であり、「社会を生きるための学び」にはつながっていないのが現状ではないだろうか? 少なくとも私は、全国の授業を見てきた中でそう強く感じている。

今は、変化の激しい時代であり、予測不可能な時代である。そんな時代に必要なことは、知識の詰め込みではなく、好きなことにとことん没頭できる力であるはずだと考える。

必要なのは「詰め込み」ではなく「探究型」の学び

小学校の授業で考えてみよう。小学校3年生の学習では、虫について学習する。とんぼの足は、胸から6本出ているが、その知識を詰め込むことは、これからの人生にほとんど役立たない。むしろ、理科嫌いを作ってしまうだろう。

それであれば、とんぼのいる公園でひたすらとんぼをつかまえることの方が、子供たちの学びは深い。とんぼを捕まえるために工夫した経験、時には調べた経験は、これからの人生で役に立つだろう。

そうしているうちに、とんぼに興味をもち、調べる子が出てくるかもしれない。

「先生! とんぼの足って、胸から6本出ているよ!」

なかなかこのようにいかなくても、公園で教師が問いかければいい。

「とんぼの足の秘密について、見つけてみてごらん! さあ捕まえてみよう」

これから多くの児童用タブレット端末もモバイル通信のLTEに対応してくるだろう。公園でその場で調べることもできる。そこで、ChatGPTのような技術を使って、対話しながら調べる学習が当たり前になることも、遠い未来ではないだろう。

公園で地図を見る三姉妹
写真=iStock.com/kokouu
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AIを使いながら「好きなことをとことんやる」時代に

私は、(読み書き計算などの)基礎を学ぶ以外の学習は、選択制にすべきだと考える。好きなことをとことんやる。それは子供たちが「学びが楽しい」と感じるきっかけをつくる。

そこで大切なのは、近くで見ている教師の言葉かけである。「そんなこと調べても将来役に立たないと思うよ」「ちゃんと勉強して」「それ以外の学習もしようか」などの声かけが、子供たちにとって学びをつらいもの、辛抱するものに変えているように感じる。

好きなことについては、とことん調べればよい。ChatGPTのような生成型AIを小学生でも使えるようになる未来はもうすぐそこである。テクノロジーを制限したり、廃止したりするのでなく、それと共存しながら、大人も描けないものを子供たちが作っていけばいい。

よく言われることであるが、計算機がある今でも、子供たちは紙と鉛筆で毎日計算している。計算機があるから計算できなくてもいいと考える人はいない。ChatGPTもそれと同じである。

精度が上がり、ChatGPTがすべて答えてくれる時代が来るかもしれない。しかし、その答えはいつまで経っても100%正しいとは限らないし、自分で考える力は、どんな時代になっても必要であると考える。

本のイメージをつかむにはChatGPTの感想文が有効

改めて、ChatGPTの読書感想文に戻ってみよう。「走れメロス」を読む前に、ChatGPTで読書感想文を書いてもらう。

ChatGPTに読書感想文を書いてもらう
撮影=プレジデントオンライン編集部
・友情や信頼、人間の強さについて書かれた本
・国の王様に陥れられた友人を救うために身代わりとなり、死刑を受ける覚悟で走り続けるメロスの話
・メロスとセリヌンティウスの友情は深まり、最後まで互いを信じ続けた
・自分自身に向き合い、強く生きるために必要なものを感じられる本

この4つの情報で、なんとなく内容のイメージができないだろうか? イメージができている状態で読む本は、とても読みやすい。何も知識がない状態で読む文章よりも、すらすら読むことができるだろう。

読書はとっかかりが難しい。これだけでもChatGPTを使うメリットがある。つまり、ChatGPTを使って0から1を生み出し、人間がこれを10にしていくのが、これからの時代の学び方になってくるのではないかと私は考える。

AIが当たり前の世界を生きるこれからの子どもたち

今、ChatGPTが使えるということは、小学生が大人になる10年後は、もっとすごい技術が生まれていることは間違いないだろう。毎日のようにChatGPTの技術を使った新しい技術が生まれている。ChatGPT自体の精度もどんどん向上している。GPT-4が出たと思ったら、もうすぐGPT-5が出るそうだ。

私も、毎日音声入力でChatGPTを使っているが、まるで会話しているみたいである。画面に人の画像をつけるだけで、ロボットと話している感覚になる。

絵も文字入力で描ける時代。既存の入試問題のようなテストは、写真に撮れば答えが出る時代がもうそこまで来ているだろう。

予測不可能な時代だからこそ大人も子どもに教わる

だからこそ大切なことは「没頭力」であり、没頭できる環境を学校で用意することである。

教師の常識にとらわれず、よく見て、子供から学ぶ。共に成長しようという気持ちで前を歩くのではなく、横に伴走する。そんな授業が必要になってくるのではないだろうか。

そして、その没頭した子供を見て、面白がる力も我々、大人がもつ必要があるだろう。「そんなことをしても何の意味もない」。よく聞くことだが、ほんとうにそうなのだろうか?

これからの時代は誰も予測できない。今日の正解が明日の不正解になる時代である。子供だけでなく大人が一緒に学び続ける。それさえできれば、ChatGPTのような技術を規制するのでなく、使いながら子供も大人も共に成長することができるだろう。

いつまでも大人の常識が正しいという概念を捨てなくてはならない。デジタルネイティブの子供の考えこそ、正解があると思って話を聞くべきだ。教師は「教える師」と書くが、これからの時代は子供から教わるプロになることが、新しい教育において必要な力ではないかと私は思う。