4月22日、20年前の天皇陛下が皇太子時代、イギリスでの留学を振り返って書いた書籍『テムズとともに 英国の二年間』が新装復刊された。神道学者で皇室研究家の高森明勅さんは「天皇陛下がオックスフォードで、まさに青春真っただ中の、しかも日本国内での制約の多くが解除された、キラキラ輝くような貴重な日々をお過ごしになった様子がわかる」という――。
御料牧場内を散策される天皇、皇后両陛下と長女愛子さま=2023年4月5日午後、栃木県高根沢町
写真=時事通信フォト
御料牧場内を散策される天皇、皇后両陛下と長女愛子さま=2023年4月5日午後、栃木県高根沢町

天皇陛下の青春の記録

天皇陛下のご著書『テムズとともに 英国の二年間』が去る4月22日、学習院創立150周年記念事業の一環として新装復刊された。この本は、もともと学習院教養新書の1冊として平成5年(1993年)に刊行されていた。刊行当初に拝読した時の清新な印象は、今も鮮やかだ。

本書が初めて出版された当時、天皇陛下は「皇太子」というお立場だった。さらに、本の中で扱われた英国オックスフォード大学での留学経験は昭和58年(1983年)から同60年(1985年)までのことで、まだ皇太子になられる前、浩宮ひろのみや殿下と呼ばれていた頃のご経験だ。

まさに青春真っただ中の、しかも日本国内での制約の多くが解除された、キラキラ輝くような貴重な日々を(天皇陛下ご自身はそのことを、本書の中で「おそらく私の人生にとって最も楽しい」一時期、と表現されている)、ご自身の筆によって一書にまとめられたのが本書だ。

著者名は「徳仁親王」

前近代を含めて代々の天皇はしばしばご著書を残しておられる。君主ご自身の手になる著書が決して珍しくないというのは、わが国の皇室の目立った特徴かもしれない(『皇室文學大系〔もとの書名は『列聖全集』〕』、和田英松氏『皇室御撰ぎょせん之研究』、『皇室事典』所収「天皇・皇后著作一覧」ほか参照)。

しかし、このような躍動感あふれる青春の記録が天皇ご自身のご著書として刊行されるのは、これまでに例のないことだ。

著者名として「徳仁なるひと親王」とある。今はもちろん「親王」ではなく「天皇」だ。だが、皇太子(=親王)時代のご著書の復刊であることから、旧版のままにされているのだろう。若々しい内容に照らしても、まことにふさわしく感じられる。

「寮の部屋ごと記念に持って帰りたい」

オックスフォードでの日々が、天皇陛下にとっていかに特別なご体験であったかは、ご留学を終えられるにあたり、「(留学期間に暮らした)寮の部屋ごと、記念に持って帰りたい心境です」とおっしゃった事実によく示されている(八牧浩行氏『文藝春秋』令和元年[2019年]11月号)。

将来、「皇太子」「天皇」になられる以外の選択肢がないご生涯において、おそらく二度と経験される機会のない瞬間が、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた2年間を、陛下は英国で過ごされたのである。

英国議会開会式で感じられた議会政治の理念への共感

本書を初めて読んだ時に、冒頭近くに出てくる次のような記述に強い印象を受けた。それは、天皇陛下が昭和58年(1983年)6月21日にロンドンに到着された翌日に、英国議会の開会式の様子を初めてご覧になった時の描写だ。

「式は、エリザベス女王陛下、御夫君ごふくんのエディンバラ公フィリップ殿下のご臨席のもとに、上院(貴族院)においておごそかに行われた。まず、きらびやかな礼装に身を包んだ上院議員が整列する中、きわめてフォーマルな装いの女王陛下とフィリップ殿下が入場される。やがて、女王陛下からの使者が下院(庶民院)に赴き、発声とともにドアを叩く。下院では開けたドアを使者の前で閉めてこれを拒絶すること二回、三回目にようやく開け、下院議員が上院に向かう。いわば女王陛下の使者に三顧の礼をつくさせるわけであるが、私はこの一連の所作に、ピューリタン革命にまで遡る、王権から自立した、議会を主体とする政治の理念が表されている思いがした。ほどなく式場に現れた下院議員の服装は平服である。その中には、サッチャー首相の姿もあった」

上院議員の貴族たちは「きらびやかな礼装」であらかじめ議場に整列してエリザベス女王陛下、フィリップ殿下をお待ちする。一方、民意によって選ばれた下院議員たちは、あらかじめ整列するどころか、女王の使者の呼び出しを二度までも拒絶。三度目にやっと応じるも、フォーマルな装いの女王陛下の前にもかかわらず、平然と平服で姿を見せるという。

これはもちろん、お約束に基づく儀礼的なパフォーマンスだが、当時、23歳だった天皇陛下はその様子をご覧になって、「王室に対して何と非礼な態度か」と不快に思われるのではなく、逆に好感を持たれたようだ。「王権から自立した、議会を主体とする政治の理念」への共感が伝わる記述になっている。

天皇陛下ご自身が、普通には「王権」側の人間と見られかねないお立場であることを考えると、このような記述から、かねて身につけておられた民意を尊重し、議会政治の理念を大切にしようとされるご姿勢を、読み取ることができる。

テムズ川河畔のウェストミンスターにある英国会議事堂
写真=iStock.com/gianliguori
※写真はイメージです

ロンドン警視庁が警護官を派遣

天皇陛下が英国で過ごされた2年間を、日本国内におられる時には考えられないほど自由な日々にした見逃せない条件の一つとして、現地の警察官が陛下の身辺警護にあたった、という事実を挙げることができるだろう。

もちろん、陛下をさまざまな面でお支えするサポート態勢は、日本側で整えていた。しかし、常にお側に張り付く警護官は、現地のロンドン警視庁から派遣された警察官だった。

このことは、陛下が普通の学生生活に少しでも近い自由を満喫されるために、大きな意味を持ったはずだ。

もし日本側が警護を担えば、どうしてもしゃちこばって任務にあたる。そうすると、陛下ご自身のご希望とは関係なく、現地の学生や市民なども特別扱いをしてしまう場面が増えたのではないだろうか。

ところが派遣されて交替で警護についた二人の現地の警察官は、陛下がなるべく自由に振る舞えるような対応を見せたらしい。

ディスコで入店を拒否された

たとえば、本書には次のような場面が描かれている。学生仲間と市内のディスコに繰り出された時のご経験だ。

「ここでも傑作な経験をした。土曜日の晩と記憶しているが、私はいかにもディスコが好きそうなMCR(ミドル・コモン・ルーム=大学院生の自治会)のある男性と一緒にとあるディスコに入ろうとして、入口で差し止められてしまった。理由を聞くと、ティーシャツやジーンズではその晩は入れない由である。ちなみに私がジーンズ、友達がティーシャツ姿であった。さらにその人(店員)は私たちの後方にいた警護官を指差し、『あなたは結構です』と言った。彼はネクタイこそしめていなかったが、ブレザー姿であったから許可されたのであろう。オックスフォード滞在中は、可能な限り他の学生と同じでありたいというのが私の本心であり、自分が誰かを名乗るなどとんでもない話である。素直にそのままあきらめて帰った」

この場面で、日本側が身辺警護にあたっていたら、どのような対応をしただろうか。ロンドン警視庁の警察官は“連れの仲間”風のブレザー姿であり、店員の拒絶にも介入せず、陛下ご自身の判断を尊重している。私の勝手な想像ながら、こうした対応は、日本側の警護では期待しにくいのではあるまいか。

こうしたロンドン警視庁の流儀が、陛下の現地での生活をより自由で学生らしいものにするために、大いにプラスになったはずだ。

ジーンズ姿の陛下に日本人観光客が「ウッソー!」

陛下はオックスフォードご滞在中は、なるべくジーンズなどラフなスタイルで外出されていたという。そんなある日のこと。バッタリ日本からの観光客と出会われた。その時の観光客の反応を次のように記されている。

「私と顔を合わせた日本からの観光客も最初は目を疑ったらしい。若い女性から目の前で『ウッソー!』と言われた時は、『ウッソー!』の本義を知らず、どう反応していいか迷った」

日本からの観光客なら、ジーンズ姿の陛下と出くわせば、誰でもわが目を疑うだろう。ここでも陛下は「『ウッソー!』の本義を知らず……」と生真面目に振り返っておられる。しかし、それが何ともユーモラスだ。

テムズ川の水運史を研究

本書では、オックスフォードでの学生生活、映画・演劇・音楽鑑賞、仲間などと自らヴィオラを演奏されたこと、ボート・テニス・スカッシュ・ジョギング・登山・スキーなどのスポーツに打ち込まれたご経験、さらに英国王室とのご親交やヨーロッパの他の王室とのご交際などについて、多彩な記述が見られる。

もちろん、ご留学なので生活の中心は学問研究だ。しかし、それを初めから書き連ねると読者が辟易へきえきするかもしれないと配慮されたのか、その記述は終章を含めて全10章ある章立てのうち、終わり近くの第8章に配されている。本書執筆当時はまだ30歳代前半だった陛下が、かくも周到な編集者的配慮を示しておられたことに、失礼ながら少し意外な印象を受ける。

しかし、それまでいかにも楽しげな学生生活、芸術・スポーツなどへの取り組みをめぐる描写を読み進んで、いよいよ研究生活の叙述に踏み込むと、多くの読者は驚くはずだ。これほどまでに精魂を込めて研究に打ち込んでおられながら、よくぞ多彩なご活動と両立できたものだ、と。

陛下は、英国でもそれまで研究が手薄だった「17~18世紀における英国テムズ川上流での河川工事や物資流通の実態」について、深く研究された。これについては、後のご著書『水運史から世界の水へ』(平成31年[2019年])にも、研究のプロセスと成果が書き込まれている(第4章・第5章)。

陛下はその後、「世界の水問題」へと問題関心を広げられ、今や海外の水問題の専門家からも広く尊敬される存在になっておられる。自ら選んだテーマを徹底的に深く掘り下げるご態度は、このご留学経験の中で学ばれたものだろう。

「このまま時間が止まってくれたら」

いよいよ留学を終え、英国を離れなければならない日が近づいた頃のことについて、次のような記述がある。

「日々の生活の中でも……このようなことがあと何回できるか少しずつ考えるようになっていた。日々繰り返すたとえどんな小さなことでも、その一つ一つがひじょうに大切なもののように思えてきた。……(オックスフォードの)どんな小さな通りにも、広場にも、私の二年間の思い出はぎっしりと詰まっているように思われた。再びオックスフォードを訪れる時は、今のように自由な一学生としてこの町を見て回ることはできないであろう。おそらく町そのものは今後も変わらないが、変わるのは自分の立場であろうなどと考えると、妙な焦燥感におそわれ、いっそこのまま時間が止まってくれたらなどと考えてしまう」

僭越ながら、この時の陛下のお気持ちを拝察すると、胸が締め付けられるような思いがする。

「自由は2年間じゅうぶんに堪能しました」

陛下は英国からご帰国の途次、米国に立ち寄られた。この頃、日本のメディアは「ひょっとすると米国のどこかでお見合いをされるかもしれない」などと考えて、陛下を執拗しつように追い回していた。

徳仁親王『テムズとともに 英国の二年間』(紀伊國屋書店)
徳仁親王『テムズとともに 英国の二年間』(紀伊國屋書店)

そんな時、ニューヨークで陛下に取材したある新聞記者が、ついいたたまれなくなってお詫びした。

「殿下(天皇陛下)、申し訳ありません。かけがえのない自由を楽しまれておられる時間にお邪魔ばかりしておりまして」と。

すると、天皇陛下は微笑を浮かべられて、きっぱりと次のようにおっしゃったという。

「いいえ、自由は二年間オックスフォードでじゅうぶんに堪能しましたから」と。

陛下のこのようなお答えに記者は強く心を打たれ、後に以下のような感想をしたためている(産経新聞、平成5年[1993年]1月31日付)。

「たった二年間の自由。それだけでじゅうぶんに堪能したといわれる殿下。この返答には今後は天皇家のご長男としてひたすら国民のことだけを考えて『天皇の道』を歩まれる『覚悟』が示されている。もう自分の人生に自由はない。二十五歳の青年が示したなんと壮絶な『覚悟』ではないか」

天皇陛下の今の願い

この度、本書の復刊に際して、天皇陛下は新しく「復刊に寄せて」という一文をお加えになった。そこにはこんな文章が記されている。

「遠くない将来、同じオックスフォード大学で学んだ雅子とともに、イギリスの地を再び訪れることができることを願っている」

一人の国民として、陛下のこの願いが近くかなうことを望む。