2023年1月実施の大学共通テスト・倫理で「親ガチャ」や「生まれながらの格差」をテーマにした問題文が出された。哲学研究者の谷川嘉浩さんは「問題で展開されている議論の方向性が正しいとすれば、私たちに必要なのは『成功する理由は運か努力か』という二者択一から降りることだ」という――。
大学入学共通テストに臨む受験生
写真=時事通信フォト
大学入学共通テストに臨む受験生=2023年1月14日、東京都文京区

難関大学合格の理由は実力だけなのか

実力も運のうち——。それを言うなら「運も実力のうち」では? いやいや、「実力も運のうち」という言葉も正しい気がする。この逆説的な言葉には、かえって一片の正しさが含まれているんじゃないか。

「実力も運のうち」は、『これからの「正義」の話をしよう』、『それをお金で買いますか』などのヒット作で知られるハーバード大学の哲学者、マイケル・サンデルの日本語版書籍のタイトルだ。実力は必ずしも個人の問題ではないという意味である。

ピアノができる、難関大学に合格する、数学ができるといった「実力」について考えてみよう。これは、どのような意味で「運」の問題と言えるだろうか。金銭的に苦しい家庭に育った人は、ピアノに挑戦する機会を持つことも難しいだろうし、ピアノに運良く出会えていたとしても、音楽に割きたかった時間や労力を、生活費や家事に向けざるをえないかもしれない。

入試や数学の場合も同じことが言える。勉強する姿を馬鹿にする家族や友人に囲まれて育っていれば、勉強する習慣を持つことが難しくなり、難関大学の受験を考えることすらしないかもしれない。塾に通えないかもしれない。数学は楽しいと思わせてくれるような教員と出会わなければ、数学への情熱を持つことがないかもしれない。ここには、「運要素」がある。

「実力」はそれを可能にする環境に左右される

もっと端的な想像をしてみよう。2022年や2023年のウクライナで10代を過ごしていたらどうだろうか。ロシアによる侵攻で、暮らしや社会環境が脅かされているとき、ピアノの上達も、難関大学合格も、数学への情熱も脇に置かれてしまうかもしれない。

加えて、環境の助けがあって首尾よく自分の資質を育んでいけたとしても、それが公平に評価されるとも限らない。2018年以来、複数の大学で発覚した医学部・医大の不正入試問題を思い出すといい。試験や競争は、必ず公平な評価をもたらすわけではない。

さらに悪いことに、評価に無意識的な偏見が作用することもある。例えば、行動経済学者のイリス・ボネットが指摘するように、同じ経歴や言動を提示されても、女性であるというだけで無意識的なバイアスがかかり、男性よりも評価されない傾向にある(※1)。「実力」は、それを可能にする環境や関係に、つまり「運」に左右されるものなのだ。

「努力は報われる」と思えること自体が環境のおかげ

「実力も運のうち」に似た言葉が、2019年にも話題を呼んだ。東京大学名誉教授の上野千鶴子さんによる学部入学式祝辞だ(※2)。わかりやすく印象深いので、少し長めに引用しておこう。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。
そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。
世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと…たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

ここで批判されている社会のあり方は、しばしば「メリトクラシー」と呼ばれ、この言葉は「功績主義」や「能力主義」と訳される。

メリトクラシーは、生まれ持った家柄や階層などに依存する身分社会や階級社会に比べて、競争と個人の能力に依存するだけフェアだと考えられていた。しかし、すでに見たように、「能力」や「功績」が素直に個々人だけの問題だと言えず、公正とは言えない。メリトクラシーに問題があるとすれば、私たちは努力や成功をどう考えればいいのだろうか。

2023年大学共通テスト「倫理、政治・経済」問題用紙より
2023年大学共通テスト「倫理、政治・経済」問題用紙より

大学共通テストに出たメリトクラシーの問題

2023年1月の共通テストの本試「倫理」でも、メリトクラシーの話題が登場している(科目名は「倫理、政治・経済」だが、ここでは「倫理」と表記する)。「倫理」の問題文には、学生たちがメリトクラシーについて対立する考えを語り合う会話文が登場する。私なりにわかりやすくまとめると、大体こういう内容だ。

「金持ちの子どもは運がいいな」
「親を子どもは選べないんだから、問題は子どもが努力するかどうかでしょ」
「親が子どもの教育機会を提供するわけで、子どもの教育は経済的な格差と連関するから、社会が埋め合わせないといけないんじゃない?」
「そうかもしれない。でも個人の努力は評価すべきだよね」
「それはそう。でも、努力する習慣が生まれるかどうかは個人の問題にならないんじゃないかな。どういう学校環境だったか、どういう先生に出会ったかとか」
「なるほど。ただ、努力する人が尊重されないのはフェアじゃないよね……」

「努力」か「運」、どちらの立場が正しいのか?

共通テストの中では、明確な結論は出てこない。教員役も登場するが、明確な考えを提示せずに「いい話」風にまとめて話を終えている。では、結局どちらの見解が正しいのだろうか。

どの親の元に生まれるのかを選べないのだから、結局すべては偶然にすぎないのではないか。いやいや、どんなところでも努力ができるはずでは? いや、その努力への意欲や習慣形成も、(家庭・学校・地域・社会などの)環境のなせる業なのだとすれば、やはり運では……? だとすると、努力しても仕方がないのか。

運を否定せずに努力を認める道もある

博報堂生活総合研究所の定点調査「生活定点1992-2022」の言葉を借りるなら、ここにあるのは、「運・ツキ派」と「努力派」の分断である。共通テスト「倫理」で交わされた会話のすれ違いは、成功や功績は社会構造や家庭環境などの偶然性に左右されるという「運・ツキ派」の見方と、成功や功績の原因は個人の努力や意欲にあるという「努力派」の見方のすれ違いを表している。

だが、問題なのは、どちらの見方もそれなりに正しいと感じられるところではないか。「倫理」で会話している人物たちも、「どちらもそれなりに正しい」と感じている節がある。両方それなりの適切さが含まれるからこそ、この問題に関する考察は、ぐるぐると回ってどこにも辿り着かないのだ。

膠着こうちゃく状態に入ったときの定石は、対立する立場が共有する「議論の方向性」に目を向けることだ。会話者たちは、〈運か努力かという問題において、運(環境)が役割を果たしていることは否定しえない〉と認めながら、その上で、〈努力(学習)を通じた卓越化については放棄すべきではないと言えないか〉という方向性で考えを進めようとしている。

この議論の方向性が正しいとすれば、私たちに必要なのは、「運か努力かという二者択一のどちらを選ぶのが適切か」というディベートを降りることだ。そのとき、手中にある対比に乗って考えてはいけない。運か努力かという対比を、別の対比にずらさねばならない。では、それはどんな対比だろうか。

序列化はよくないが、努力や意欲を否定する必要はない

この問題系に対して、教育社会学者の本田由紀は、「垂直的序列化」と「水平的多様化」を概念的に区別するとの提案をしている(※3)。ここでは、それぞれを単純に「序列化」と「多様化」と呼ぶことにしよう。

メリトクラシーの何が問題なのか。問題は、一元的な基準で人間を測り、優劣をつけて、その人を「功績」や「能力」で定義していく「序列化」にある。序列の決定には運という要因が無視できないほど大きい上に、違う評価基準で見れば人の序列は簡単に変わっていく。それにもかかわらず、この社会では特定の一元的な序列、人間たちの優劣や価値を決めている。

なるほど、「序列化」は問題かもしれない。だとすれば、何かを身につけ、知ろうとすることは無駄なことなのだろうか。もちろんそうではない。「序列化」は避けねばならないが、個々の人間や仕事を尊重し、そのあり方に応じて知識やスキル、関心を形成しようとする「多様化」はむしろ奨励されるべきだろう。地道に努力し、学習を積み上げ、その達成を味わい、そこに自分なりの矜持を持つことには、特に非難されるべきところはない。

序列化・多様化

序列化に抵抗し、多様化を推進する難しさと魅力

共通テストの会話に応答をするとすれば、「一元的な基準での序列化はダメだけど、多様な卓越性を追求していけるといいかも」というところだろうか。もちろんこの答えも完璧なものではない。

「多様な選択肢から可能性を選びとる余裕があるかどうかは、やはり経済的な豊かさと関係するのでは?」などといった反論もありうるだろう。それに、他人のやっていることを自分もやってみたいと思うのも、マウントをとったり嫉妬したりするのも人間の避けがたい感情だろう。このことを考慮すれば、「序列化」に抵抗し、「水平的多様化」を実装するために取り組むべき課題は膨大であるように思われる。

それでも、これらの概念には魅力的な奥行きがあり、諸々の現代的な論点へと通じている。例えば、「多様化」は、他者および自分に対する気遣いを意味する「ケア」という論点につながっているし、「序列化」は、自己完結的な感覚を強化し、他者を出し抜いていくという自己啓発・ファスト教養文化の問題点につながっている(※4)

共通テストはどんなメッセージを発しているのか

共通テストをきっかけにして文章を書いてきたので、最後に、なぜ共通テストが注目に値するのかという点について触れておきたい。それは、共通テストの出題者が、受験生への、ひいては社会への批評的介入を行っているからだ。少なくとも、そうした深読みを誘う問題がしばしば登場する。

2023年の「倫理」では、努力を積み重ねてテストに臨んでいる受験生に対して、「いや、それは単純に努力だけの問題とも言えないんだ」という視点を、ほんの一瞬提示している。それは、東京大学という高偏差値の大学の入学式で、あえて冷や水を浴びせかけるような社会学的視点を口にした上野千鶴子さんの姿勢とも重なる。自分の認知を揺さぶるよう促しているのだと言ってもいい。

2年前の「国語」にも問いかけがあった

「倫理」に限らず、共通テストにはしばしばこうしたメッセージが読み込める。私個人の印象に残っているのは、2021年の第二日程(追試)「国語」で出題された、津村記久子さんの「サキの忘れ物」という短編小説だ。

入試問題

主人公は、高校生活に何の意欲も持てなかったので中退し、今はカフェでアルバイトをしている。家族の中でも居場所がなく、友だちには都合よく扱われ、特に趣味もない。実直で不器用なあまり、自分の疎外感すらうまく言語化できないでいる。

受験生のただなかに、所在なさげな高校中退者のイメージを差し込んでいるのだ。私としては、作問者のメッセージ(批評的介入)をここに読み取りたくなる。「多くの受験生からは縁遠く思われるかもしれない境遇の人も、同じ受験会場やその他の場所にちゃんと存在しているし、そういう人のことを想像の外に置いてほしくない」というメッセージだ。

設問を深く読み込むことこそが大切

ついでながら、出題された小説には、「国語の文章を読むことに意味を感じる人は、実際のところどう感じながら読んでいるのか」ということをメタ視点で解説してくれている箇所も出てくる。

初めての本屋で緊張しながら文庫本を買うことになった主人公は、この本が「おもしろくてもつまらなくてもかまわない」、「それ以上に、おもしろいかつまらないかをなんとか自分でわかるようになりたい」と思っていた。しかし実際に読んでみると、本は「予想していたようなおもしろさやつまらなさを感じさせるものではない」と発見させられる。

「これが文章に触れるということだ」「こういうことを『国語』を通じて感じてほしい」という出題者の声が聴こえてくるようだ。問題文を読んで「なるほど」と思うのか、「説教くさい」と思うのかはさておき、ここから言えるのは、私たちが「設問」を通じて、二重に「問題」を投げかけられているということだ。つまり、具体的な問題に解答していくこと、そして、設問の背後に批評性(メッセージ)を感じ取ること。

メタなメッセージを読み取れるか

「問題文に批評性を読み取るのは、単なる深読みにすぎない」と言われたらそれまでかもしれない。しかし、私たちの生きている社会に、整理されていて取り扱いやすい「設問」はあるだろうか。私たちが日々直面しているのは、いつも不明瞭で多角的な解釈を許す現実だ。

そうはいっても、いきなり曖昧で難しいことに取り組むことほど疲れることはない。簡単なところから練習したっていい。そう考えると、問題文からメタメッセージを読み取る習慣には、乱雑で整理されない現実に向き合う私たちにとって、侮ることのできない可能性があると言えないだろうか。これもまた、単なる深読みにすぎないかもしれないけれど。

※参考文献
1)イリス・ボネット著『ワークデザイン 行動経済学でジェンダー格差を克服する』(NTT出版)
2)「平成31年度東京大学学部入学式 祝辞
3)本田由紀「解説」、マイケル・サンデル著『実力も運のうち』(早川書房)、本田由紀著『教育は何を評価してきたのか』(岩波新書)
4)キャロル・ギリガン著『もうひとつの声で』(風行社)、谷川嘉浩著『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、レジー著『ファスト教養』(集英社新書)